日本史の「トホホ」30 人望なくば戦も勝てず

~とりわけ有能な官僚だが、武将としては戦下手~
戦国時代の武将・石田三成(1560-1600年)に対する現代人の平均的な評価は
概ねのところこのあたりに落ち着きそうです。
戦争戦闘の類が得意ではなかったのは確かなようで、そのことは実質的な
大将デビュー戦となった「忍城の戦い」(1590年)でも例外ではありません
でした。

三成に武将としての箔を付けさせようと、主君・豊臣秀吉(1537-1598年)が
仕組んだと言えそうなほどに、勝利の条件が整っていた戦でしたが、
それでも三成は会心の勝利を呼び込むことができなかったのです。


 ishida_mitsunari_oshijyou_01.JPG 石田三成/忍城の戦い

もっとも、秀吉が親心から何かと口を挟んだことが、こうした結果を
招いたとする評価もあるようです。
しかし、それを加味しても、少なくとも「戦上手」とまでは言えなかった
印象になるのもまた事実印象です。

主君・秀吉の死後、豊臣政権における五大老の一人である徳川家康
(1543-1616年)と正面切って対決することになりました。
秀吉亡き後の三成は遺児・秀頼(1593-1615年)を擁する形で家康の野望から
豊臣家を守り抜く決意を固めています。

そのためには、家康に対抗できる陣容を急ぎ整える必要がありました。
五奉行の一人に過ぎない三成が自軍司令官の立場に就くのでは、相手となる
五大老の家康に対して、あまりに格落ちの印象になってしまうからです。

格落ちの総大将では戦も不利になることは目に見えています。
戦ともなれば誰だって勝ち馬に乗りたいわけですから、総大将にはそれなり
の貫禄が必要ということです。
そこで三成は家康と同じ五大老の一人である毛利輝元(1553-1625年)に
白羽の矢を立てました。

この体制は秀吉遺児・秀頼(1593-1615年)を擁し守る形にもなっている
のですから、戦の正義という点ではむしろ三成の側に分があったはずです。
ところが実情はともあれ、実際には家康が「豊臣家のために戦う」という
大義名分を貫いたことによって、三成は逆に君側の奸もどきの立場に
立たされてしまったのです。
少なくとも戦闘前の情報戦では家康の方が一枚上だったことになります。

もちろん、そうした点は三成の落ち度というばかりではなく、秀吉自身の
かつての言動が影響したことも考えられます。
甥である秀次(1568-1596年)に関白職を譲ることで豊臣家の将来を託して
いたのが秀頼が誕生するまでの秀吉でした。

ところが、その後に秀頼が生まれたことで、今度はその秀次が邪魔な存在に
なり、切腹に追い込んだだけでなく晒し首とし、挙句にはその一族を尽く
処刑したのです。
このやり方は、内心に~なにもそこまでせずとも~との思いを抱く人間を
少なからず誕生させました。

では、三成自身がそうした自分達に不利に働く重苦しいムードを打ち砕いて
しまうほどの高い能力・強い胆力を備えていたかと言えば、必ずしも
そうとは言えませんでした。


 sekigahara_byoubu_53.jpg 関ヶ原の戦い
 
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親友・三成から家康に対しての挙兵を持ちかけられた大谷吉継
(1565?-1600年)は、懇意にしていたこともあって家康のこともよく承知
していて、こんな言葉で説得したと伝えられています。
~無謀でありキミに勝機なし~

その際にはこんなとまで忠告しました。
~キミは自分が大きな人間的欠点を抱えていることを自覚しているか?~
大事を前にした親友にぜひとも指摘しておきたかったのでしょう。
~キミは言葉遣いが無愛想過ぎるために人から親しみを抱かれにくい。
 それに肝心な時の決断力がイマイチ鈍い~


吉継のこの言葉の裏には、こんな気持ちがあったものと思われます。
~その点、家康殿は高い身分にありながら、周りの人間にも気さくに声を
 掛けてくださるし、また普通の人間には到底マネできないほどの決断力
 もお持ちである~

つまり、家康相手の戦は~無謀でありキミに勝機なし~ということです。

「関ヶ原の戦い」(1600年)を直前にした時期の、吉継のこの忠告には
的確な洞察がありました。
たとえば、これなども三成の決断力の鈍さを示した一例と捉えることが
できるのかもしれません。
家康側の味方をさせないための方法として、三成は諸大名から人質を取る
方法を模索しました。

その中の一人に、細川忠興(1563-1646年)の正室・細川珠(ガラシャ/
1563-1600年)がいました。
三成側の対応の拙さもあったことから、このガラシャは(家臣の手による)
落命の道を選びました。
キリスト教徒のため、自決が許されなかったからです。

ガラシャの、この壮絶な最期を聞き及んだ三成は、おおきな衝撃を受け、
以後の人質作戦は取りやめるよう、家臣に命じたとされています。
心優しいといえばその通りですが、しかしこうしたことが大谷吉継の
忠告にあった~肝心な時の決断力の鈍さ~なのかもしれません。

そして、そのガラシャの夫である忠興は、家康からこんな言葉を頂戴し、
「関ヶ原の戦い」では東軍(家康側)に味方しています。
~味方についてくれるなら丹後の隣国である但馬一国を進ぜようゾ~

思わずクラッとしてしまう言葉ですが、ところが生真面目というか
愛想なしというべきか、三成にはこうした振る舞いができません。
味方を得る機会を自ら潰しているような印象にもなるところです。

また、己の言動のせいでこんな事態も招いています。
「関ヶ原の戦い」の本番直前のこと、家康側の陣とのやり取りで齟齬を
生じた薩摩・島津義弘(1535-1619年)が三成陣営に加わるという幸運が
舞い込んだのです。
しかし、ここでの義弘に対する三成の物言いが無神経でした。

勝つための作戦進言をした義弘に対し、三成はその労を謝することも
なく、にべもなくその進言を却下したのです。
これで義弘はすっかりヘソを曲げてしまいました。
いざ開戦となっても三成を利する行動を一切起こさなかったのです。

それどころか最後まで陣から動かず、約80、000の敵中に孤立する形と
なった島津軍約300名は壮絶な的中突破を行ったのです。
これがいわゆる「島津の退き口」として今に語られるエピソードですが、
これも~言葉遣いが無愛想過ぎる~三成に端を発したと言えるのかも
しれません。。

それにしても不思議に感じられるのは、加藤清正(1562-1611年)や
福島正則(1561-1624年)など、秀吉子飼いと目されていた武将たちの
三成に対する言動です。
自分たちの心のよりどころである、その豊臣家を必死に守ろうとしている
三成側に加わっていないのです。

それどころか、清正・正則は三成を襲撃する事件さえ企て、逆に家康に慰留
され、その後はむしろ家康側の行動を取っているのです。
これなども三成と反りが合わないことを示した姿だったするなら、吉継の
助言はまことに的を射たものだったわけです。

有能な官僚が言葉を費やした懇切丁寧な説明を不得手とすることは決して
珍しいことでもありません。
なにも悪気があってのことではなく、一を聞いて十を知る自分であれば、
他人様も同様なレベルで理解できると思い込んでいるからです。

おそらくは、石田三成もその通りだったのでしょう。
その意味では、~とりわけ有能な官僚だが武将としては戦下手~とする
平均的な評価も、また~言葉遣いが無愛想過ぎる/決断力がイマイチ~
とする大谷吉継の指摘も大きなハズレというわけではなかったようです。




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