日本史の「落胆」05 主君の悪口は言えない

いわゆる幕末維新(1853-1869年)の折に、最も過激な思想・行動を示した
のが外様大名・毛利家を藩主とする「長州藩」でした。
戦国時代に国人領主から戦国大名への脱皮を一代で成し遂げ、中国地方の
覇者となった毛利元就(1497-1571年)が同藩の始祖とされ、
その子孫が代々の藩主を受け継いできた御家です。

現にこの幕末時代の第13代藩主・毛利敬親(1819-1871年)も、そして
最後の藩主となった養子の第14代の毛利定弘(元徳/1839-1896年)も、
その子孫の血筋にある人物です。

そして、この第13代・敬親は家臣の意見に対して、異議を唱えることが
なく、常に「うん、そうせい」との返答をしていたため、陰では
「そうせい侯」とのニックネーム?で呼ばれました。
早い話が、主君であってさえ「そうせい」と言わなければ身の危険を覚える
ほどの「過激さ」を、この頃の長州藩は備えていたということです。

ところが、始祖・元就がそんな姿勢を見せることは微塵もなかったはずです。
国人領主から戦国大名への大脱皮を目指しているのに、いちいち家臣の
意見に耳を傾けていたのでは埒が明きません。
その意味では、元就がワンマン体制を採ったのは当然です。

こうした流れを睨むと、こんな言い方もできそうです。 要するに、
~創成期には「ワシについてこい」のワンマン体制だった毛利家も、
 幕末期になると、それとは真逆の「そうせい侯」になっていた~

そういうことなら、長い歴史の中のいずれかの時点で、「毛利家」自身に、
大きな変化が生じたものと考えられます。

実際、そんな大逆転があったとするなら、それはいつの時点か?
~売り家と唐様で書く三代目~
意味は、ご承知の通りですが、念のために書き添えれば、
~初代が苦心して残した財産も、3代目にもなると落ち目になって
 ついには家を売りに出すハメになるが、そのくせ売り家案内札は
 放蕩者らしく唐様の洒落た筆跡になっている~


さて、毛利家の場合、その「三代目」に当たるのは、始祖・毛利元就の
嫡男・隆元(1523-1563年)の、そのまた嫡男、つまり元就の直系孫である
毛利輝元(1553-1625年)で、豊臣政権では徳川家康(1543-1616年)と
並んで五大老の一角を担っていた人物です。

そうしたキャリアがモノを言ったのでしょう、豊臣秀吉(1537-1598年)
没後に起きた豊臣家VS徳川家の正面衝突、つまり天下分け目の
「関ケ原の戦い」(1600年)の折には、豊臣方(西軍)の総大将に担ぎ
出されました。

五大老筆頭の家康を敵に回して、豊臣政権の実務者で実力者である
石田三成(1560-1600年)はこう考えたのでしょう。
~家康に貫禄負けしないためには、総大将は身分的に格下にある自分
 よりも、やはり同じ五大老の要職にある重鎮・毛利輝元の方が適任~


しかし、そこまではともかく、その後の経緯と結果において、いささか
トホホな状況を招いたのがこの輝元でした。
迂闊なことに、自陣・西軍(豊臣側)から寝返り者(小早川秀秋)を出して
しまっただけではなく、敵方・家康の領国安堵という甘言に乗せられて、
ろくろく戦わないうちに講和に臨んだのも、この輝元だったのです。
しかも、その約束も直後には家康側に反故にされるという為体です。

最終的には、中国地方一帯112万石から周防・長門ニヶ国のみの30万石に
大減封という結果を招き、要するに、
~売り家と唐様で書く三代目~の状況になってしまったわけです。

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毛利輝元(戦国時代)/毛利敬親(幕末維新)

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自分の甘さが招いた結果ですから、輝元自身にはそれなり「得心」もあった
のかもしれませんが、しかし、家臣たちの気持ちは到底収まるものでは
ありません。
なにしろ、突然に給料が1/4にされちゃったのですからねぇ。

主君に対する批判になってしまうので、口には出せなかったでしょうが、
おそらく内心ではこんな思いを強く抱いたことでしょう。
~やられっぱなしのウチの殿サマは、まったくのバカ殿だ~

そこで、こうした悪口の代わりに「確固たる信念」を抱くことになりました。
その信念のその一、
~ウチの殿サマを、狸オヤジ・家康があくどい手を使って騙したせいだ。
 この恨みは永久に忘れまいぞ~

 (ダマされたウチの殿サマ・輝元公が悪いのではなく、ダマした家康が
  メッチャ極悪非道だったのだ)

そして、信念のその二、
~主君の言い分を聞いていたら、損を被るのは自分たちである~
 (我らの給料が1/4にされちゃったのも、元はといえば主君の判断の甘さに
  ある。 二度とこのような目に遭わないためには主君の判断・意見
  なぞは二の次、三の次である)

つまり、長州にとって徳川(幕府)がある限りは、敵国に他ならないこと。
それと並んで、ちょいとばかりねじくれた主君軽視?の信念は、おそらくは
この時に生まれたのでしょう。
こうした思想信条は江戸期を通じて長州藩の家風となり、それは幕末期に
至ってもなお強く継承されていました。

幕末期の孝明天皇(第121代/1831-1867年)が、トコトンの「長州嫌い」
だったのも、実はこのあたりに理由がありそうです。
朝廷と幕府が協力しあうことで幕末の難局を乗り切るべきだと考える
孝明天皇に対し、長州藩は倒幕の動きまで見せるのですから堪りません。

~黒船来航(1853年)という国家の一大事において、朕自らが挙国一致
 (公武合体)路線で救国を目しているのに、それを邪魔しようとする
 長州の奴らはいったい何を考えとるのじゃ~

といったところでしょうか。

長州藩が備えていた、こうした上司軽視(無視)の傾向は、明治以降の
陸軍にも確実に遺伝しました。
陸軍を牛耳ったのが、山縣有朋(1838-1867年)を初めとする旧長州藩出身者
でしたから無理もないところです。

ちなみに、こうした体質は陸軍の伝統?として長く継承され、最近話題に
なった、初代宮内庁長官・田島道治(1885-1968年)による「拝謁記」にも、
昭和天皇が「陸軍(軍閥)の下剋上体質」に対して強い懸念を抱いていた
ことが記されているほどです。
おそらくは、「そうせい侯」毛利敬親が覚えた感触に似たものを昭和天皇も
また感じ取っていたのでしょう。

当時の長州がどれほどの「過激派」だったかは、幕府が長州に対して武力に
よる征伐、いわゆる「長州征討」を二度(1864/1866年)までも断行した
ことでもよく分かります。
しかも第一次においては、後には同盟者となる薩摩藩までもが征伐軍に
参加しているのです。

参加というよりは、実質的な作戦指揮官に就いたのが薩摩藩・西郷隆盛
(1828-1877年)その人だったことからも、長州の傍若無人ぶりを快く
思っていなかったのは、なにも孝明天皇や幕府だけではなかったことが
よく分かります。

しかし、結果として、日本が近代国家に生まれ変わったのは、この長州藩と
薩摩藩を中心とした、いわゆる「薩長勢力」の力によるところが大きかった
のですから、これを考えれば、表立った「長州過激派論」は影を潜める
ことになります。
いわゆる「維新の偉人たち」にケチを付けるような形になりかねないので、
無意識のうちに遠慮が働くということです

もっとも、昨今評判になった本、
「明治維新という過ち 日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト」の中で、
著者・原田伊織は、そうした長州藩の過激性をはっきり「テロリスト」と
呼んでいるのですが、少なくとも現時点では、この著書の内容はそのまま
「定説視」されるまでには至っていません。

それはともかく、「超過激派・長州藩」を大きな視野で眺め直すなら、
~親(主君)の言い付けに、異常に反撥をする子供(家臣)~
ほどの、世間では珍しくもない構図で捉えることもできそうで、要するに
「主君(親)に対する悪口」が言えない分、ストレスをためた
「家臣(子供)のはねっ返り」は大きかった、ということかもしれません。



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