日本史の「付録」09 頭のテッペンに祖法あり

ものごとを比較するのび、世界の、あるいは日本の「三(大)○○」という
表現がよく使われます。 筆者の生息地・名古屋辺りでいうなら、たとえば
「郷土の三英傑」※とか「徳川御三家」※という表現などがそれに該当します。
※織田信長(出身:尾張)/豊臣秀吉(出身:尾張)/徳川家康(出身:三河)
※尾張徳川家(家祖:家康 9男・義直/62万石)
  紀州徳川家(家祖:家康10男・頼宣/56万石)
  水戸徳川家(家祖:家康11男・頼房/35万石)

そこで、結構尻軽な行動ですが、早速に筆者も、その「三大○○」に便乗して
・・・う~ん、「世界の三代奇髪」ってのではどうだ。
「奇髪」を漢字で書くと分かりにくいかもしれませんが、要するに「変てこな
ヘアスタイル」のことです。
最近でこそどんなヘアスタイルを選択しようが、それは個人の嗜好の問題であり
基本的に自由ということになっていますが、その昔はに「民族固有」とも
言えるくらいにいささか個性的?奇抜?な髪型もありました。

そこで、古今東西を不問としたうえで、筆者独断の「世界の三大奇髪」を
選抜してみると、
一)「モヒカン刈り」(現代人)
   →ニワトリのトサカもどきの造形で、帽子を被るには大変不向き?
二)「辮髪」(べんぱつ/満州族) 
   →頭髪の一部だけ残して剃りあげ、残した毛髪は長く伸ばして
    三つ編みにして後ろに垂らす。
三)「月代」(さかやき/日本人) 
   →頭のテッペン部分の頭髪を剃り(抜き)上げる。

それぞれ概ねのイメージは浮かぶと思いますが、いずれの髪型も現代人の
感覚からしたら、多少異様で滑稽な印象になります。
ただ本物ではなレプリカにせよ、「月代」(頭のテッペンを敢えて髪無しにする)
についてはTV時代劇などで接する機会も少なくないため、現代日本人自身、
実はあまり「奇異」な髪型とは感じていないのかもしれませんが、それにしても、
この「月代」を世界的な目線でもう少し冷静に眺め直してみるなら、やはり
「人間の髪型」としては珍しい部類の造形であろうこともまた事実です。

~しかしダ、なんでまた、御先祖様はこんな髪型を選んだものか?~
「奇異な造形」は当然こんな疑問にも繋がります。
そこらあたりを、ちょいと探ってみるとこんな説明になっていました。
~兜を被った際に頭が蒸れるのを抑えるために始まった風習とされる~

なるほど、兜とは、まあ戦闘用の頭部保護用「大型重量ヘルメット」ほどの
イメージの代物ですから、そんなもんを被って戦場を動き回れば、誰の
頭だって暑くて蒸れるに決まっています。
そこで、頭のテッペンの毛髪を無くし風通しを良くすることで、防暑対策と
したようです。

事実、この「月代」は鎌倉時代や室町時代の頃にも既に行われていたそう
です、当時は戦時の間だけ兜による頭の蒸れ対策として採用し、平時に
戻れば兜を被ることがなくなるわけで、髪型も「総髪」(月代無し)に戻していた
とのことです。

なぁるほど、「頭が蒸れ対策」を考慮した戦闘用髪型かぁ・・・だから、戦場に
出ることのない女性は「月代」にしなかったというわけか! 
こんな合点ができる反面で、この説明の不十分さにも気がつきます。
~そんなら、平和が続いた(つまり戦がなかった)江戸時代には、髪型の
  主流が「月代」でなく「総髪」になっていてもよかったはずですが?
  ええぇ、そこのところはどんな按配だったのしょうか?~


その「総髪」についてはこんな説明がされているのです。
~江戸時代前期からは男性の神官や学者、医師の髪型として結われ始め、
  江戸時代後期には武士の間でも流行した~

言葉を換えれば、さらにこんな疑問にも繋がっていきます。
~戦もなく平和が続いた江戸時代には、戦時における「頭の蒸れ」対策の
  必要がなかったのに、なぜ武士も農民も町人も「月代」を愛用し続けて
  いたの?~


要するに、「月代」が継続されたのには、「頭の蒸れ」対策以外の理由が
あったことになりそうです。 では、いったいそれはどんな理由なのか?
いささかややこしい言い回しになって恐縮ですが、そこに「合理的な理由」を
見つけられないとしたら、それとは別な「非合理的な理由」があったと考える
のが、合理的な考え方ということになりそうです。

福沢諭吉66 桂小五郎02













福沢諭吉の「月代」ヘッド/桂小五郎の「総髪」ヘッド

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「非合理的な理由」には、民族としての文化や慣習が挙げられますが、
宗教・信仰の関わりも決して小さいものではありません。
そこで、そうした面での江戸時代の特性を探してみると、まずは第一に
「朱子学」に突き当ります。

戦国の世を勝ち抜き、江戸幕府の創立者となった徳川家康(1543-1616年)は、
謀略・裏切り・なんでもありだった戦国時代を風潮を総括した上で、幕府の
公式学問として「朱子学」を採用しました。
武士・大名などに高いモラル・忠誠心を定着させるためでした。

なぜなら、朱子学は「孝(親孝行)」を人間最高の徳としているからで、
その「朱子学」を浸透させることで、親に対するのと同様に、主君・主家にも
孝行(これを「忠」という)に努めることが、武士たる者のあるべき姿であると
する、いわば意識改革を計ったわけです。

ただし、このあたりがちょいと微妙ですが、「朱子学」を客観的に眺める
なら、名前通りの「学問」というよりは、むしろ「朱子教」と呼んだ方が適切と
思われるほどに「宗教・信仰」に近いものです。
ただ、これを打ち建てた中国南宋の儒学者・朱熹(1130-1200年)サン
ご自身が「学問である」と主張しているために、その意向を尊重する意味も
あって日本においては「朱子学」と呼んでいます。

そして、その「朱子学」を採用した徳川家康が、死後に東照大権現という
神様?に祭り上げられたことで、結果こんな思想が拡散しました。
~家康サマが決めたこと、行ったことに、間違いなんぞがあろうはずが
  ないッ! なにせ東照大権現、つまり神様?の言動なのだからな~


「何事も御先祖様がやり方こそが正しい」として、親や御先祖様のやり方を
否定しないこの考え方は、朱子学の「孝(親孝行」にも繋がる意識でもあり、
言葉にすれば「祖法第一」ということであり、現代風の別の言葉なら「前例主義」
ということになるのかもしれません。

そこで、こうした要素を重ね合わせながら、この奇髪?の話に戻って「月代」を
捉え直してみると、こんな思いも浮かび上がってきます。
~権現(家康)サマの頃は、武士はもちろんのこと、百姓も町人もみんな
  揃って「月代ヘッド」だったではないか・・・だったら、そうした慣習を
  むやみに変えるなぞはモロに「祖法違反」ということになるのだでぇ~


確かに、チョイ前の戦国時代には兵農分離がまだまだ行き届いていなかった
こともあって、民・百姓とて戦場へ駆り出され、被り物を用いる機会も少なく
なかったでしょうから、「頭の蒸れ対策・月代」は必需の髪型だったのでしょう。

ところが、戦もなく平和な世の中に移ってからも、実はこの「月代」が
なくなってしまいませんでした。 要するに、こういうことになります。
~合理的に考えれば「月代」不要の環境(平和)にありながら、非合理的な
  思想をもって「月代」を継続させていた~


概ね江戸時代を通じてこのポリシーは守られ続けましたが、権現・家康が創業
した当の老舗・江戸幕府にはっきりと衰えが見せ始めた幕末期ともなると、
それとリンクするかのように「月代絶対」の風潮にも緩みが見え始めます。

この頃に活動した方々の肖像画・肖像写真を確かめてみると、
月代を剃らず全ての髪を残しているヘアスタイルも少なくありません。
○第14代将軍・徳川家茂(1846-1866年)/孝明天皇妹姫・和宮と結婚
○幕臣・勝海舟(1823-1899年)/江戸城無血開城を実現
○土佐藩郷士・坂本龍馬(1836-1867年)/大政奉還成立一月後に暗殺
○長州藩士・桂小五郎(1833-1877年)/薩長同盟を推進
○新撰組局長・近藤勇(1834-1868年)/新政府側に捕縛され梟首

逆に言うなら、「外国」勢力が遠慮なしに押し寄せるようになった幕末期には、
何事にせよ、それまで幕府が絶対のルールとしていた「祖法第一/
前例主義」では乗り切れない状況になっていたということでしょう。

それは、~頭のテッペンにある祖法(月代)~も例外ではなく、江戸幕府の
弱体化と共に、「非月代(総髪)」姿も増えていったように感じられます。
ちなみに、これは江戸幕府崩壊(1867年)より後のことですが、こんな言葉も
登場したようです。

~半髪(ちょんまげ)頭を叩いてみれば、因循姑息な音がする。
  総髪頭(長髪)を叩いてみれば、王政復古の音がする。
  散切り(ざんぎり)頭を叩いてみれば、文明開化の音がする~

蛇足ですが、続きは筆者謹製の付録。
~剃髪(スキンヘッド)頭を叩いてみれば、しゃれこうべの音がする~



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