日本史の「ライバル」02 武士政権七百年の夜明け前

いわゆる「武士政権」を最初に立ち上げた人物として、普通は平安時代末期に
活動した平清盛(1118-1181年)の名が挙げられ、その仕組みを所在地の
名称から(京の)「六波羅政権」という呼び方もしているようです。

さて、これを「最初の」とするからには、当然その続きもあるわけで、確かに
これ以後は源頼朝による「鎌倉幕府」、足利尊氏による「室町幕府」、そして
徳川家康による「江戸幕府」へと引き継がれ、その間700年近くにわたって
武士政権による幕府政治が続きました。

念のために付け加えておくなら、鎌倉幕府から室町幕府につながる部分では
わずか三年ほど短期間でしたが、天皇親政の時代を経ています。
ですから、幕府とその創立者を一覧にすれば下記のように整理できそうです。

鎌倉幕府(1185-1333年)→→→→→/源頼朝(1147-1199年)
  ◇建武の新政(1333-1336年)→/後醍醐天皇(1288-1339年)
室町幕府(1336-1573年)→→→→/足利尊氏(1305-1358年)
江戸幕府(1603-1868年)→→→→/徳川家康(1543-1616年)

しかしまあ、ほぼほぼ700年の長期間を、武士という一つの身分階級が
政権担当をし続けたことは、考えてみれば、これは結構凄いことです。
そこで思うのですが、では、
~武士政権が誕生する直前の社会はいったいどんな案配だったのかぁ?~

まあ大体は、源氏・平氏の武士相互が主導権争いをしていたイメージが
浮かんでくるものです。
確かに、内部抗争を引き起こした朝廷各派が、それに勝利するために、
武士連中が備えた武力・軍事力に頼ったことは事実です。

ではなぜ、朝廷外部(武士階級)の軍事力を頼りにしたのかと言えば、
朝廷は昔も昔の大昔、第50代・桓武天皇(737-806年)の頃から既に自前の
軍事力を放棄して、いわゆる「非武装」になっていたからです。
「武力闘争」に勝利するには、武士が備えた軍事力に頼る他に方法は
なかったということです。

それまでの朝廷は、戦いを厭わぬ性質を備えた武士階級を「野蛮な奴ら」と
して蔑視するだけでなく、すべての面でこまめに差別を実行していました。
~雅を好む我らと違って野蛮を好む武士なんぞは奴隷・犬畜生の類である~
その犬畜生に助力を求めたのですから、随分と自分勝手な言い分では
あります。 しかし、朝廷自身はそれを自分勝手だとは毫も思いません。
相手は奴隷・犬畜生なのですから、自分勝手もへったくれもないからです。

「保元の乱」(1156年)も「平治の乱」(1160年)も、共に朝廷内部が分裂し、
それが武力衝突にまで至ったものでしたが、その助太刀要請に応じる
武士だって命がけで戦うのですから、いつまでも「奴隷・犬畜生」然としては
いられません。
それに見合うだけの褒美や特典を要求することになります。

そうした武士階級から一足早く群を抜いたのが、乱の最終的な勝者となった
平清盛でした。
この清盛が獲得した褒美・特典はハンパでなく、自分の娘・徳子を天皇に
嫁がせ、生まれた子供(清盛の孫)を天皇(第81代・安徳)にするという
離れ業までみせました。

しかし、その権勢は意外なことに長続きはしませんでした。
清盛率いる「平氏」に対し、もう一方には、その清盛より30歳ほど若い
源頼朝(1147-1199年)が率いる、同じく武士の「源氏」があり、これ以後、
この源氏が猛烈な巻き返しを見せるようになったからです。
この源氏棟梁・頼朝には、義経(1159-1189年)という名の、とんでもない
天才軍人の弟がいました。

どのくらい天才かって?
そんなもん、野球に例えるなら「三試合連続逆転サヨナラホームラン」を
かっ飛ばしたようなもので、史実でなければ、おそらくは誰だって「マユツバ」
と受け止めるに違いないほどの奇跡・神業・ミラクルを成し遂げたのです。

その三試合?とは。
「一の谷の戦い」(1184年/現:兵庫県神戸市)
「屋島の戦い」 (1185年/現:香川県高松市)
「壇ノ浦の戦い」(1185年/現:山口県下関市)

源義経01 奥州藤原氏三代51











  源義経/奥州藤原氏三代

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初戦「」一の谷」から最終決戦「壇ノ浦」まで、その間わずか一年半ほど。
トップ・清盛は既に亡くなっていたとはいうものの、権力の頂点に上り詰めて
いた平氏は敗戦を続け、またたく間に滅亡に至りました。
ここに至って頼朝は、史上初のビジネス・モデルである「武士政権・幕府」
創立を成功させたのです。

ということで、この時期は朝廷の内紛に源氏・平氏の各武士団が関わる
ことで注目を集めますが、じつはこの他にも「勢力」と呼べる存在がまったく
なかったということではありません。
ただし源氏平氏の賑やかに比べたら、いささか地味な印象になっています。

というのは、「その勢力」については、当時の人々はもちろん、その後も長らく
地続きではあるが「半独立国」「準外国」であり、またそこに住む人間を
同胞ではなく、むしろ「異民族」ほどの受け止めをしていたのですが、その名の
通り、奥州に勢力を張った「奥州藤原氏」がそれです。

中央で展開されている政治紛争には相応の距離をおいていました。
奥州の中心都市である中尊寺は、文化レベルも、また黄金の産出によって
経済的にも京を凌ぐ繁栄を見せていましたから、中央のスッタモンダが
すぐさま奥州に飛び火するとは考えなかったのかもしれません。

おそらくは、「京における政争」のニュースは入っていたのでしょうが、そこの
ところへ積極的に絡んでいく意識は持っていませんでした。
俗に言う~金持ち喧嘩せず~です。 ところがギッチョン。
そんなところへ、兄・頼朝と袂を分かった弟・義経が亡命を希望してきたのです。
言葉を変えれば、~命からがら義経が逃げ込んできた~

この時期、奥州藤原氏の当主は三代・藤原秀衡(ひでひら/1122?-1187年)
でした。
~頼朝は義経逮捕を理由にして、必ずやこの奥州を滅ぼしにかかるだろう~
傑物であり腹の座った秀衡はその頼朝の圧力に屈するものではありません。
~いざとなれば、この天才軍人・義経を司令官に立てて頼朝と戦う!~

ところが、お話は再びギッチョン。
その秀衡が急死。 跡を取った四代・泰衡(1155-1189年)は父・秀衡ほど
根性が座った人物ではありませんでした。
~すでに確たる武士政権を樹立している頼朝と敵対して滅びの道を進む
  よりは、ここは一番、ソフトな「微笑み外交」に賭けてみよう!~
 
ところが、お話は三度ギッチョン。
結局、亡命・義経の討ち死にと共に奥州藤原氏もまた滅んでしまったのです。

つまり、京の朝廷は内部抗争の後遺症もあって、すっかり弱体化。
武家のライバルとしての平氏は「奇跡を呼ぶ男・義経」の(言葉が古すぎる
かもしれませんが)、「ウルトラC」戦術によって滅亡。
さらに、隠然たる勢力を有していた「奥州藤原氏」も、義経亡命のあおりを
くらって、結局は滅亡の憂き目に。

こうなると、源氏の「一人天下」になるはずです。
ところが、お話は三度目の、いや違った四度目のギッチョン。
源氏のというよりは、源氏も多系統あるので源頼朝の血筋と言い直すべき
でしょうが、これもわずか三代で消滅しちゃっているのです。
(初代・頼朝/二代・頼家(1182-1204年)/三代・実朝(1192-1219年)

二代・頼家も三代・実朝も暗殺に倒れたことがハッキリしているのですから、
初代・頼朝もその疑いは濃厚です。
つまり「武家政権の夜明け前」には、実に多くの血筋が、あたかも
「宇宙のビッグバン」の如く整理統合(滅亡・消滅)されたことになります。

要するに、平清盛を初めとする平氏一族や、はたまた奥州を統括していた
奥州藤原一族が、この時期に滅亡していなかったとしたら、その後には
当然のごとく「リベンジ・マッチ」が予想されるわけですから「武家政権700年」
を可能にした要因の一つに、この時期の「ビッグバン」を挙げることができる
のかもしれません。

そうしてみると、形こそ違え「平氏滅亡」「奥州藤原氏滅亡」の両方の
ビッグ・バンに大きな関りを持った源義経って、やっぱり日本史における
超ビッグ・スターと言ってもいいのでしょう。
もっとも、上の肖像画を眺める限り、巷間イメージされているほどに「イケメン」
だったとは思えませんがネェ。



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