「諡号と皇后」謎の天皇

初代・神武天皇から第44代・元正天皇までの全天皇(弘文天皇と
文武天皇を除く)の諡号は、淡海三船が一括で付けたものと
されている。 (※異説もある)
では、どうして~弘文と文武~この二人の天皇だけは除外されて
いるのだろうか? 不公平ではないか。

もったいぶった言い方になってしまったが、「弘文天皇」の方は
実は簡単に説明ができる。
淡海三船の時代には「天皇」としてはカウントされていなかった
だけのことである。
天智天皇の後、天武天皇の前に位置する「弘文天皇」とは
実は「大友皇子」のことなのだが、「日本書紀」には即位した
旨の記事がない。
だから、当然「天皇」ではない、という解釈になる。

ところが、ずっと後世になって、やっぱり「即位」していたと考えた
方が妥当であろう、ということになって、なんと明治になってから
政府が「弘文天皇」の諡号を贈ったという次第である。

そうすると、実際に淡海三船が除外した天皇は、この「文武天皇」
ただ一人だけになってしまうが、では彼の場合にはどんな事情が
あったのだろうか?
三船の諡号作業はまだ「文武」の存命中のことだったのか?
違う。「文武」の死去は三船の誕生より以前のことである。

そうすると、なにか他に大きな事情でもあったのだ、と色めき
だってしまうのだが、これはヤジ馬の特権だ。
ところが、話は少しばかり妙な方向へ進んでいく。
なんと、この「文武」には妃・皇后を持った記録も無いそうなので
ある。ますます変ではないか。

この時期、天皇家には皇位継承させるべき男子が不足していた
ことは事実で、そのためにつなぎの持統(女帝)を立てるという
緊急避難措置を経て、ようやく「文武天皇」を誕生させている。

それなら、当の文武自身も、えっさえっさと「子作り」に励まなけれ
ばならない立場であることは自覚していたはずだ。
その「文武」に妃・皇后がいないし、三船による諡号もない。

后・皇后についての疑問に対するWikipediaの記事はこうだ。
「時の社会通念上から考えれば、当初より後継者に内定していた
段階で、将来の皇后となるべき皇族出身の妃を持たないことは
考えられず、何らかの原因で持つことができなかったか、若しくは
記録から漏れた(消した)とされる」

ではその「何らかの原因」とはなんだろうか、ということになる。
それは、当時の常識に則してみた場合、天皇家にとっては、
かなり不名誉なことだったのではないか。
ひょっとしたら、それが影響して三船による諡号のリストからも
外れたのではないか、と考えることもできそうだ。

ただ、そのスキャンダルの具体的な内容については、推理はでき
ても真相究明は無理なことであろう。 なぜなら、その真実を
知られないために「記録から漏れた(消した)」からである。

いずれにせよ、この「文武」を含め、「天武」に始まり「称徳」で
終わるいわゆる「天武系」天皇の約100年間は、皇位継承に
関わる当事者たちにとっては無理に無理を重ねた期間だった、
と言えるのではないか。

例)※祖母・持統から孫・文武への皇位継承/
   子・文武から母・元正への皇位継承/長屋王の暗殺/
   藤原光明子の皇后/聖武の大仏建立/称徳から道鏡への禅譲計画

そして、その「無理」の影の部分はついてはひた隠しに
する他なく、不都合・負い目・悪業などは「シラを切る」ことで、
当事者全員が「胸にしまった」ままこの世を去ったのだろう。
それにしても、この文武天皇の「諡号」と「皇后」の疑問には、
少しばかり暗いイメージが先行するのである。

どなたか、この辺のところをご存知の方がおられたら、
是非ご教示をお願いしたいところ思う次第です。


実はこの稿を書くに当たって、この私に起こったことを
「胸にしまった」ままにしようか考えたが、後世になって邪推
されるのも嫌だから正直に告白しておこう。
「もんむ」と入力したら「文無」と変換されてしまいました。




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