日本史の「タブー」02 先駆者は良心の呵責を抱く
征夷大将軍・坂上田村麻呂を派遣し、東北地方のいわゆる「征伐」が一応の
成果を収めたと判断した第50代・桓武天皇(737-806年)は、もう御用済みと
ばかりに、現代で言う軍隊も警察も実質的に無くしてしまいました。
随分と思い切った行動に思えますが、桓武天皇自身はそうしたものを
無くしてしまうことで、平和な世の中が訪れると考えたのでしょう。
都の名も「平安京」、つまり「平和首都」です。
ところが「抑止力」が無くなってしまえば、治安が乱れるのは当然の理屈で、
仮に現代、警察という機構を無くしてしまったとしたら、結果として「犯罪」が
増加するのは試してみるまでもない明らかなお話です。
実際、我が身を守ってくれる公的機関がないというこの「平和創造政策」?
が実現した後は、取るべき手段は「自衛」のほかにありません。
それは「農民」とて同様で、結局各々が「自衛」のためにも武装せざるを
得ませんでした。
こうして誕生した「武装農民」が、後の時代には「武士」と呼ばれるように
なっていきますが、中には大きな力を持つ「武士」も登場するようになります。
こうした新人類?の一人に平将門(生年不詳-940年)の名を挙げることが
できそうです。
将門の胸中にはこんな思いが芽生えていました。
~朝廷は我等「武士」をいっぱしの人間として見ていないッ! それが早々に
改まるとも思えないし、そんなことなら何も朝廷の風下に立ち続けている
必要もないのではないのか~
今風にいえば、武士の「基本的人権」を無視し続けることを当然とする朝廷の
体質に嫌気が差して、そんなことなら、本拠地・関東エリアで自分達の要求を
満たす武士自らによる「自治国?独立国?」を建設しようということです。
実はずっと後になって源頼朝(1147-1199年)がその路線を
「武家(鎌倉)幕府創立」いう形で一応の実現をみせました。
しかし、この将門の新構想?は、それよりも150年ほども前のお話。
そんなビジネスモデルなぞは影も形もない時代のことですから、前代未聞の
とてつもない構想だったと言っていいでしょう。
しかし、そう考えた将門の胸中にもこんな思いが去来したことが想像される
のです。
~なにぶんにも朝廷に楯突くことは、いささか気が咎めるなァ~
これが外国なら力ある者が天下を制して当然ですが、しかしこの国では、
朝廷に逆らうことはタブーであり、奉ることこそが開闢以来の伝統・文化と
されてきたからです。
つまり、将門自身も自らの行動については、人々を納得させられるだけの
「正当性」を必要としていたことになります。
言葉を変えれば「朝廷に敵対する形」、つまり開闢以来の伝統・文化を無視
するような姿勢だけは避けなければならなかったわけです。
こうした制約の下で、将門が選択したのはこんな方法でした。

平将門像/平安京(模型)
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○朝廷の「天皇」に対し、自らを「新皇(しんのう)」と称した。
→西国は従来通りに「天皇」が治めてくれて結構。 但し武士の本拠地
である「東国」に関しては、私こと「新皇」平将門が治めさせていただき
ます・・・こんな腹積りだったと思われます。
○自らの「正当性」を、「桓武天皇の五世子孫」であることに求めた。
→どこの馬の骨とも分からぬ者ではなく、畏れ多くもダ、桓武天皇の
子孫がやることだからして、こうした行動には妥当性があるのだ・・・
声高にこう主張しているようにも聞こえます。
○統治機構のほとんどを朝廷のやり方に倣った。
→従来にないものを新たに「生み出す」ことは確かに、大きな苦労が伴う
ものですが、それでも「独立」というのであれば、従来とは全く違う斬新な
スタイルにもできたはず。
それをしなかったのは時間不足だったか・・・あるいは?
こうした路線の一部だけを眺めただけでも、要するに将門の独立国計画?は、
現朝廷の影響をすべて排除した「全面新装」とはなっておらず、いささか
「中途半端」な印象が拭えません。
たとえば、自ら名乗った「新皇」の名称にしたところで、「天皇」という言葉に
まったく影響を受けない「大統領」とでも、あるいは「総首領」とでも名乗る
ことができたハズですし、また朝廷からの独立を目指したのであれば、
「桓武天皇五世子孫」という自己紹介もむしろ「蛇足」の印象になっています。
では、独立?を目指しながら、なぜ将門は現朝廷のやり方・機構を全面否定
しなかったのか?
ひょっとしたら、しなかったのではなく、できなかったのでは?
というのは、この国においては開闢以来、「天皇」とは「至高の存在」であり、
「全国民の御主人様」であるというのが伝統であり、また信仰であり、文化で
あるとしてきたのですから、新構想を抱いたさすがの将門も日本人の一人と
して、そこまでは否定できなかったのでしょう。
要するに、「独立」とはいうものの、「朝廷に楯突く」ことには大いなる
「うしろめたさ」も感じていたということです。
言葉を変えれば、朝廷に対し前代未聞の所業を企てたことに、将門自身も、
日本人の一人として大いなる「良心の呵責」を抱えたということになりそうです。
それがあって、結局朝廷に対しては「徹底否定」まではできず、ある意味
「中途半端」なレベルに留まってしまったのでは。
これが外国であれば、将門のように~現朝廷は残して我等はそこから独立~
という運びにはならず、~現朝廷を滅ぼして新国家を樹立させる~という
方向に進んだかもしれません。
「新皇」を名乗って、そのわずか数か月後に将門は戦死しました。
この結果を一番喜んだのは、おそらくは朝廷のお歴々だったでしょう。
~ほら見てみろ。 日本の文化・伝統・信仰に掉さす者はこういう運びになる
のじゃッ! ほら下々の者よ、このことをよくよく肝に銘じておきなさいよ。
つまりは、朝廷に逆らった将門には大バチが当たったのでおじゃるヨ~
こんなセリフを吐いたかどうかは不明ですが、この後朝廷に楯突く人間
(源頼朝)が登場するまでには百年以上の月日を必要としたこと、これもまた
事実です。
そしてまた、この頼朝自身もまた、将門と同様に、日本の文化・伝統・信仰に
対して、ある種の「うしろめたさ・良心の呵責」を抱いていたことも、これまた
実際そうだったのでしょう。
それは、朝廷を滅ぼすという徹底した方法を採らず、形の上では朝廷組織に
組み込まれた「幕府」という一部門の一管理職?ポストで妥協したことからも
窺い知れるところです。
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---これまでの 「タブー」 シリーズ----------------
425 日本史の「タブー」01 天下人を脅した鬼作左 万一の際の保険だ!
-------------------------------
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ヤジ馬の日本史~超駄級・300記事一覧~ №202-299編 堂々肩すか史!
ヤジ馬の日本史~超駄級・200記事一覧~ 後編「な→ん」巻 あゝ七転八倒!
ヤジ馬の日本史~超駄級・200記事一覧~ 前編「あ→と」巻 七転び八起き!
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成果を収めたと判断した第50代・桓武天皇(737-806年)は、もう御用済みと
ばかりに、現代で言う軍隊も警察も実質的に無くしてしまいました。
随分と思い切った行動に思えますが、桓武天皇自身はそうしたものを
無くしてしまうことで、平和な世の中が訪れると考えたのでしょう。
都の名も「平安京」、つまり「平和首都」です。
ところが「抑止力」が無くなってしまえば、治安が乱れるのは当然の理屈で、
仮に現代、警察という機構を無くしてしまったとしたら、結果として「犯罪」が
増加するのは試してみるまでもない明らかなお話です。
実際、我が身を守ってくれる公的機関がないというこの「平和創造政策」?
が実現した後は、取るべき手段は「自衛」のほかにありません。
それは「農民」とて同様で、結局各々が「自衛」のためにも武装せざるを
得ませんでした。
こうして誕生した「武装農民」が、後の時代には「武士」と呼ばれるように
なっていきますが、中には大きな力を持つ「武士」も登場するようになります。
こうした新人類?の一人に平将門(生年不詳-940年)の名を挙げることが
できそうです。
将門の胸中にはこんな思いが芽生えていました。
~朝廷は我等「武士」をいっぱしの人間として見ていないッ! それが早々に
改まるとも思えないし、そんなことなら何も朝廷の風下に立ち続けている
必要もないのではないのか~
今風にいえば、武士の「基本的人権」を無視し続けることを当然とする朝廷の
体質に嫌気が差して、そんなことなら、本拠地・関東エリアで自分達の要求を
満たす武士自らによる「自治国?独立国?」を建設しようということです。
実はずっと後になって源頼朝(1147-1199年)がその路線を
「武家(鎌倉)幕府創立」いう形で一応の実現をみせました。
しかし、この将門の新構想?は、それよりも150年ほども前のお話。
そんなビジネスモデルなぞは影も形もない時代のことですから、前代未聞の
とてつもない構想だったと言っていいでしょう。
しかし、そう考えた将門の胸中にもこんな思いが去来したことが想像される
のです。
~なにぶんにも朝廷に楯突くことは、いささか気が咎めるなァ~
これが外国なら力ある者が天下を制して当然ですが、しかしこの国では、
朝廷に逆らうことはタブーであり、奉ることこそが開闢以来の伝統・文化と
されてきたからです。
つまり、将門自身も自らの行動については、人々を納得させられるだけの
「正当性」を必要としていたことになります。
言葉を変えれば「朝廷に敵対する形」、つまり開闢以来の伝統・文化を無視
するような姿勢だけは避けなければならなかったわけです。
こうした制約の下で、将門が選択したのはこんな方法でした。


平将門像/平安京(模型)

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○朝廷の「天皇」に対し、自らを「新皇(しんのう)」と称した。
→西国は従来通りに「天皇」が治めてくれて結構。 但し武士の本拠地
である「東国」に関しては、私こと「新皇」平将門が治めさせていただき
ます・・・こんな腹積りだったと思われます。
○自らの「正当性」を、「桓武天皇の五世子孫」であることに求めた。
→どこの馬の骨とも分からぬ者ではなく、畏れ多くもダ、桓武天皇の
子孫がやることだからして、こうした行動には妥当性があるのだ・・・
声高にこう主張しているようにも聞こえます。
○統治機構のほとんどを朝廷のやり方に倣った。
→従来にないものを新たに「生み出す」ことは確かに、大きな苦労が伴う
ものですが、それでも「独立」というのであれば、従来とは全く違う斬新な
スタイルにもできたはず。
それをしなかったのは時間不足だったか・・・あるいは?
こうした路線の一部だけを眺めただけでも、要するに将門の独立国計画?は、
現朝廷の影響をすべて排除した「全面新装」とはなっておらず、いささか
「中途半端」な印象が拭えません。
たとえば、自ら名乗った「新皇」の名称にしたところで、「天皇」という言葉に
まったく影響を受けない「大統領」とでも、あるいは「総首領」とでも名乗る
ことができたハズですし、また朝廷からの独立を目指したのであれば、
「桓武天皇五世子孫」という自己紹介もむしろ「蛇足」の印象になっています。
では、独立?を目指しながら、なぜ将門は現朝廷のやり方・機構を全面否定
しなかったのか?
ひょっとしたら、しなかったのではなく、できなかったのでは?
というのは、この国においては開闢以来、「天皇」とは「至高の存在」であり、
「全国民の御主人様」であるというのが伝統であり、また信仰であり、文化で
あるとしてきたのですから、新構想を抱いたさすがの将門も日本人の一人と
して、そこまでは否定できなかったのでしょう。
要するに、「独立」とはいうものの、「朝廷に楯突く」ことには大いなる
「うしろめたさ」も感じていたということです。
言葉を変えれば、朝廷に対し前代未聞の所業を企てたことに、将門自身も、
日本人の一人として大いなる「良心の呵責」を抱えたということになりそうです。
それがあって、結局朝廷に対しては「徹底否定」まではできず、ある意味
「中途半端」なレベルに留まってしまったのでは。
これが外国であれば、将門のように~現朝廷は残して我等はそこから独立~
という運びにはならず、~現朝廷を滅ぼして新国家を樹立させる~という
方向に進んだかもしれません。
「新皇」を名乗って、そのわずか数か月後に将門は戦死しました。
この結果を一番喜んだのは、おそらくは朝廷のお歴々だったでしょう。
~ほら見てみろ。 日本の文化・伝統・信仰に掉さす者はこういう運びになる
のじゃッ! ほら下々の者よ、このことをよくよく肝に銘じておきなさいよ。
つまりは、朝廷に逆らった将門には大バチが当たったのでおじゃるヨ~
こんなセリフを吐いたかどうかは不明ですが、この後朝廷に楯突く人間
(源頼朝)が登場するまでには百年以上の月日を必要としたこと、これもまた
事実です。
そしてまた、この頼朝自身もまた、将門と同様に、日本の文化・伝統・信仰に
対して、ある種の「うしろめたさ・良心の呵責」を抱いていたことも、これまた
実際そうだったのでしょう。
それは、朝廷を滅ぼすという徹底した方法を採らず、形の上では朝廷組織に
組み込まれた「幕府」という一部門の一管理職?ポストで妥協したことからも
窺い知れるところです。

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