日本史の「タブー」13 時流御免蒙の独創覚悟

とてつもなく意外な発想とか、あるいは当時の常識にはとんと囚われない言動
とか、その時代の常識の枠内に収まっていないように感じられる出来事も、
時として歴史の中には登場します。
この表現では、筆者の言おうとしていることがイマイチ分かりにくい印象です
ので、二三の具体例を挙げておきましょう。

例えば、こういうことです。
ずっと昔々の第41代・持統天皇(645-703年/女帝)は、史上初の「火葬された
天皇」
になりました。
自らの強い希望があってのことだったようです。

まあしかし、こんなお話を聞かされたところで、いまや火葬にすっかり慣れ
親しんでいる現代日本人には、この行動の意義が正しく伝わらないのかも
しれません。


 jitou_tennou_53.jpg 第41代・持統天皇(女帝)
 
実は「火葬」という最新科学技術は、仏教と連動する形で輸入されました。
人が死んでもまだせいぜいが「土葬」が主流という時代でしたから、仮に
いきなり「荼毘にふす」という弔い形式を見せられとしても、まず大抵は
「遺体の焼却処分」くらいの感覚になってしまうものです。

「火葬」という概念自体がないわけですから、これは止むを得ません。
ところが、こうした時代環境の中で、持統女帝は自らの遺体の「火葬」を
強く望んだのですから、その意味では紛れもなく「時代を超越した覚悟」
だったと言えましょう。

実際このことには、大きな政治的意義があったのです。
それまで国家としても未解決だった「死穢汚染」という大きな課題の解決法
の一つとして一石を投じる形になったからです。
さらにはその中身についても触れていきたいところですが、ここでは
「時代を超越した覚悟」をテーマにしていますので、以後のお話はバッサリ
割愛ということで悪しからずご了承ください。

さて、女帝の話題が続くことになりますが、「時代を超越した覚悟」の一つに
この出来事を含めてもいいような気がします。
第48代・称徳天皇(第46代孝謙の重祚/女帝/718-770年)のケースです。

どんな塩梅だったの?
天皇家の人間でありながら、後継天皇に民間人?を充てることを検討した
のです。
これは、天皇になれる者は皇族だけとした、いわゆる「天壌無窮の神勅」に
明確に反した態度でもありました。

言葉を換えれば、国是?違反であり、重犯罪の所業ということです。
ですから、そのことによって、称徳に対する評価は地に堕ちましたし、
ひいてはまことにご不幸な最期を迎えるハメにもなりました。

それどころか、その悪評は死後もつきまといました。
~寵愛した僧・道鏡を後継天皇に付けようと画策した愚かな女帝~
その中身はセックス・スキャンダルがらみのオモシロおかしいお話にされた
こともあって、その汚名は現代に至ってもすすがれてはいません。
「称徳天皇=淫乱女帝」という通説が未だ生き続けているという事実が、
それを如実に物語っています。

称徳としては、当時の皇室にロクな人材を見出すことができず、
~皇室内のロクデナシを選ぶよりは、皇室外にあっても有徳の人物を
 選ぶのが正しい~
 
考え抜いた挙句に、このように決断しただけのことでした。

しかし、当の皇室関係者、またその周辺からは総スカンを喰らいました。
~「万世一系」を途絶えさせようなぞは正気のサタデーナイト(沙汰でないゾ)~
これが多数派の声だったわけです。

しかし、何分にも「天壌無窮の神勅」「万世一系」という建国以来の国是?
までをも見直す姿勢を見せたのですから、現代風な表現なら、あたかも
「聖域なき改革」とも言えるほどの過激な試みではあったことは事実です。

つまり、この時の称徳の決断もまた、「時代を超越した覚悟」そのもの
だったと言える気がするのですが、あまりに過激だったせいか結果として、
マイナス評価の大合唱を招いてしまったわけです。


 oda_nobunaga_01.jpg tenkahubu_syuin_01.jpg
尾張国・織田信長 / 朱印・天下布武

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さて、時代は下って、今度は戦国時代(1467?-1590年)のお話です。
えぇ、筆者の生息地・尾張国の戦国武将・織田信長(1534-1582年)です。

本拠を尾張・清州から美濃・岐阜に移した信長は、この頃(1567年/34歳)
から「天下布武」を印文とした印章を朱印として用いるようになりました。
訓読すれば、「天下に武を布(し)く」となりそうですから、意味としては、
~武力を以て天下を取る/武家の政権を以て天下を支配する~
くらいになるのでしょうか。

しかし、戦国乱世の中にある戦国武将にとって「天下布武」なんてモットー
は当たり前すぎてちっとも面白くない。
そうおっしゃりたい現代日本人のアナタ、実はそうした戦国時代イメージには
大きな錯覚があるのですよ。

それは「天下布武」、つまり、自分が「天下の主」になることを夢見ていた
のは全国津々浦々の戦国武将に共通する野望なのだろうという、とてつも
なく大規模?で豪華絢爛?な大錯覚なのです。

そのことは、信長が「天下布武」の朱印を用いた頃の、他の戦国の諸将の
言動を眺めてみれば一目瞭然です。
後の歴史で、この信長と共に「戦国の三英傑」とも評されることになる
羽柴秀吉(豊臣/1537-1598年)にせよ、徳川家康(1543-1616年)にせよ、
まだ信長の家臣の身であり、同盟者の立場にあったのですから
「自分が天下の主に」どころではありません。

では、一代で山陰・山陽10カ国まで領国を拡大させた安芸国出身の
毛利元就(1497-1571年)ならどうか?
彼には「天下の主」という目標があったのか?
それまでの言動からしても、近隣地域への領土侵略に対する欲はあっても、
「天下の主」というビジョンまでは持ち得なかったように見受けられます。

なら、最強軍団と評された甲斐・武田信玄(1521-1573年)はどうか?
そのライバル的な存在だった越後・上杉謙信(1530-1578年)はどうだった
のか?
二人は揃って「天下の主」を目指していたのではないのか?
えぇ、これもまた「そういうことはなかった」と言い切ってよさそうです。

そのことは、数度にわたる「川中島の戦い」(1553-1564年)の攻防に、
両者ともが多大なエネルギーを費やしている事実からも分かることです。
つまり、武田信玄は隣接する村上義清の領国へ攻め入って領土を拡張させる
ことに熱心で、室町幕府の関東管領という役職にあったことで、その村上の
後ろ盾となった上杉謙信との対決となったのが、この「川中島の戦い」だった
からです。

これは、両者に「天下布武」、言葉を換えるなら「自分が天下の主になって
やる」との野望が備わっていなかった証拠になります。
備わっていたなら、信玄は他人の小さな領地に色目を使うこともなかった
でしょうし、謙信とて、幕府役職なぞはとっとと返上して天下取りへ
その精力を傾けていたに違いないからです。

一方の信長はといえば、この少し後のことになりますが、上洛したばかりか
足利義昭(1537-1597年)を手中に収め第15代将軍の座に就けているのです。
つまり、諸将が領土拡張に精を出している間に、信長一人は天下布武に向けて
着々と進めていたことになります。

こうした状況からも、この時代に「天下布武」の構想を持った人物は、
信長以外にはいなかったと断言してもよさそうです。
えぇ、ですから、戦国武将の誰もが天下取りを夢見ていたなんてのは
現代日本人の妄想的大錯覚いうことになるのかもしれません。

その意味で、信長の「天下布武」への高い意識は「時代を超越した覚悟」
だったと言える気がするのです。
ただ、残念なことに、それが家臣・明智光秀の謀反「本能寺の変」(1582年)に
よって、道半ばで霧散してしまったことも、また歴史の事実なのですが。




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