日本史の「忘れ物」28 歴史人物だって浮き沈む

昭和20(1945)年以降、つまり「戦後」と呼ばれる時代には知名度イマイチ
に陥っているものの、それ以前では超有名だった人物も少なからずいます。
神話めいた存在では「三韓征伐」で有名な神功皇后とか、その側近である
武内宿禰がそうでしょうし、確実に実在した人物なら江戸後期の二宮尊徳
(1787-1856年)もその通りです。

何しろ紙幣の肖像に収まるくらいに超有名な歴史人物だったにも関わらず、
昭和20(1945)年を境として、それがすっかりマイナーな存在になって
いるのです。
しかし、多くの分野で価値観が変わったことを考えてみれば、歴史人物の
分野にも同様なことが起こったものと受け止めれば、さほど不思議なこと
でもないのかもしれません。

さて、南北朝時代の武将・楠木正成(1294?-1336年)も、そうした変化の
影響をモロに受けた人物の一人に挙げることができそうです。
なにしろ、その名を「くすのき・まさしげ」と正しく読める人の方が今や
少数派になっているのですから、現代における知名度の低さは一目瞭然です。

しかし、昭和20(1945)年以前はまったくの逆で、正成を知らない人の方
が珍しいくらいのものでした。
なぜなら、明治時代には尋常小学校の国語の教科書にも載せられていま
したし、唱歌「桜井の訣別」(1903年)の題材にもなっていますから、
庶民にとっては正成の名は「耳にタコ」の状況があって、いうなれば
「身近なヒロー」だったわけです。

そればかりは、唱歌「桜井の訣別」の二番の歌詞は
~正成涙を打ち払い 我が子正行呼び寄せて・・・~となって、正成のみ
ならず、その嫡男・楠木正行(まさつら/生年不詳-1348年)まで登場して
いるのですから、~楠木正成とは家族ぐるみの付き合い~という気分すら
あったかもしれません。

ちなみに、この父子は父・正成は「大楠公」、子・正行が「小楠公」という
尊称で呼ばれることもあります。
さて、前もってこの楠木正成の事績に触れておくと、概ねのところこんな
説明になっています。

~後醍醐天皇を奉じ、(その子)護良親王と連携して、日本全土で反乱を
 誘発させることによって、鎌倉幕府打倒に貢献した~

とりわけ有名なのは、「千早城の戦い」(1333年)で、この時はその数
100倍の鎌倉幕府軍を相手に回して籠城戦をとり、知恵を働かせた作戦と
機敏な行動を駆使して、三ヶ月半ほどに釘付けにした後、正成本人も悠々と
城からの退去を成功させています。

こうした卓越した戦いぶりは、南北朝時代・戦国時代・江戸時代通じて
「日本史上最大の軍事的天才」との評価に結びついているのですが、ただ、
こうした「軍事的天才」の一面だけではなく、そのことよりもむしろ
「(後醍醐)天皇に対して忠誠を尽くした」生き様の方を、大きく評価した
人物がいたのです。

誰ってか?
「水戸黄門」という別名でも有名な、江戸幕府御三家水戸藩の藩主・
徳川光圀(1628-1701年)です。
しかし、楠木正成は14世紀、徳川光圀は17世紀の人物。

しかも、鎌倉「幕府打倒」に貢献した正成に対し、一方の光圀は
江戸「幕府将軍家」にごく近い人物ですから、ちょっと見のところ、
二人を結び付けるような共通点が見出せません。

そこで、頭のモヤモヤを解消するために、少し話を遡ってみます。
そもそも、自らが征夷大将軍に就き、江戸幕府を創立したのは徳川家康
(1543-1616年)でした。
その家康は、当然ですが、それ以前の「なんでもあり」の戦国の世を生身で
体験してきています。

乱世を勝ち抜いてきた織田信長(1534-1582年)が、土壇場で家臣・
明智光秀(生年不詳-1582年)の謀反に遭い、呆気なく散った姿も、また
その後において、同じく家臣だった羽柴(豊臣)秀吉(1537-1598年)が、
その織田家を乗っ取った姿も、家康の目には強烈に焼き付いています。

であれば、幕府の創立者としてこう考えるのは当然です。
~徳川家・幕府が同じ目に遭わないようにするためには、
 大名・武士全体にモラ・忠義心を定着させなければならない~


楠木正成桜井01.jpg 徳川光圀02.jpg
楠木正成「桜井の訣別」/(御三家)水戸藩主・徳川光圀

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そこで幕府の公式学問として採用したのが「朱子学」でした。
朱子学の最高の徳目は「孝(親孝行)」であり、さらには主君に対する
「忠(義)」だったからです。

神君・家康公の御意向でもあり、また自分のところで謀反が起きるのはイヤ
ですから、どこの藩も「朱子学」に熱心に取り組むようになります。
要するに、大名・武士の全体が朱子学の徒になったということであり、
幕府中枢に至っては「朱子学原理主義者」の集団といった印象です。
そうした中でも、とりわけ熱心だったのが水戸藩でした。

その前に・・・ 新儒教とも呼ばれるこの朱子学とはなんのこっちゃぁ?
乱暴に言い切るなら、元々の儒教を過激に変質させた教えと位置付ける
ことができるのでしょうか。

たとえば、元々の儒教なら~商売よりは学問に励む方がよろしい~ほどの
受け止めですが、これが朱子学(新儒教)となると、
~商(商業・商売)なぞは他人を騙して儲ける生業であって、これに
 関わる者(商人)なぞは人間のクズである~

こうした考え方が、いわゆる「士農工商」の身分制度に結びついている
ことも、指摘できるのかもしれません。

もう一つは、徳目の対象に結構うるさい、ということです。
「孝」を尽くす対象は「親」であって、これは間違えようもないのですが、
その延長にある徳目「忠」になると、ちょっとややこしい。
その対象は「主君」ということになるのは当然なのですが、ここからが
さらに厳密で、~では「真の主君」とは?~というテーマに直結していく
のです。

神経質というのかストイックというのかはともかく、この微妙複雑な課題に
対し日本の朱子学は、あるいは光圀たち独自の解釈と言ったほうがいいの
かもしれませんが、一つの解答を出しました。
~(日本においては)真の主君とは天皇である~としたのです。

幕府の公式学問であり、武士階級が学ぶ学問であるのなら
~真の「主君」とは武士の棟梁である将軍に他ならぬ~となってもよさそう
なのに、光圀たちはてんでそのようには解釈しなかったということです。

また、光圀自身もこんなセリフも吐いています。
~(水戸藩にとって)将軍家は親戚頭に過ぎず、真の主君は天皇家である~
将軍家をサポートすべき立場にある御三家の藩主自らの思想がこれです。

こうした思想に基づいて歴史を点検すれば、
~(後醍醐)天皇に対して最後の最後まで忠誠を尽くして果てた~
この楠木正成の生き様は「朱子学」のお手本・超優等生と映っても
不思議ではありません。

事実、光圀は超膨大な歴史書「大日本史」編纂の大事業に取り組むことで、
こうした歴史の総点検とも言える作業を遂行していました。
ですから、光圀はそのことを通じて、隠れていた「朱子学大スター」を
発掘したと言っていいのかもしれません。

そして、この御三家・水戸藩で研究された朱子学は、日本固有の神道とも
融合した「水戸学」として発展し、皮肉なことに、後の時代にはこれが
倒幕の理論思想としてもてはやされるようになりました。
~真の主君は天皇家~だからです。

こういう経緯があったのですから、その江戸幕府を倒した明治新政府が、
忠臣・楠木正成を思いっきり持ち上げるのはある意味当然で、教科書にも
載り唱歌にもなったわけです。

しかし、天皇主権の大日本帝国憲法が廃止され、国民主権を謳う日本国憲法
にとって代わると、「天皇に絶対の忠誠を尽くした」楠木正成なぞはもう
過去の亡霊で、そのため、現代ではこの楠木正成を知る人間は、メッチャ
少数派という現実になっているわけです。

それにしても、大スターにされたり、無名の人になったり、歴史人物に
分類される方々にも、結構たいへんな浮き沈みが待っているものですねぇ。



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