テーマ:関ヶ原の戦い

日本史の「トホホ」30 人望なくば戦も勝てず

~とりわけ有能な官僚だが、武将としては戦下手~ 戦国時代の武将・石田三成(1560-1600年)に対する現代人の平均的な評価は 概ねのところこのあたりに落ち着きそうです。 戦争戦闘の類が得意ではなかったのは確かなようで、そのことは実質的な 大将デビュー戦となった「忍城の戦い」(1590年)でも例外ではありません でした。 …
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日本史の「数字」02 西暦ちょっきり年の出来事

豊臣秀吉(1537-1598年)亡き後の天下を決するべく「関ヶ原の戦い」が 繰り広げられたのは、安土桃山時代の慶長5年9月15日でした。 この年を西暦に直せば、下二桁が00の1600年、つまり今回の タイトルにある「西暦ちょっきり年」に当たります。    関ヶ原の戦い(1600年) 幾分苦しい語呂合わせを必要とするラ…
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日本史の「陰謀」26 誘惑されて棄てられて

「豊臣秀吉の子飼いの家臣」といえば、まあ大抵は福島正則(1561-1624年)や 加藤清正(1562-1611年)あたりの顔が浮かぶものです。 もっとも、筆者の場合は直接にお会いしたことがないこともあって、むしろ 「(顔より)名が浮かぶ」と表現した方が適切かもしれません。 じつはこの二人の主家・豊臣家に対する忠誠心は主君・秀…
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日本史の「付録」04 頂上決戦は伝統の原っぱで

現在の行政単位では、その東西十数Kmに渡るエリアを、西から 「岐阜県不破郡関ケ原町」、中央部が「同県不破郡垂井町」、そして、 東域を「同県大垣市」というように厳密な区分けをしていますが、おそらく 昔はこのあたり一帯は丸ごと「広い広い一面の原っぱ」ほどの印象だったと 思われます。 事実、この「一面の原っぱ」の西域を「関ヶ原」…
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