日本史の「デジャヴ」28 今度は神道と儒教の習合で

ネット徘徊していた折に、ひょっこり「儒家神道」(じゅかしんとう/
じゅけしんとう)という言葉にぶつかりました。 
ついでですから、少しばかり探ってみると、
~江戸時代において儒学者によって提唱された神道である~こう説明され、
さらには~「神儒一致思想」とも呼ばれる~とあります。

はてそういうことならお尋ねしますが、その「神儒一致思想」ってなんですか?
すると、今度は少しばかりうるさい説明になって返ってきました。
~江戸時代に唱えられた神道説の中心をなす思想~
つまり、これが江戸時代神道のスタンダードな思想だったことになりそうです。


 jyukyou_shintou_01.jpg hayashi_razan_51.jpg
      儒教と神道 / 儒家・林羅山

モチロン自慢するつもりもありませんが、しかしながらこれだけで理解
できるほどの知識を筆者は持ち合わせていません。 そこで説明の続きに目
をやることになります。 すると、
~近世前期は儒教が時代の中心思想となった時期であるが、儒家の間に
 日本古来の神道と外来の儒教思想との一致を説く者が多く、また本来の
 神道家の間にも神儒一致的見解を論じた人もあり、神儒一致論は近世前期の
 思想界の時代的傾向であった~


平たくいえば、日本古来の神道と外来の儒教思想は同じものとする主張の
ようです。 しかしダ、ちょっと待ってくれ。
本来は自然発生的な素朴な信仰感情である日本神道と、外国人(孔子
前552?-前479年)が創作した宗教が同じものだってか。
それは、そうそう素直には信じられまへんなぁ。

それで思い出したのが、ずっと大昔この国に新しく仏教が入ってきたときの
ことです。 この折も、最終的には日本古来の神様と外来の仏様は同じ
存在だと結論づけたはずです。

~神道の八百万の神々は、実は様々な仏(菩薩や天部なども含む)が
 化身として日本の地に現れた権現(ごんげん)である~

難しい言葉なら「本地垂迹説」(ほんじすいじゃくせつ)という理論であり、
「神仏習合」という実態です。

その「本地垂迹」をもう少し平たく翻訳すれば、~本地=本来の姿/
垂迹=仮の姿/権現=仮の現れ~
ほどの意味合いになるのでしょうか。

そして今度がこの「神儒一致」ということなら、日本民族とは何事につけ
「足して二で割る」方法が大好きな集団ということになりそうです。
はっきり白黒を付けることで、気の毒な「敗者」を生み出してしまう結論より、
昔からの協調理念である「和の精神」の方を無意識のうちに優先させていると
いうことなのかもしれません。

この「足して二で割る」方法なら、少なくとも一方的な敗者を誕生させて
しまうことにはなりませんからねぇ。
それはともかく、その「神儒一致思想」の中身はいったいどんなものなの? 

ところが、のっけに登場するのがこんな説明(Wikipedia)ですから、とても
筆者の手に負える代物ではありません。
~神儒一致思想は江戸時代に儒学者の林羅山(1583-1657年)によって
 提唱されてから多数の儒学者によって説かれるようになったが、儒教の
 立場から神道を説く者は古くから存在していた~


これを素直に読み解くなら、
~羅山が提唱した思想は、実はもっと古くから説かれていた~ってことに
なりそうですから、それこそ言語明瞭・意味不明瞭の世界です。

「茶の木畑へ入り」込んだ印象ですが、ここは「毒を食らわば皿まで」の覚悟で
先へ進んでみます。 するっていと、
~(以前からあったが)江戸時代に入ると藤原惺窩(せいか/1561-1619年)が
 神道と儒教は本来同一のものであると説いている。
 林羅山の神儒一致思想は師である惺窩の論を継承し発展させたものである~


なんだぁ、ついさっきまでの説明で「神儒一致思想」を提唱したのは林羅山
その人だと思っていたのに、その師である藤原惺窩の方が先行していたのか。
だったら、先行・藤原惺窩より後続・林羅山の提唱の方がよく知られている
のはなぜなのだろう?

その疑問については、こんな説明が。
~羅山以前の神儒一致思想には排仏思想は見られないが、羅山は徹底した
 排仏思想を基本にした~

あぁさよか、その過激ぶりがあって、羅山の前と後に分かれるのか。


 sakuradamon_gainohen_01.jpg tokugawa_mitsukuni_02.jpg
 桜田門外の変 / 水戸藩・徳川光圀

 応援クリックを→ にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ ←にほんブログ村



さらには、~羅山は神仏習合思想や吉田神道を批判している~
おいおい、何ですか、その「吉田神道」って? 

信仰・宗教の世界では、こうした理論理屈が総じてうるさい傾向がありますが、
それについてもこんな説明に。
~「反本地垂迹説」(神本仏迹説)を唱え、本地で唯一なるものを神として
 森羅万象を体系づけ、汎神教的世界観を構築したとされる~

分かる人には分かるのかもしれませんが、これでは、宗教オンチの筆者には
とてもじゃないが理解が及ぶものではありません。

そこで、深追いせざるを得ないのですが、まずこの「反本地垂迹説」とは、
前に挙げた「本地垂迹説」を文字通り反転させた理論であり、 
~仏教の様々な仏(菩薩や天部なども含む)の正体は、実は神道の
 八百万の神々が化身として日本の地に現れた権現であるもの~

ほどの意味合いになります。

ところが、こうした「神儒一致思想」の守備範囲は決して一様ではなく、多くの
人物がそれぞれに独自の理論を唱えることもしたようですから、話はちょっと
ややこしい。
例えば、朱子学者・山崎闇斎(あんさい/619-1682年)が提唱した神道は、
他の儒学者の神道説とは異なり、中国では普通に行われている「易姓革命」
否定しています。

平たく言うなら、日本においてはこの「易姓革命」、つまり王家である「天皇家」
にかわって天下を取ることは絶対の悪・大間違いだという思想です。
そして、闇斎のこの主張もまた天皇に対する信仰、尊王思想の高揚をもたらした
とされています。

ということは、幕末期に爆発した尊王思想は江戸幕府の初期の頃からすでに
育まれていたわけで、後世に大きな影響を与えた水戸学の尊王論や国粋主義
思想も、こうした土壌から大きく成長していったことになりそうです。

えぇ、その「水戸学」ってのが、実はこんな説明になっているのです。
「大日本史」の編纂の過程で水戸藩に成立した学風で、主として朱子学
 よりながらも、神道、国学をも取り入れ、日本史における権力の正当性の
 問題に強い関心を示す点に特徴がある~


その朱子学というのは、新しい儒学(新儒学)の一派と理解されることが
ありますが、誤解を恐れずにいうなら、もともとの儒学をもっと過激で
ヒステリックな教義に改編したものといえるかもしれません。

そうした朱子学に熱心だった水戸藩・第2代藩主であった徳川光圀
(1628-1701年/いわゆる水戸黄門のこと)自身は、御三家の立場に
ありながら、こんな意識を持っていたとされています。

~将軍家は親戚頭に過ぎず、真の主君は天皇家である~
それにしても、御三家にある人間が親戚である将軍家より天皇家の方が大事
だなんて、これもまた結構過激な思想ですよねぇ。

その水戸藩の尊王思想の過激ぶりが示されたのが、幕末期に引き起こされた
大老・井伊直弼暗殺事件、いわゆる「桜田門外の変」(1860年)だったのかも
しれません。

その襲撃者たちを「桜田十八烈士」と呼ぶこともあるそうですが、驚くなかれ
そのうちの17名が水戸藩脱藩浪士(1名は薩摩藩士)だったのです。
彼らの言い分はこうでした。

~大老・井伊は、懸案だった次期将軍候補の人選も、また米国との修好通商
 条約も、朝廷・天皇の意向に沿わないまま独断の形で進めよった! 
 つまりは尊王思想に違反しているのだから、絶対に許してはおけんッ~


こうした流れを俯瞰してみると、あれやこれやと醸成されていた思想が
江戸時代200余年も経て具現したことになりますから、その意味では、歴史に
おける因果関係って結構長いスパンで示されるものかもしれませんねぇ。




 応援クリックを→ にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ ←にほんブログ村



--直近の記事---------------------------
701 日本史の「付録」15 カタカナ語はとめどなく 残るは接続詞助詞だけに
----------------------------------
ヤジ馬の日本史~超駄級・700記事一覧~ №601-699編 貧乏ヒマな史!
ヤジ馬の日本史~超駄級・600記事一覧~ №501-599編 だがしか史!
ヤジ馬の日本史~超駄級・500記事一覧~ №401-499編 満腹握りめ史!
ヤジ馬の日本史~超駄級・400記事一覧~ №301-400編 颯爽ろくでな史!
ヤジ馬の日本史~超駄級・300記事一覧~ №202-299編 堂々肩すか史!
ヤジ馬の日本史~超駄級・200記事一覧~ 後編「な→ん」巻 あゝ七転八倒!
ヤジ馬の日本史~超駄級・200記事一覧~ 前編「あ→と」巻 七転び八起き!
----------------------------------

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント