日本史の「言葉」31 朱子学じゃあ戦が出来ぬから

明治維新に大きな功績を果たした雄藩も実際にはそれぞれの事情を抱えて
いました。
そうした事情は長州藩でも同様で、藩主・毛利敬親(1819-1871年)の下で、
改革派と保守派の2つの派閥が主導権を争っていました。

その各々の姿勢を追えば、改革派とは尊王攘夷・討幕派のことであり、
保守派とは幕府恭順派ということになります。
後には改革派は「正義派」、保守派は「俗論派」と呼ばます。

言葉の意味とすれば、「正義」とは「人の道にかなって正しいこと」であり、
他方の「俗論」とは「世俗のつまらない意見」のことですから、命名自体が
随分と「正義派寄り」の依怙贔屓(えこひいき)なものになっています。

しかし、これは無理もありません。 
なにせ、命名者である高杉晋作ご本人がその正義派のリーダー的存在だった
のですからねぇ。


 takasugi_shinsaku_02.jpg 高杉晋作(1839-1867年)

片方が「正義」で、もう一方が「俗論」呼ばわりされたのではハナから
勝負は見えています。 当然「最後には正義が勝つ」ということです。
しかし、正義と俗論のせめぎ合いは、それほど簡単に決着を見ることは
ありませんでした。
情勢が固まっていくには幾度もガチンコの戦いを必要としたからです。

少しだけですが、両派の人物名も挙げておきましょう。
その方が分かりやすいかもしれません。
<正義派>
吉田松陰(1830-1859年) 明治維新に大きな影響を与えた思想家
高杉晋作(1839-1867年) 奇兵隊など諸隊を創設し長州藩を討幕に方向付け
井上 薫(1836-1915年) ※聞/高杉と行動を共にし、新政府では大臣も
伊藤博文(1841-1909年) ※俊輔/高杉の弟分で明治政府では総理大臣四度
吉富簡一(1838-1914年) ※藤兵衛/幕末から明治時代の実業家

<俗論派>
長井雅樂(1819-1863年) 開国論者で藩主に「航海遠略策」を建白
椋梨藤太(1805-1865年) 長州藩重役で保守佐幕派のリーダー

さて、この正義派・俗論党の間の衝突の一つに、高杉晋作ら正義派の
長州藩諸隊(藩士以外の様々な身分の者からなる部隊の総称)が、俗論派打倒
のために功山寺(下関市)で起こしたクーデター「功山寺挙兵」(1865年)が
ありました。

「回転義挙」というカッコイイ言い方もあるそうですが、こちらはやはり
正義派による自己宣伝の命名なのでしょう。
それはともかく、これより少し前の「八月十八日の政変」(1863年)で、
朝廷から締め出しを食らった長州は、同様な考えを持つ七人の公卿をこの
功山寺に潜居させていました。

この時高杉は、その潜居公卿の筆頭である三条実美(1837-1891年)に対し、
「是よりは長州男児の腕前お目に懸け申すべく」と挨拶し、決起したと
されています。

功山寺に集結したのは伊藤俊輔率いる力士隊・遊撃隊、さらには義侠心から
参加した侠客のわずか84人だけでした。
ところが、勢いに乗る高杉は、奇兵隊を中心とした兵百を派遣し、急襲する
ことによって、俗論党軍四百人を撃破することを成功させたのです。

そうなれば俗論党とて黙って指を咥えているわけにはいきません。
形勢逆転の切り札として、藩主父子を先頭に立て「御親征軍」で攻めようと
いうのです。

ところが、この報に接しすっかり腰が砕けてしまったのがた井上聞多でした。
~主君に弓を引くなんてことはは出来ぬ。 
 そうなれば、御馬前で腹を切り、死をもってお諫めするほかない~


仲間の吉富は翻意を促します。
~そんなことで動揺して腹を切るなどと言うなら、私はそもそもこんな
 ところにはいない~
 話が違ってはいないかかという𠮟咤です。
しかし、井上聞多の意志は固く、変えようとはしません。
これには吉富もすっかり困り果ててしまい、そこで高杉に相談を持ち掛けた
のでした。

この時に高杉が返した言葉がこれ。
~聞多にも能う言うてくれ。 朱子学じゃあ戦が出来ぬから~
こうなると「朱子学って、一体何ですか?」という話になるのは当然です。


 takasugi_kouzanji_01.jpg takasugi_kiheitai_01.jpg
 高杉晋作(功山寺挙兵) / 奇兵隊 

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~宋学/新儒教などとも呼ばれ、中国・南宋の思想家・朱熹(1130-1200年)が
 完成させた学問~
 と説明されていますが、
むしろ宗教・信仰に近いと見た方が実態に近いのかもしれません。
そして、日本では、江戸幕府の創始者である徳川家康(1543-1616年)が
官学として奨励したことから、以後武士にとっての基盤的思想にまで発展して
いきました。

徳川家康は、主君・織田信長(1534-1582年)が家臣・明智光秀
(1528?-1582年)に討たれるという出来事も、その後の織田家家臣・
羽柴秀吉(1537-1598年)が、主家筋である織田家を乗っ取っる姿も、
その目で見てきた人物です。

そうした体験を持つ家康がこう考えるのは当然です。
~我が徳川家に対してこうした謀反・反抗などの目論見が出ることのなきよう、
 諸藩には忠誠心を植え付けておく必要がある~

そういう理由から、忠孝を重視するこの朱子学を官学としたのです。

要するに、幕末の頃でも武士たる者は「主君に対しては絶対の忠誠」を
尽くすことが正しいとされ、また武士自身にとっても、それが武士としての
常識になっていました。

そうした環境にあれば、藩士たる者、藩主父子を相手に戦闘を交えるなんて
ことはできるはずもありません。
朱子学では、紛れもなく「人でなしの行い」であり「悪魔の所業」という
ことになってしまうからで、この時の聞多が、主君相手の戦という話を耳に
した途端に腰が砕けてしまったのも無理もないことでした。

要するに、自分が武士の常識に反する行動を取ることに対してメッチャ大きな
罪悪感を覚えた井上聞多は、とても自分に耐えられることではないとの判断に
至り、ついにはそんなことなら諌死した方がマシだと考えたわけです。

その時代の人間にとっては、「主君に忠誠」はあまりにも当たり前のこと
だったので、そのために、武士ではない(豪農出身)吉富簡一でさえ、
聞多の罪悪感を巧く払拭してやることができなかったということです。

しかし、高杉の受け止め方は違っていました。
~なぁ、聞多よ、朱子学に固まった幕府を倒そうとする側が、朱子学に
 縛られていては、コトは到底叶うものではないゾ~


ここまで来て、その頃の長州藩がいかに「朱子学原理主義者」であったか
を物語るエピソードをひょっこり思い出しましたので、ついでのことに、
それも書き留めておきましょう。

「八月十八日の政変」
(1863年)で御所警護の役目を追い出された
長州藩は、翌年の「禁門の変」(蛤御門の変/1864年)で、薩摩藩を
相手に巻き返しを目論みました。 
高杉晋作による「功山寺挙兵」の前年のことです。

この「禁門の変」に勇躍加わった長州藩士の一人に来島又兵衛(1819-
1864年)なる人物がいました。 
その時の又兵衛の様子はこう紹介されています。
~先祖伝来の甲冑に中折れ烏帽子、陣羽織を着込み、さながら、
 戦国武将が絵から抜け出たようであった~


で、どうなったかと言えば、~敵の弾丸に当たって死亡した~
鉄砲の弾丸が飛び交う戦場に、戦国時代のいでたちで立つなんてことも、
朱子学原理主義者ならではの行動です。

なぜなら、朱子学にはこんな理念もあるからです。
~祖法(先祖たちのやり方)を改めることは
 先祖の人格を否定した「人でなし」の悪事である~


つまり、戦のやり方も昔通りが正しいわけですから、例えば、対鉄砲用の
戦闘装束などに改めることは「祖法違反現行犯」になってしまうのです。
なぜなら、先祖は誰もやっていないのですから。

ですから、この時、来島又兵衛の行動を高杉晋作に相談していたなら、
こう言ったかもしれません
~又兵衛殿にも能う言うてくれ。 朱子学じゃあ戦が出来ぬから~

しかし、井上聞多とは異なり、来島又兵衛はこの言葉に耳を貸さなかった
でしょうね。
何しろ相手は、日頃から根っからの「朱子学原理主義者」ぶりを発揮して
いた又兵衛殿ですからネェ。




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