日本史の「誤算」11 狂気の沙汰?領地返上

戦国の世の最終勝者となった徳川家康(1543-1616年)は、江戸幕府を成立
(1603年)させ、征夷大将軍として、それまで同格とされていた諸大名の上に
君臨することで新しい時代を誕生させました。
要するに、それまでの横並びの同僚関係を消滅し、家康率いる徳川家が
統治する形に作り変えたということです。

最大のライバル・豊臣家はカリスマ的トップ・であった豊臣秀吉
(1537-1598年)を、この時点ですでに、失っていたばかりでなく、さらに
その後の「関ヶ原の戦い」(1600年)でも苦境に立たされ、かなりのダメージ
を受けていました。
ただ秀吉側室・淀殿(1569?-1615年)と嫡男・秀頼(1593-1615年)母子は
健在であり、その徳川家と対峙する姿勢を取り続けるほど意気軒昂でした。

この頃の徳川家にとっては「諸大名の上に立つ」・・・これがアイデンティティ
でしたから、それに抵抗する者があれば、諸大名はもちろんのこと、家康の
かつての主君筋であった豊臣家であっても、それは力づくでも押さえ込んで
おかなくてはなりません。
それを放置しておいたのでは、統治者としての示しが付かないからです。

結局それは二度に渡る「大坂の陣」(冬・1614年/夏・1615年)を招くことに
なりました。
しかし、その結果、豊臣家を滅亡にまで追い込みました。
巨人・家康はこの直後に亡くなったというものの、豊臣家が滅亡に至って
しまったのでは、諸大名とて、深層心理はともかく表立って徳川家に対抗
する姿勢を示すことは困難です。
しかし、徳川家自身はこの点大変に神経質でした。

今や権現様と崇められる家康も、戦国の世の現役時代には実は数多の
「まさか!」を目の当たりにしてきた事実があります。
兄貴分であった織田信長(1534-1582年)が、超優秀な家臣・明智光秀
(1528?-1582年)に不意を衝かれた「本能寺の変」(1582年)も、
その信長亡き後の織田家を、これまた優秀な家臣であった秀吉が
乗っ取った姿にも遭遇しているのです。

それどころか、その秀吉亡き後の豊臣家を潰したのは、豊臣政権の
総理大臣職?にあった、他ならぬ家康自身なのです。
その家康が、徳川家子孫にこんな家風を遺したとしても不思議では
ありません。
~えぇか、諸大名に謀反の気持ちを起こさせないためには徳川家としても、
  それなりの構えが必要だゾ~


たとえば、これは前田利家(1539?-1599年)の未亡人・芳春院(まつ)が、
その最初の例とされていますが、大名やその重臣たちから人質をとって、
幕府のお膝元・江戸の地に常住させる「大名証人制度」もそうでしょう。
あるいは、道路整備や河川工事などを、幕府が諸大名に申し付けることで、
財政を圧迫させ、多くの資金が軍事費に回らないようにする「天下普請」制度
などにも、そうした目論見があったに違いありません。

しかし、その程度で安心をしてしまわないのが徳川家でした。
今は臣従を誓っておとなしくしているとはいえ、諸大名は徳川家からすれば、
元々が仮想敵国?的な存在なのです。
ですから、こうした政策と併行する形で、さらに諸大名に対する「改易」政策
にも精を出したのです。

その「改易」とは、こう説明されています。
~江戸時代においては、大名・旗本などの武士から身分を剥奪して、
  その所領や居城・陣屋・屋敷などを没収することを意味した~

要するに「お取り潰し」のことです。

この方法は、諸大名を取り潰せば取り潰すだけ、仮想敵国が減り、さらには、
その所領が自分のものになるのですから、徳川家としては一挙両得の
「オイシイやり方」ということになります。
ですから、ひたすら「精を出し」ました。

「謀反の芽を摘む」という意思が働いたものでしょう。
「秀吉の子飼い」と目された大名も目を付けられ、たとえば、秀吉時代の
活躍で「賤ヶ岳の七本槍」と称された福島正則(1561-1624年)の福島家
などは、その正則の死とほとんど同時に「改易」されましたし、同じく
「賤ヶ岳の七本槍」の一人である加藤清正(1562-1611年)の加藤家なぞは、
その息子の代に「改易」を宣告されています。

松平定信旗01由比正雪像02 












(旗)松平定政/(像)由比正雪

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つまり、幕府は「改易」を宣告するだけで肥後熊本藩54万石をまんまと没収
できちゃったことになります。
しかし、「改易」は現代で言う「会社倒産」を人為的に作り出す作業ですから、
改易された側の武士はその日からたちまち失業者ということになります。

そうなれば、生活苦から盗賊や追剥に身を落とす者も出ることになり、
このことがまた大きな社会不安に繋がっていきます。
ホント、改易される側はたまったものではありませんが、しかし幕府は
この「オイシイ方法」を手放すことなく、さらに追求し続けました。

しかし、幕府の「改易」政策がこうした社会不安を生み出していると見定めた
人物もいたのです。
日本史的にはあまり有名とは言えないようですが、徳川家康の甥として
生を受けた松平定政(1610-1673年)です。

若い頃(1633年)に第3代将軍・家光(1604-1651年)の小姓となり、
翌年には小姓組頭を経て、その二年後(1636年)には主君のそば近くに
仕える役「近習」に進み、さらに長じては(1649年)譜代として三河国・
刈屋(刈谷)藩二万石の藩主に就いています。

こうした立派な経歴からしても、頭が良いだけでなく見識も備えた人物
だったと想像されますが、定政は社会不安の解消を目指す意味でも従来の
「改易」政策は即刻止めるべきとの意見を持つようになっていました。

幕府の当事者よりも一歩も二歩も先んじて将来を展望していたわけですが、
しかし、「改易」を仮想敵国?潰しのチャンスと受け止める幕府関係者から
すれば、定政の意見などは噴飯ものに過ぎません。

「改易」政策継続こそは、幕府の末永い安泰を願う正義の行動である。
そればかりか、そこに「こんなオイシイ利権?を手放す気になれぬ」という
気持ちも働くからです。
ともかく、定政のこの意見が「現実的な提案」として、幕閣連中の目に映る
ことはなく、そのまま放置された形になっていました。

そのことに、先に堪忍袋の緒が切れてしまったのが定政でした。
将軍家光死去の直後に、まったくの無断で突如剃髪するや、さらには
幕閣を無策ぶりを非難する文書を提出したのです。

~(私の)領地や居宅や諸道具など一切を返上するから、それを浪人救済に
  当てて欲しい~
 ただ、タイミングも悪かった。
家光の後の将軍職を継いだ第4代・家綱(1641-1680年)は、この時まだ
数え10歳。
こうした幼君を戴くのは、幕府にとっては初めての経験ですから、この
時期の幕府は、諸大名や旗本などの政情不安を招きかねない言動に
特に目を光らせていたのです。

そこへ定政の幕閣批判が登場したのですから、幕府の反応はまず第一に
~御政道に口出しするなんぞはもってのほか~
また、この意見を是認することもできません。
幕府自らのこれまでの無能・無策ぶりを認めることになるからです。

そこで、幕府はこんな処置に踏み切りました。
~定政の言動は「狂気の沙汰」に相違ないからして、その領地は
  (返還ではなくペナルティとして)没収する~

その上に定政には永蟄居(終身にわたる出仕・外出の禁止刑)を申し渡し、
一件落着となりました。

提言も聞き入れられず領地は没収、しかも終身受刑の身となったのです
から、定政の完敗です。
しかし、定政の言動は、決して無駄ではありませんでした。
ほぼ時を同じくして「慶安の変」(1651年)が勃発したからです。
こちらは、軍学者・由比正雪(1605-1651年)らを中心としたグループが
浪人問題を訴え武力決起に至ったものでした。
決起自体は未遂に終わったものの、なにせ武力行動ですから、これには
さすがの幕府も肝を冷やしました。
これがキッカケとなって、これ以後の日本の政治は、戦国の遺風的な
力づくの武断政治から、平和的手段を講じる新時代の文治政治へと大きく
舵を切ることになったのです。

その意味では、浪人問題の深刻さを、財産・名誉を投げ捨ててまで幕府へ
訴え出たこの松平定政という人物は、もう少し注目されてもいいのかも
しれません。
ちなみに、松平定政はこの後から死ぬまでの期間を永蟄居のまま生きた
ことになりますが、「20年もの永蟄居」だなんて、現代感覚からすれば、
こちらも「狂気の沙汰」ということになりそうです。

いや、「狂気の沙汰」よりは、むしろ「正気の沙汰でない」と表現した方が、
それなりにインパクトが増すのかもしれませんねぇ。
えぇ、映画「サタデー・ナイト・フィーバー」(1977年)のダジャレですがね。



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