日本史の「例外」04 天才武将暗黙のお約束

天才武将、天才軍人、あるいはそれに似たイメージで語られる人物は
日本史の中にも少ならからず登場しています。
具体的な名を挙げるなら、平安時代末期の源義経(1159-1189年)もその一人
でしょう。

殊に平家相手の「一の谷の戦い」(1184年)、「屋島の戦い」(1185年)、
さらには、その平家を滅亡に追い込んだ「壇ノ浦の戦い」(1185年)の
三連戦三連勝の圧巻ぶりは、もうほとんど神掛かりと言っていいほどの
ものでした。


 ichinotanino_tatakai_byoubu_01.jpg 一の谷の戦い/鵯越(ひよどりごえ)

「一の谷の戦い」では精兵70騎を率いて、鵯越(ひよどりごえ)の峻険な崖から
逆落としをしかけて平家本陣を奇襲していますし、また「壇ノ浦の戦い」では、
平家軍の船を操作する水主を狙い撃ちにするなど、要するに従来の戦闘ルール
に捉われないいささか突飛な戦法を義経は取っています。

「水主は非戦闘員」という暗黙のルール・常識があった時代に、敵船の動きを
封じるために、真っ先に水主を襲撃するなんて作戦は、やはり常人に思い浮かぶ
ところではありません。
そうした常識といったものに頓着しない、あるいは無視できるところが天才の
天才たる所以なのかもしれません。

自らのこうした行動で平家を滅亡に追いやった義経のその後は、実は
兄・源頼朝と対立した末に、奥州へ政治亡命?をしています。
この時の義経を奥州・藤原氏が割合好意的に迎え入れたのには、頼朝との
関係に先行き流動的なものがあったことから、敢えて手元に置く気持ちが
働いていたのかもしれません。
いざの際には、この義経を自軍の司令官に立てて戦おうということです。

逆に言うなら、義経の「天才武将」たる才能は、遠く奥州でもそれほど高く
評価されていたことになりますし、事実、同時代にはこんな義経評をした
人物もいました。
~義経は尋常一様でない勇士で武芸・兵法に精通した人物~
つまり「天才武将」だと絶賛しているわけです。

さて、後の時代にもこの義経と同様に「天才武将」と目された人物は登場
しています。
たとえば、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将・楠木正成
(生年不明-1336年)も、その一人で、第96代・後醍醐天皇(1288-1339年)
を奉じ、戦ったことで有名な人物です。

とりわけ、「千早城の戦い」(1333年)では、籠城側・楠木軍は僅か
千人足らずの小勢。
それに対し、敵勢・幕府軍はその百倍ほどという状況にありながら、自らが
拠点とした千早城に、この大規模な幕府軍を引き付け、三ヶ月半ほどの
長期にわたり持ちこたえました。

この戦いでは、正成軍は石や丸太を崖から落としたり、鎌倉側の兵に油を
かけて火を放つなど、これまでの戦闘常識にとらわれない奇策戦法を駆使
したといわれています。
そして、この戦いが鎌倉幕府打倒に大きな役割を果たしたことで、
~日本開闢以来の名将~とまで賞賛されました。

さらに後の時代にも、同様の賞賛を浴びた天才武将が登場しています。
「大坂夏の陣」(1615年)において、兵力では圧倒的に上回る徳川陣に
対して寡兵で挑み、互角以上の働きを見せたばかりか、ついには
敵の大将・徳川家康(1543-1616年)をあと一歩の所まで追い詰めた
真田幸村(信繁/1567?-1615年)です。

この時の活躍を伝え聞いた薩摩・島津忠恒(1576-1638年)なぞは、
こう評したようです。
~・・・三度目に真田(幸村)も討死にて候。 真田日本一の兵・・・~
ちなみに、この「日本一の兵」の部分は、(にっぽんいちの/へい)では
なく、やはり(ひのもといちの/つわもの)と読むべきでしょう。
こちらの方が何倍も重厚感がありますものねぇ。

確かに、上に登場した三武将なぞは桁外れの戦上手だと言えるのでしょう。
しかし、単に戦上手なだけでは、この日本では「天才武将/天才軍人」とは
呼んでもらえないのです。
そう呼ばれるためには、実はもう一つ非常に重要なハードルを越えなければ
なりません。 では、それは何か?


 chihayajyouno_tatakai_01.jpg oosaka_natsunojin_01.jpg
 千早城の戦い・楠木正成 / 大坂夏の陣・真田幸村

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この三人の武将を眺め比べてみると、共通点があることに気が付きます。
誰もが「本懐を遂げられないまま戦死」している点です。
源義経は兄・頼朝の攻撃を受け、楠木正成は後醍醐天皇の意思に殉じ、
真田幸村もまた悲願の豊臣家勝利を迎えることが叶いませんでした。

平たく言えば、全員が志半ばで無念を残して戦に散っているということで
あり、これを裏返して言うなら、どんなに「戦上手」であったとしても、
晩年を悠々自適で穏やかに過ごしたり、はたまた、畳の上で平和裏にその
生涯を閉じたのでは、決して「天才武将」と呼ばれないという事実です。

無念の思いを抱いて亡くなった者に対して、精一杯の称賛を繰り返してきた
のは、おそらく日本民族が昔の昔から備えている「怨霊信仰」、それに加えて、
これもまた昔の昔からの言葉の霊力を信じる「言霊信仰」、これらを総動員
しての鎮魂行為ということなのでしょう。
ところが、建前としては「武士を除く」範囲とされ、武人・軍人の類は
対象外(ということにされました)。

「侍(武士)に怨霊無し」というツッパリからで、命をやり取りするのが
仕事・・・これが武士の本分というのであるなら、少しばかり残念無念な
死に方をしたところで、そのことでこの世に未練を残すようでは、いかにも
潔くなく、しかもカッコ悪いという建前です。

そうした建前を育む努力をしたのは事実でしょうが、しかし実際のところは、
武士が台頭した後の時代にも、ひょっとしたら「武士の祟り」ではないか、
との疑念を抱きたくなる出来事も少なからずあったと思われます。

「侍(武士)に怨霊無し」というのは、あくまでも武士階層台頭後の、
武士関係者仲間での建前であり、スローガンに過ぎないからです。
ですから、武士の死に対しても、残った者に「死者の無念」が感じられる
ようであれば、日本民族の昔の昔から習性として、まず鎮魂を意識したこと
でしょう。

早い話が、「武士に怨霊無し」との意識を強く持とうと心掛けること自体が
既に民族として昔の昔から備えている「怨霊信仰」の虜になっているという
ことになります。

民族の歴史に比べたら、武士なんて存在はつい最近に登場したニューフェイス
に過ぎないのですから、その重みが違います。 
怨霊>武士ということです。

で、おそらく深層心理で鎮魂を意識しつつ、こんな言い方をして上げる
ことになるのです。
~(源 義経は)尋常一様でない勇士で武芸・兵法に精通した人物~
~(楠木正成は)日本開闢以来の名将~
~(真田幸村は)日本一の兵~

こうまで持ち上げること自体が、モロに「怨霊信仰」であり「言霊信仰」
です。

だって、各々が揃いも揃って「尋常一様でなく/開闢以来/日本一」
だなんて、メッチャ不自然で非合理で、このことはよほどドン臭い人でも気が
付くレベルです。
ところが、日本人の多くは、このことに不自然さを感じていません。

なぜなら、怨霊信仰・言霊信仰の虜である日本民族なら、そうした点に目を
つぶることがお約束になっているからです。
その場面で「そんなもん、お世辞に過ぎんがや」なぞと大人気ないことを
言い出すようでは、日本民族失格です。
こうした態度では鎮魂が叶わないことを承知していてこそ、初めて
ホンマモンの日本民族と言えるのでしょう。

ということで、「武士に怨霊無し」の概念は、武士自身の建前・スローガンに
過ぎなかった、と受け止めているのが昨今の筆者の心象です。




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