日本史の「トンデモ」07 朱子学採用も科挙は別

戦国の「なんでもあり」の状況から、最終的な勝者の地位を占めることに
なった人物が三河国出身の徳川家康(1543-1616年)でした。
その「なんでもあり」の状況には、家康自身も何度も直面しています。

たとえば、家臣・明智光秀(1528?-1582年)の謀反によって主君・織田信長
(1534-1582年)が呆気なく倒された「本能寺の変」(1582年)の時も
その近くの堺に滞在中だった家康は、命からがらの思いで領国・三河まで
逃げ帰った経験もしています。


 tokugawa_ieyasu_11.jpg 徳川家康像

また、その後には同じく信長家臣だった羽柴秀吉(1537-1598年)が、主家
であった織田家を「乗っ取る」という状況にも、その秀吉に対抗する人物、
すなわち当事者として関りを持ちました。

戦闘においては、家康が秀吉に対して一矢を報いたことは事実です。
ただ、戦には勝利を収めたものの、その後には秀吉の手八丁口八丁ぶりに、
陣営は揺さぶられ、結局は家康自身もまたその秀吉の下に身を置かざるを
得ませんでした。

しかし、その秀吉が死んでしまえば話は別で、自分が天下を取ることに
何の不都合もありません。
そこで、自らが初代将軍になることで江戸幕府を創立したのですが、同時に
こんな決意も固めました。

~裏切り・謀反・乗っ取り・謀略など、まさしくなんでもありだった時代の
 ありようは、徳川の天下においては断じて一掃せねばイカン~

つまり、今後の徳川家に対しては、そういった騒動・面倒を起こされない
ようにしておこうという思案です。

そこで、幕府の公式学問として採用したのが「朱子学」でした。
一口に言えば、「朱子学」が親に対する「孝」、主君に対する「忠」を最高
の徳としていたからで、これは中国・南宋の思想家・朱熹(1130-1200年)に
よって体系化された哲学?宗教?でした。

~この思想「朱子学」を広く武家社会に浸透させることで、武士たる者の
 モラルを確立させよう~

かつて自分が目撃してきた主君に対する謀反・主家を乗っ取る、などの狼藉
を抑止しようとの目論見です。

それと同時に、朱子学に基づく「士農工商」とする身分秩序の観念も強調
しました。
~今後は、身分は固定され、ひと昔前の秀吉のように足軽が天下人にまで
 出世するようなことはあり得ないのだゾ~
  
つまり、身分を固定する、そう宣言したわけです。

身分固定ですから、朱子学本場の中国では当然としてきた科挙も、江戸幕府
自身は採用しませんでした。
科挙とは、~科目(朱子学)によって人材を挙げ用いる~との意味です
から、要するに官吏登用のための資格試験のことです。

朱子学社会においては、この超難関の試験に合格した者だけが士大夫
(支配階級者)、要するに「士農工商」の最上位にランクされている「士」の
立場に立てるわけです。
そういうことであるなら、なんで江戸時代の日本は「科挙」(官吏登用試験)
を採用しなかったの?

おそらくは、科挙試験そのものも、競争という意味では、足軽から天下人への
出世競争と同様の性格を帯びていると判断したのでしょう。
何事にせよ、従来のような競争原理は一切無くすべきだとしたわけです。

なぜなら競争原理というものは、つまりはその果てに、謀反や乗っ取りや
挙句の果てには謀略までも登場させる危険性を包含しており、そうなれば
結局はモラルの崩壊に繋がってしまうからです。


 syushigaku_syuki_51.jpg kakyo_test_01.jpg
 朱熹 / 科挙

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そんなことを言ったって、「朱子学」を幕府の公式学問として採用しながら、
その相棒ともいえる「科挙」(官吏登用試験)の方を行わないのなら、いったい
誰を官吏にしたらいいの?

江戸幕府はこう考えました。
~そんなもん、戦がなくなってヒマにしている武士にやれせればいいじゃん~
これで間に合うのであれば、確かに「科挙」を必要としません。

しかし、徹底的に争い・競争のない社会の構築を目指すのであれば、
実はこれだけでは不十分なのです。
なぜなら人間それぞれには「能力の差」というものがあるからです。
これは「科挙」に対する「受験能力」とは全く別物で、別の言葉なら
「実務能力」とも言えるかもしれません。

しかし、突き詰めれば、各人が持つ「実務能力」を比較することも競争に
他なりません。
では、競争なしでランク付けなんてことが可能なの?

江戸幕府はこう考えました。
~そんなもん、生まれた家の家格・家格で決めることにすれば、ハナから
 競争は要らないではないか~

なぁるほど、その通りで、これなら科挙試験も昇進試験も不要ということに
なります。 実に巧い方法を思いついたものです。

では、「士農工商」とする、その身分序列は絶対のものだったのか?
実は、何事にも例外はあるもので、早い話が「養子に入る」という体裁で
「身分を買う」ことすらできました。

例えば、こんな具合です。
仮に身分序列の最下位に属する商人の息子が、たっぷりの持参金を備えて、
跡取りのいない武家へ養子に入ったとしたら、実は身分はその日から武士に
早変わりなのです。

こうしたテクニックが使えたということは、社会全体の朱子学感覚は、
あまり徹底されてはいなかったことになります。
ですから、朱子学本場の中国も、はたまた朱子学優等生である朝鮮も、
日本を見下げていました。
~ウププ、科挙も行わない朱子学国家だってよ。
 トンデモ過ぎてホント笑っちゃうしかないよなぁ~


つまり、そうした朱子学先進国家からすれば、日本の姿は
「朱子学を知ったかぶりする田舎者(野蛮人)」に過ぎなかったわけです。
そして、それが幕末期になると、朱子学本来の思想にそぐわないものが
続々と登場しています。
ですから、そうした印象は決して誤解ではなかったことになります。

少しだけ例を挙げるなら、以下などはモロに反・朱子学的な言動になって
います。
吉田松陰(1830-1859年)/幕末の思想家。
 朱子学の身分序列「士農工商」を度外視した「草莽崛起」※の思想。
 (※士農工商を超えて、一般民間人よ、立ち上がれ、の意)

高杉晋作(1839-1867年)/松陰の弟子、長州藩の志士。
 身分序列に捉われない奇兵隊(農民・町人らが構成する不正規軍)を組織。
 また、「朱子学では戦は出来ぬ」との言葉も残している。

勝海舟(1823-1899年)/幕末の幕臣、明治時代の政治家。
 朱子学では否定されている「商」を重視した貿易立国を構想。 
坂本龍馬(1835-1867年)幕末の尊王攘夷派志士。
 朱子学では否定されている「商」を重視し、貿易商社亀山社中を設立,

つまり、家康が幕府の公式学問として朱子学を採用したのは、中国や朝鮮の
ような朱子学原理主義国家にするためではなく、過激な競争社会を改革する
ための便利ツールだったことにもなりそうです。

そんな証拠かあるのかって? だから、さっきから言ってるでしょうに。
~江戸幕府(徳川家康)は、朱子学は奨励したものの、一方の科挙に
 ついてはとんと不熱心だった~


つまり、こういうことです。
~中国や韓国にとっては国家のアイデンティティそのものであった朱子学を、
 日本では、その時代が必要としたツールとして用いた~

なぁるほど、徳川家康もなかなかやるものですねぇ。




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