日本史の「言葉」28 そのセリフ実は我に非ず

歴史の中には、まさに時代を切り取ったかのような言葉・セリフが登場する
ことがあります。
たとえば、~平家にあらずんば人にあらず~
武士階級がようやく頭角を現し始めた平安時代末期に登場した言葉です。

でも、このセリフを吐いた人物を、平家総帥・平清盛(1118-1181年)だと
思っている人も少なくないようで、なぜそんなことが言えるのかといえば、
実は他ならぬ筆者自身がそれなりの間てっきりそう思い込んでいたからに
他なりません。 結構トホホ感が伴うお話です。

そうした枝葉末節はさておくとして、平清盛が濡れ衣だとしたら、では本当の
発言主はいったい誰だったのか?
それは、~清盛の継室(後妻)である平時子(1126-1185年)の同母弟~
という立場にあった平時忠(1130-1189年)という人物ということで、清盛から
見れば、義弟(妻の弟)に当たります。 
しかも、平家の全盛期(1174年頃)の発せられたとするこの言葉も、実際には
~一門にあらざらん者はみな人非人なるべし~ほどのものだったようです。

ところが、この「人非人」という言葉がちょいと曲者で、たとえば
「(当時普通人以下とされていた)非人」のことだとか、もっと極端に
「(人間でなない)犬猫などの動物」を指しているとか、いささか解釈に
誤解を招きかねない要素があります。
そうした無用の混乱を避ける意味もあったかもしれませんが、現在では
~平家にあらずんば人にあらず~と現代語訳された言葉の方が陽の目を
浴びている印象です。

もっとも、これでも「人にあらず」の解釈には多少の疑問が呈せられます。
~「人にあらず」って、やっぱり「非人」とか「(人間ではない)犬猫」のことを
  指しているのでは?~

そうではなく、比較的軽い意味だという説明もあるようで、その言わんと
するところを筆者風に言い換えればこうなります。

~ええか、当世は、間違いなく「平家=キャリア組」で
  「非平家=ノンキャリア組」というトレンドになっておるぞよ~

今風なら、「平家」なら東大卒扱いで、「非平家」なら問題外の門前払いと
言った感じでしょうか。
もし、この解釈が正しいとするなら、さほどの名言というわけでもなく、平家に
籍を置く平時忠なる人物がその時抱いた「(個人的)感想」に過ぎません。

では、そうした単なる「(個人的)感想」が現代まで伝わったのには、
何かしらの理由があったのかしらん?
その理由は、発言者・平時忠が後半生に味わった有為転変にも求める
ことができそうです。

「一ノ谷の戦い」(1184年)、「屋島の戦い」(1185年)、それに続く源平の
最終決戦・「壇ノ浦の戦い」(1185年)の三連戦・三連敗で完膚なきまでに
叩きのめされた平家は、その挙句についには滅亡にまで至りましたが、
生き残った時忠は、この折に捕虜の身になりました。

あまり楽しい境遇とは言えません。
ですから、時忠自身も、源氏側の総司令官・源義経(1159-1189年)に
近づき、自分の娘を嫁がせることで保身を図ろうともしたようです。
しかし、結局は流罪の身となり、最期を流罪地である能登で迎えています。

ですから、多少の皮肉も込めて時忠のこの言葉を評するなら、こんな
言い方もできそうです。
~「人(である)」時代と、後には「人にあらず」の時代、その両方の境遇を
  経験した平時忠が吐いた言葉だからこそ、本物の迫力・臨場感に満ち、
  結果として現代にまで伝わった~
 

もっとも、これを茶化したこんな言葉も。
~平家(ひらや)にあらずんば家にあらず~
超高齢社会にあって、そうした高齢者が住みやすい住宅像を示した言葉で、
その意味するところは
~足腰の弱った高齢者にとって、多層階構造の住宅はメッチャ住みにくい~
発言者はもちろん筆者ですが、「人にあらず」と違って、こちらの言葉は
残念なことに、この場限りのダジャレとして消滅する運命にあるようです。

平清盛02 徳川吉宗61








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さて、江戸時代になると、こんな言葉も残されています。
~胡麻(ごま)の油と百姓は絞れば絞るほど出るものなり~
第八代将軍・徳川吉宗(1684-1751年)が、幕府の財政再建などを主導した
いわゆる「享保の改革」(1716-1745年?)の時代に使われた言葉です。

財政再建のためには「増税」が不可欠ですから、徴収する側の吉宗とて、
のんびり構えているわけにもいきません。
そのため、この「胡麻の油と・・・」を、その吉宗が吐いたセリフと誤解している
向きも少なくありません。
ここで白状しておくなら、もちろん、筆者自身もその一味でした。

実際には、「享保の改革」に部下として参加した「神尾春央」(かんお・
はるひで/1687-1753年)が残した言葉のようです。
神尾による年貢の取り立ては、文字通り「絞れば絞るほど・・・」の
苛斂誅求を極め、農民からは随分の憎悪を買ったとされています。
では、財政再建に躍起になっている吉宗自信が、そこまで厳しい指示を
出していたのかと言えば、それは濡れ衣で、将軍吉宗の気分を神尾自身が
先回りして「忖度」したということでしょう。
「忖度」が働くのは、何も21世紀の自民党政権だけではないのです。

実際、この折の神尾は年貢率の強化、収税状況の視察、隠田の摘発などの
面で、非常に大きな成果を上げたようで、結果として幕府は江戸時代
約260年を通じて最高の収税石高を記録しました。
ですから、この時期の神尾は幕府から「最高殊勲選手/MVP」並みの評価を
頂戴していたのかもしれません。

またこの「最高収税石高」記録を打ち立てたことも大きなポイント加算に
なったのか、吉宗自身も、歴代将軍の中でも「名君」との評価を得ています。
しかし、後の時代になると、このセリフが別の意味で注目を浴びることに
なりました。
~自分の懐を潤すために農民からこうまで搾り取るなんて、江戸幕府は
  ハンパない圧政に走ったものだ~


税収に連動する形で、この時期の農民の生活は窮乏し、百姓一揆の頻発を
招いたともされているようで、事実、筆者の学校時代には、そうした視線で
江戸時代の歴史を教えてくれた先生もいたのです。

ウブで素直な生徒だった筆者なぞは、危うく「江戸暗黒史観」に洗脳されて
しまうところでしたが、結果的にそうはならなかったのですから、公にはされて
いないものの案外に「ヘソ曲がり」のお坊っちゃまだったのかもしれません。

それはともかく、「絞れば絞るほど・・・」を積極的に実践した神尾のその後は
どうだったのか? 実はこんな説明になっています。
~(神尾)春央は金銀銅山の管理、新田開発、検地奉行、長崎掛、村鑑、
  佐倉小金牧などの諸任務を1人で担当していた他、支配役替や代官の
  所替といった人事権をも掌握していたが、延享3年(1746年)9月、それらの
  職務権限は勝手方勘定奉行全員の共同管理となったため、影響力は大きく
  低下した。~
 

つまり、神尾の元気ぶりは「享保の改革」が推進されている時期だけだった
ということで、そこにちょっと皮肉な目線を向けるなら、一種の「キャンペン・
キャラクター」あるいは「お祭り男」もどきの存在だったようにも見えて
しまいます。

日常にありふれたことは、至極当たり前のことですから、特に記録される
こともありませんが、それが非日常の印象的な「特異現象」ともなれば
記録されやすいものです。
そういうことなら、神尾の「絞れば絞るほど・・・」も、まさにその通りで、だからこそ
記録もされ、現代に伝わったのだと解釈すべきかもしれません。

神尾の周辺に「農民の生活は窮乏」や、「百姓一揆の頻発」などが、
多発・頻発したことが確かだとしても、こうした出来事が全国津々浦々に
例外なく満遍なく拡散していた解釈するのは、まさに悪意ある
「江戸暗黒史観」と言わざるを得ないわけです。

それにしても、筆者が通っている頃の学校の先生って、どうしてあんなに
「江戸暗黒史観」が好きだったんだろう?
今にして思えば、掛け値なしの不思議さに満ちていましたっけ。


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