日本史の「微妙」15 江戸出版界の異色仕掛人

江戸後期の浮世絵師で戯作者である山東京伝(1761-1816年)は
「手鎖50日」の刑(1791年)を申し渡されたことがあります。
牢に収監されるほどの重罪ではないとされたものの、出版統制を破った
ことがその理由でした。

じつはこの際に咎めを被ったのは作者・京伝だけでなく、出版元の蔦屋重三郎
(1750-1797年)も連座しました。
「手鎖50日」よりずっと重い「身上半減の重過料」、要するに財産の半分が
没収されるという前代未聞の罰され方でしたから、責任は作者よりむしろ
出版元の方が重いと判断されたのでしょう。


 tsutaya_kousyodou_01.jpg 耕書堂/吉原大門前

それにしても、現代目線で眺めればかなり過激な罰則です。
なにせ、社会の公序良俗を乱したということだけで、財産の半分を
取り上げてしまうのですからねぇ。

その蔦屋重三郎(通称・蔦重)が、吉原大門の前に吉原ガイドブック販売の
書店「耕書堂」を開いたのは1773年でした。
さらに本格的に出版業に乗り出したのが1780年のことです。

以後順調な成長を続けていたのですが、そんな羽振りを見せていた
重三郎にとっても、この出来事は大きな打撃でした。
経済的にはもちろん、精神的にもその通りでしたが、しかし御上に物申す
わけにもいかず、耐え忍ぶよりほか方法はありません。

この頃、施政者トップの老中の座には幕府の公式学問「朱子学」の思想を
絶対視する朱子学原理主義者?もどきの人物、松平定信(1759-1829年)が
就いていました。
つまり、そうした思想の持ち主である定信からすれば、蔦重や京伝による
洒落本(小説)出版なぞは風紀紊乱・モラルハザード以外のなにものでも
ありません。

ですから、そうした行いを不法出版として厳に処罰することは当然過ぎる
ほどに当然の処置だったことになります。
このガチガチの朱子学信奉者・松平定信がその座にいる限り、蔦重の
出版の自由は望むべくもないわけです。

ところが、世の中には「想定外の出来事」がままあるものです。
蔦重の場合なら、定信の失脚(1793年)がそれに当たりそうです。 
しかも、その失脚はまったく突然のことだったのです。

しかし、なんでまた定信が失脚?
メッチャ簡単に言うなら、その経緯はこんな案配でした。
~老中松平定信の改革は一定の成果を上げたが、その厳しい政治には
 さまざまな方面からの批判も噴出し、さらには「尊号一件」も絡んで、
 ついに失脚に及んだ~


うわっ、なにやら広範囲の相手からまとめて不興を買ってしまったようです。
まずは、その定信政治を狂歌師・大田南畝が揶揄した狂歌がこれ。
~白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき~
言っていることはストレートで、要するに定信(白河藩主)の朱子学ガチガチの
政治が続くのでは、まったくのところ息が詰まってしまうゾ。 
それよりは、以前の田沼意次の政治の方が恋しいくらいなものだ。

もう一つの「尊号一件」についても補足が必要でしょう。
それなりの歴史知識を有した人以外には、あまり有名な事件とは言えない
からです。
威張るわけではありませんが、もちろん筆者も詳しくは承知していません。

そこで、手探りしてみると、
~第119代・光格天皇(1771-1840年)が父親・典人仁親王に太上天皇の
 尊号を贈りたい旨を幕府に申し出た(1789年)際に、老中・松平定信が
 これを拒否した事件~


要するに、息の詰まった民からも、尊号贈呈を拒否された朝廷からも、
そして定信の政治に不満を持つ幕府内部からも、多方面から定信に対する
批判の声が上がるようになって、失脚(1793年)に至ったということです。
そして、その定信が失脚した後になって蔦屋は再び動き出しました。


 syaraku_kirazuri_01.jpg 画:東洲斎写楽
 
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蔦重こと蔦屋重三郎は出版人として、数多くの人気作者を抱えていました。
先の貴表紙・洒落本の山東京伝、狂歌・大田南畝(1749-1823年)、
美人画・喜多川歌麿(1753?-1806年)、役者絵・葛飾北斎(1760?-1849年)
などがそうです。
現代なら「江戸出版界のヒットメーカー」あるいは「名プロデューサー」
「異色の仕掛人」ほどの評価になるのでしょうか。

その蔦重が松平定信の死の翌年(1794年)に一人の新顔絵師をデビュー
させたのです。  しかも、ただのデビューではありません。
なにしろ名プロデューサーですから、そこにはそれなりの話題作り
サプライズを仕掛けていました。

新顔絵師の名は東洲斎写楽(生没年不詳)です。
画号は名乗っているものの、業界でもその写楽本人の正体を詳しく知る者は
いません。
ですから、今風に言うなら「覆面絵師」ほどの演出になるのでしょうか。

仕掛けはそれだけではありませんでした。
得が評判を呼ぶように芝居興行のタイミングに合わせて、しかも豪華絢爛、
28点もの黒雲母摺大首絵での登場です。 
未知の絵師に対する蔦重の仕掛けは話題作りとしてはケタ外れの壮大さを
備えていたわけです。

ところが実際には、その写楽が実質十ケ月ほど後には忽然と活動を止めて
しまったのですから、これもミステリーです。
さらには、その後100年以上経ってから「謎の絵師」として再び注目を
集めた事実。
こうしたことが、蔦重のハナからの目論見だったとしたら、蔦重に対する
「名プロデューサー」との評価は不動です。

しかし、筆者にはその評価には微妙なものがあるように感じられます。
まず第一に、たった十ケ月で姿を消したという事実を、現代人は一種の
カリスマ性を被せて語る傾向がありますが、本当にそうなのでしょうか?

じつは、こんな事実もあるのです。
~ドイツの美術研究家ユリウス・クルト(1870-1949年)がその著書
 「SHARAKU(写楽)」(1910年)の中で、写楽のことを称賛したことが、
 きっかけで大正期頃から日本でもその評価が高まった~


こうした見方・説明が正しいとすれば、この頃までの写楽は
「謎のカリスマ絵師」どころか、下手過ぎてすぐに「忘れ去られた絵師」
だったことになります。

つまり、覆面絵師の正体に謎が残されたのも、下手過ぎて話題にも
上らずその正体に関心を寄せる者もいなかった、というだけのことかも
しれないのです。

この少し後(1844年)の著書になりますが、考証家・斎藤月岑(1804-
1878年)はその写楽についてこう記しています。
~通名を斎藤十郎兵衛といい、八丁堀に住む阿波徳島藩主・蜂須賀家
 お抱えの能役者である~

なんだ、ばっちり正体も分かっているじゃないか。

しかし、大正期の日本人はこれを素直に受け止めることができなかった
野でしょう。 
~バリバリの外国人が絶賛してくれている画家(絵師)の正体が無名の
 能役者ということであっては、なんとも申し訳ないではないか~

日本人特有の善意もあって、こんな感情が働いてしまったことも考えられ
ないわけではありません。

まあ、それはそれとして、問題は蔦重の「プロデューサーぶり」です。
写楽が鳴り物入りデビューを果たした後、わずか十ケ月で本当に絵師を
止めてしまったのであれば、蔦重の見立て違い・大失敗だったことになります。

しかし、その写楽の絵がそれまでの絵師にはなかったパワフルなリアリズムに
満ちていることに世間より一歩先んじて気が付き、そこでプロデュースに
至ったということなら、当時はともあれ、現代に至れば、それが大成功の
仕業だったことは否定のしようもありません。

東洲斎写楽の絵を広く世間に問うたことは、蔦重にとって果たして
大失敗だったのか、あるいは大成功だったのか?
今となっては手遅れですが、ちょっと御本人に聞いてみたい気もする
ところです。


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