日本史の「忘れ物」29 先人たちの計算技術

整理中の古い写真の中に「算額」が写ったものが混じっていました。
どこぞの神社か寺院で撮ったものでしょうが、よく思い出せません。
ところが、そんな折にたまたまこんな説明を目にしたのです。

~算額(さんがく)とは額や絵馬に数学の問題や解法を記して、神社や
 仏閣に奉納したものである~

あぁ、そうすると、ここに写った直線や円弧などの図形は、その問題と
その解法を記したものということか。


 sangaku_01.jpg 算額

しかし、その写真の図形を一目眺めだけでも、
そこにある問題がちょっくらちょいと解けるレベルにないことを
思い知らされます。
そこで問題解法にチャレンジすることは潔く諦めることにして、
差し当たりはその算額についてもう少し知ってみようと方向変えです。

~平面図形に関する問題の算額が多い~
筆者が写した算額もそうでしたし、上に挙げた算額の参考写真も説明の
通りになっています。
~数学者のみならず、一般の数学愛好家も数多く奉納している~
それは結構なことですが、しかし、なんでまた数学の解法を寺社に?

この点も、落ち度なく説明されていました。
~算額は数学の問題が解けたことを神仏に感謝し益々勉学に励むことを
 祈願して奉納されたと言われる~

それで、なんとか算額と数学と寺社の関係が理解できました。

この成り行きに興味を覚えたので、さらに深追いすることにしてみました。 
すると、
~算額奉納の習慣は世界に例を見ず、日本独自の文化であり、日本全国には
 1,000面弱の算額が現存している~
とされています。 さらには、
~これら現存する算額で最も古いものは栃木県佐野市の星宮神社にあり、
 1657年(明暦3年)に掲げられたとされる~


うわぁ、凄いことではないか!
1657年と言えば江戸の大半を焼失させ、死者10万余人という歴史的な
大災害「明暦の大火(振袖火事)」が発生した年です。

ちなみに、この際の焼死者を葬った塚が後の回向院になったとされていて、
ちなみを重ねるなら、この回向院の正式名称が「諸宗山無縁寺回向院」
なっていますから、火災の犠牲者を文字通り「宗派を問わず弔った」という
ことなのでしょう。

ことのついでにもう一つ寄り道をするなら、御三家・水戸徳川家の徳川光圀
(1628-1701年)が歴史監修のための史局を設けたのが、この「明暦の大火」
の一か月後のことでした。

これ以来、水戸藩は「大日本史」の編纂に取り組むことになり、その作業を
完了させたのは、驚くなかれ20世紀に入った1906年(明治39年)のことで、
なんと足掛け250年の大事業になったのです。

念のために申し添えておくなら、大事業を開始した光圀御本人は残念ながら
その「大日本史」の完成をみることはありませんでした。
なにせ、人間の寿命をはるかに超えた250年にもわたる大事業ですから
無理もないことです。

だんだん話が逸れ出しましたので、お話を戻します。
~現存最古の算額が1657年のものだとしたら、日本におけるそれ以前の
 数学はいったいどんな状況にあったものか~


こうした算額とて、突然変異的に歴史の中に登場したのではなく、
常識的にはそれまでの長い間水面下でその下地が醸成されていたと
考えられます。
そこで、1657年以前の日本の数学について探ってみると、なんと、
~中世および江戸時代以前の近世において、どのような数学が行われたかは
 全く分かっていない~
 そんなぁ、今になって!


 sangi_01.jpg
 sangi_02.jpg 算木
 
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しかし、ちょっと待て!
日本の数学者である関孝和が発展させた数学「和算」は世界レベルに
あったとの話を耳にしたことがあるぞ。 ところが、ギッチョン! 
肝心の関孝和の生没年がこのようになっていたのです。

~生年不明/没年1708年~  
なんだぁ、モロに江戸時代の人物ではないか。
それだったら「関孝和/和算」は江戸時代以前とは言えないわけで、
このセンは諦めざるを得ない。

では、何かの拍子に耳にしたことがある(ような気がする)「算木」と
やらはどうなのだ?
ひょっとしたら、江戸時代よりずっと古い日本の数学ということかもしれん。
そうこうかき回しているうちにこんな説明を見つけたのです。

~算木は中国から伝わったもので、推古天皇の頃と言われている~
推古天皇(554-628年)の頃といえば、おそらくは即位した594年から
崩御までの35年ほどの期間あたりのことをいうのでしょう。
また、落ち着いて思い起こせば、この第33代・推古天皇の摂政を務めたのが、
あの有名な聖徳太子(574-622年)でしたから、時代としては江戸時代より
遥かに古い。

さらには、こんな説明も添えられていたのです。
~第38代・天智天皇(626-672年)の時代には学校に数学士もどき人たちが
 存在し、第40代・天武天皇(生年不明-686年)の頃になるとそうした人たちを
 さらに増やした~


さらにその後の奈良時代(710-794年)には、算木を使用していたことが
文献でも確認できるとのことです。
なんだぁ、算木を使っていたことが確認できるのであれば、
~江戸時代以前にどのような数学が行われたかは全く不明~ 
なんて、いくらなんでも大袈裟すぎやせんか?

ところが、こうした数学・天文学のような当時の新進気鋭の「科学」は、
次の平安時代(794-1185年)になるとすっかり衰えてしまったとあります。
なんで、また? 

こんな説明になっていました。
~(平安時代には)天文や歴術に科学性よりも卜筮(ぼくぜい)陰陽の術に
 興味が移っていき、それにともなって算学も衰えてしまった~

算木より筮竹(ぜいちく)の方に人気が集まったということでしょうか。

それはともかくとして、「卜筮陰陽の術」という表現になると現代人の多くは
「科学」ではなく、しょうもない「占い」に過ぎないと受け止めるものです。
しかしこれは現代人の独善的な思い込みかもしれません。

要するに、当時の人にとっては「卜筮陰陽の術」も「算学」と同様に
科学の範疇にあったということです
しかし、「算学」が流行らなくなったということは、おそらくそれと並行して
「算木」の方も次第に廃れていったということかもしれません。

しかしまあ、算木という、こんなにも便利な計算器を手放してしまって、
後悔はなかったのでしょうか?
先人たちの振る舞いを現代人である筆者が心配しても始まらないことですが、
おそらくは大きな後悔を味わった場面も少なくなかったような気がします。
なにせ、便利な計算器が手元にないのですからねぇ。

しかし、そうした不便も歴史的には戦国時代(1467-1568年)頃の
1570年代までだったようです。
中国で発明された超便利・計算ツール「算盤/そろばん」が日本にも
伝わったからです。

これは算木より新しく、さらに便利で、いうならば最新式計算器でした。
~安土桃山時代(1568-1600年)になると、検地を元にした年貢の
 取り立て、城の建設、城下町の繁盛など経済活動が活発になり、
 より速く、正確にできる計算器「算盤」が瞬く間に広がった~


言葉を換えれば、「算木」を廃らせてしまったことで大いなる不便を
味わっていた先人たちも、気を取り直して計算に挑むことができるように
なったということです。

まあ、メデタシ、メデタシの運びですが、しかし筆者にはまだこの疑問が
解決できていません。
~算木が廃れ、かつ算盤もまだなかった時代の先人たちは、どのような
 方法で計算をこなしていたものだろうか?~




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