日本史の「例外」04 天才武将暗黙のお約束

天才武将、天才軍人、あるいはそれに似たイメージで語られる人物は 日本史の中にも少ならからず登場しています。 具体的な名を挙げるなら、平安時代末期の源義経(1159-1189年)もその一人 でしょう。 殊に平家相手の「一の谷の戦い」(1184年)、「屋島の戦い」(1185年)、 さらには、その平家を滅亡に追い込んだ「壇ノ浦の…
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日本史の「陰謀」30 正義はいつもサジ加減

国政の根幹に関わる問題であり、またそこに外国事情までが重なっていたこと もあって、その後の展開にいささかの複雑さを呈したのが、対馬藩による 国書偽造事件「柳川一件」でした。 第三代将軍・徳川家光(1604-1651年)の治世において告発されました。 これよりはるか昔のこと、聖徳太子(574-622年)が送った国書に対する …
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日本史の「言葉」30 どちりいな・きりしたん

日本人初の「キリスト教徒」はどなたか? 史料で確認できる範囲に限れば、それは「ヤジロウ(弥次郎)/ 洗礼名アンジロー?」(1511年頃?-1550年頃?)だとされています。 あの有名な宣教師フランシスコ・ザビエル(1506年頃?-1552年)の 通訳も務めた人物です。 宣教師と通訳、この二人の関りはこのように説明されていま…
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日本史の「数字」04 三明治人って誰のこと

戦国乱世を終焉に導いた以下の三人を、筆者の生息地(名古屋)では、 「郷土の三英傑/戦国の三英傑」として地元・名古屋祭りの主役に迎えて います。 そのパレード「英傑行列」(10月)は例年人気を集めていますが、ただし、 本年は新型コロナのせいで早々に中止が決定されてしまいました。 さて「郷土の三英傑」、その顔ぶれはこうなってい…
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日本史の「怪人」22 史実彷徨さらさら越え

本格的な登山シーズンを迎えながらコロナ禍の影響で出かけられないアル ピニストも多かろうという配慮からでしょうか、筆者の生息地(名古屋)の 地元紙・中日新聞(2020・6・5/朝刊)が史的伝説「さらさら越え」を取り 上げました。 歴史好きには少しは知られたお話です。 その見出しには~佐々成政 真冬の北アルプス踏破伝説~とあり、…
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日本史の「災難」15 歴史対談コロナに散る

新型コロナウイルス感染が次第に拡大の方向へ進んでいた時期だったことも あって、その開催に一抹の不安を感じながらも、申し込みだけは早々に 済ませておきました。 歴史研究家という肩書が最適なのかどうかは分かりませんが、ともかく、 二人の先生による対談会形式による講演会です。 ところが、こうしたイベント自体が基本的に密閉・密集・…
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日本史の「アレンジ」22 ローカル風味の士農工商

孔子(前552?-前479年)に始まった「儒教」を新たな形で体系化・発展させた 「新儒教」ともいうべき思想は、その創始者の名を取って「朱子学」と呼ばれ ました。 中国南宋・朱熹(1130-1200年)、つまり「朱子」(朱先生)による 新学問ということです。 じつはこの思想は、日本にも割合早い時期に伝わっており、たとえば、 …
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日本史の「油断」11 乱世終えたら麒麟がくる

最終回まで一年の長丁場という理由もあって、大河ドラマにはこれまで あまり関心を寄せていませんでした。 ところが本年は放送直前に主要配役の一人を演じる女優さんの不祥事、さらに その後には新型コロナウイルスの影響などがあって、何かとその行方に注目 させられました。 そこで、ついでのことに今回、その大河ドラマ「麒麟がくる」の主人…
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日本史の「ツッパリ」27 事前情報は留め置きに

代将マシュー・ペリーが率いる蒸気船2隻を含む艦船4隻のアメリカ海軍が 浦賀に姿を現した事件を一般的には「黒船来航」(1853年)と言い、そして またこの事件から明治維新に至る期間を「幕末」と呼んでいます。 ~泰平の眠りを覚ます上喜撰たつた四杯で夜も眠れず~ その幕末の黒船来航の折の日本側の対応ぶりを揶揄した狂歌です。 ただ…
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日本史の「落胆」07 戦国布教は花咲かず

未知の宗教であったキリスト教を日本に初めて伝えたのは宣教師 フランシスコ・ザビエル(1506-1552年)でした。 1549年に鹿児島に到着して以後、平戸、山口、京となどでその布教活動に 努めたとされています。 もっとも、ガチガチの一神教であるキリスト教の教えを日本に広めるには 多くの苦労が伴ったのは事実でした。 元から…
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日本史の「微妙」15 江戸出版界の異色仕掛人

江戸後期の浮世絵師で戯作者である山東京伝(1761-1816年)は 「手鎖50日」の刑(1791年)を申し渡されたことがあります。 牢に収監されるほどの重罪ではないとされたものの、出版統制を破った ことがその理由でした。 じつはこの際に咎めを被ったのは作者・京伝だけでなく、出版元の蔦屋重三郎 (1750-1797年)も連座…
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日本史の「信仰」17 初めに東と西があった

昔々の大和民族は太陽を特別な存在として崇める信仰心を持っていたと 考えられています。 そのことは、民族の長である大王の祖先神の名が「空を照らす神サマ」と いう意味を備えた「天照大神」、つまり太陽神であることも一つの裏付けに できそうな印象です。 東から上って西へ沈む・・・まあ、よほど特殊な事情がない限り、太陽は 日々この…
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日本史の「トホホ」30 人望なくば戦も勝てず

~とりわけ有能な官僚だが、武将としては戦下手~ 戦国時代の武将・石田三成(1560-1600年)に対する現代人の平均的な評価は 概ねのところこのあたりに落ち着きそうです。 戦争戦闘の類が得意ではなかったのは確かなようで、そのことは実質的な 大将デビュー戦となった「忍城の戦い」(1590年)でも例外ではありません でした。 …
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日本史の「ペテン」02 騙しが築いた和平の価値

日本史の中には「南北朝時代」という時代区分があります。 念のためですが、言葉は似ているものの「南北朝鮮時代」という隣国の 歴史のことではまったくなく、日本史における以下の時期を指しています。 ~皇統が南朝と北朝に分裂抗争した1336年から両朝が合一した  1392年までの 57年間をいう~ その分裂抗争となった経緯はこんな…
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日本史の「忘れ物」29 先人たちの計算技術

整理中の古い写真の中に「算額」が写ったものが混じっていました。 どこぞの神社か寺院で撮ったものでしょうが、よく思い出せません。 ところが、そんな折にたまたまこんな説明を目にしたのです。 ~算額(さんがく)とは額や絵馬に数学の問題や解法を記して、神社や  仏閣に奉納したものである~ あぁ、そうすると、ここに写った直線や円弧な…
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日本史の「微妙」14 朕は五世の孫なるゾ

~正統性の根拠は血統にある~ 日本の歴史の中に、こうした場面を見ることも少なくありません。 ~なんでお前が偉いねん?~ その答えがこうなるケースのことです。 ~決まっているではないか、ボクは正統な血統にあるからダ!~   神武東征 なに、日本史にそうした傾向があること自体に気が付かなかったってか。 そんなメッタヤタラ…
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日本史の「数字」03 ちゅうちゅうたこかいな

地域主催のイベントで参加してくれた幼な子たちに小さな袋に入った飴玉を 渡すことになりました。 おチビ様お一人につき10個づつの計算です。 そして、その土産を手渡す役を仰せつかったのが、なんと筆者だっだのです。      飴玉 / ちゅうちゅうたこかいな 御近所の方々の目線もあるので、普段の無愛想を貫くわけにもいきません…
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日本史の「大雑把」04 外様の朱子学逆手取り

江戸時代に諸藩が国許と江戸を行き来したいわゆる「参勤交代」の 大名行列は、決して京を通過しなかったし、また京で宿泊することも なかったそうです。 もっともこれは京付近を経由する必要があった西国の大名行列に限ります。 京より東に位置する諸藩がさらに東の江戸を目指すのに、わざわざ西に 戻る形で京を迂回通過する必要はありませんからね…
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日本史の「事始め」20 古を推せばトップは女性

歴代天皇の男女比を眺めれば、一目瞭然で男性天皇の方が多い。 相当な迂闊者でもそれには気が付くほどですが、しかし、いかに少数派の 女性天皇とはいえ、その中の誰か一人には「史上初の女性天皇」という 称号?冠されるはずです。 そして、その「史上初の女性天皇」と冠された方を我々現代人は普通 「推古天皇」とお呼びしています。   …
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日本史の「列伝」13 戦国諜報員は悠々自適

「本能寺の変」(1582年)によって、織田家は絶対的な権力を有していた 織田信長(1534-1582年)と、その後継であった嫡男・信忠(1557-1582年) を一挙に失ってしまいました。 ではこの後の織田家をいったい誰が継承したらよいものか?   織田信雄 家臣団の挙げた候補者は信長次男・信雄(1558-1630年)…
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