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zoom RSS 日本史の「陰謀」26 誘惑されて棄てられて

<<   作成日時 : 2018/08/05 00:01   >>

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「豊臣秀吉の子飼いの家臣」といえば、まあ大抵は福島正則(1561-1624年)や
加藤清正(1562-1611年)あたりの顔が浮かぶものです。
もっとも、筆者の場合は直接にお会いしたことがないこともあって、むしろ
「(顔より)名が浮かぶ」と表現した方が適切かもしれません。

じつはこの二人の主家・豊臣家に対する忠誠心は主君・秀吉(1537-
1598年)が亡くなった後もまったく揺るぎがありませんでした。
ただし、同じく豊臣家に忠誠を尽くす石田三成(1560-1600年)とは反りが
合わず、反目どころか「三成暗殺」を企て実行したこともあるほどでした。

この時は、身の危険を察知した三成が政敵・徳川家康(1543-1616年)の懐に
逃げ込んだことで、結果として「未遂事件」(1599年)に終わりましたが、
ともに豊臣家に忠誠を尽くす双方でありながら、命のやり取りをするほどの
決定的な「仲違い」があったことは不思議といえば不思議な気がします。

一般的にはその理由に、秀吉時代に開始されたいわゆる「唐入り」
(文禄の役/1592-1593年)の折に発揮した清正の活躍を、三成が
正当に評価しなかった(と清正は受け止めた)ことなどが挙げられています。
清正〜ワシの働きを正当に評価できない、しようともしない三成なんて
     トコトン能無しで腹黒い奴だ〜

それに対し、
三成〜いかにイケイケドンドン・猪突猛進の戦をしたからといって、御家の
     経営はそれだけで成るものではありゃせん。 そのへんの機微に
     理解が及ばない清正らは知恵足らずのイノシシ武者に過ぎんッ〜


要するに、清正や正則を「軍功」に重きを置く武将・軍人タイプとするなら、
三成は「経営」をより重視する事務職・官僚タイプということで、こうした
両者の体質の違いが反目を生み、それが結果として「三成暗殺未遂事件」に
まで発展したものと解釈されています。
ですから、この二人は豊臣家の中でもいわば「反三成派」の位置に立って
いたことになります。

その構図からすれば、後に繰り広げられた実質的に「豊臣家VS徳川家」の
対決となった「関ヶ原の戦い」(1600年)の際に、三成主導の「西軍・豊臣方」に
二人の顔が見えないのは、ある意味当然なことかもしれません。
そんな「不倶戴天の敵」三成の企てにノコノコ参加し協力するのはシャクの
タネだからです。

もっとも、その三成が仮想敵国視する当代一の実力者・徳川家康
専横的な行動を全面的に認めていたかといえば、少なくとも清正はそうでは
ありませんでした。
それなりの反骨を発揮したことで、「家康の命令を無視した」との理由もって、
当の家康から「国元(肥後)で謹慎せい」とのお叱りを受けたほどです。
このために、清正の「関ヶ原の戦い」参加は許されませんでした。

〜豊臣家に忠誠を尽くしている清正に参加を許せば、土壇場でひょっこり
  寝返ることがあるやもしれん〜

ひょっとしたら、「清正謹慎」の措置には、家康にこんな思いがあったのかも
しれません。
ところが、そうした待遇とは無縁だったのが一方の正則で、「関ヶ原の戦い」
の前哨戦とも言える「会津(上杉景勝)征伐」(1600年)に従軍していました。

そして、そのさなかに「三成挙兵」の報が入ります。
家康にとってこれは「想定内」のこと、というより「会津征伐」の行動こそ、
「三成挙兵」へ向けた誘い水だったわけです。
で、この成り行きの中で家康は従軍諸大名を集め、善後策?を諮りました。
いわゆる「小山(おやま)評定」(現:栃木県小山市)です。

豊臣家五大老の筆頭格でもある家康は、この席でこう切り出したとされて
います。
〜さてはて、こうなれば豊臣家安泰を図るためにも奸臣・三成を討たねば
  ならぬ。 しかしながら、諸将には、大坂(三成方)に人質を取られておる
  など各々の事情も抱えておられようから、ここはこちら(徳川方)に味方
  するも、大坂(三成方)に味方するのも、各人の自由意志にお任せしよう〜

まことにかっこいいセリフです。

福島正則01 誘惑されて61




 



福島正則/映画「誘惑されて棄てられて」1964年

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諸将の多くが逡巡する中で、真っ先に威勢のいい決意を披露したのが、
誰あろう、この福島正則だったようです。
〜ボクは断然内府(家康)殿にお味方いたすッ!〜
これが口火となって熱気を帯びた評定は、まるで「徳川方決起集会」もどき
の雰囲気に包まれました。

結果、ここに集まっていた「会津征伐軍」は、たちまちのうちに実質的な
「(関ヶ原)東軍・徳川方」に衣替えした形になり、反転して西上する方針が
決定されたとされていますが、それにしても、野の場における正則の言動は
なんともまあドラマチックです。

これには、自身の「三成憎し」の気持ちが色濃く反映していたのは事実で
しょう。
しかし、それ以上に家康の参謀役?黒田長政(1568-1623年/黒田官兵衛
の嫡男)による働きかけも大いに影響していたと思われます。

勧誘?懐柔?説得?折伏?・・・どう呼ぶのが適切かは別にして、ともかく
秀吉子飼いの家臣」である正則に対して、徳川方はかなり熱心に「誘惑」
もどきの工作を重ねたようです。
それなりの実力を備えた武将が「土壇場で敵側(豊臣方)に寝返った」
なんてことになろうものなら、それこそ徳川方とっては「あっちゃーッ!」
のハメですからね。

ちなみに、〜心を迷わせて誘い込むこと。 よくないことにおびき出す〜
これを「誘惑」と表現するそうで、この時長政が仕掛けた誘惑は正則に対して
だけでなく、秀吉の甥で、西軍に付いた小早川秀秋(1582-1602年)や、
西軍総大将・毛利輝元の一族に当たる吉川広家(1561-1625年)にも及び、
これを成功させているのですから、この方面で長政には父・官兵衛譲りの
才能が備わっていたのかもしれません。

この「誘惑」?の結果がいかに大きなものだったのか?
〜「関ヶ原を徳川の勝利に導いたのは、長政の働きがハンパなく大きく、
  まっこともって一番の功労者である〜
 
家康のこの評価は、後に「筑前国52万石」の黒田家となって現れています。

さて、天下分け目のこの「関ヶ原の戦い」で、一応の決着を見たうえに、
さらには当面の敵であった石田三成までをも死に追い込んだものの、
勝者・徳川家が敗者・豊臣家を滅亡させるまでには至りませんでした。
ですから、家康にしてみれば、生き残りの「豊臣家シンパ」である清正や
正則の存在はどうしたって気になるところです。

そこで、今度はこの「豊臣家シンパ」である諸将に目が向いていきます。
家康は清正に対して、「徳川・豊臣の和解」のための活動を期待していた
ようです。
それこそ「秀吉子飼いの家臣」の清正なら、ツッパリの姿勢を崩さない
秀吉遺児・豊臣秀頼(1593-1615年)やその母・淀殿(1569?-1615年)を
説得できるのではないかと考えたわけです。

〜天下人はワシ(家康)・・・この事実はビクとも動かないが、昨日の敵・
  豊臣家だって、一大名としてなら存続も認めるにやぶさかではないゾ〜

言葉を換えれば、家康にはこれくらいの気持ちは持っていたということに
なります。
この「家康からの宿題」?に対し、清正は清正で真摯に取り組んだようです。

ところが、それが陽の目を見ないうちに急死。
〜清正は熊本に帰る途中に発病し口がきけなくなり健康は回復しなかった〜
清正の急死は、一応このように説明されていますが、一方で家康または
その一派による毒殺説もあるようです。

〜清正の働きかけにも拘わらず、どうやら大坂方(秀頼・母淀殿)には、
  ワシの好意溢れる?譲歩を呑む気はないようだな〜

そう見切った家康に残された手は、大坂方は滅ぼすしかないことになり、
そうであれば、「秀吉子飼いの家臣」清正の存在はかえって邪魔になる
わけですから、「清正毒殺説」も一概に荒唐無稽とは言い切れません。

片や、かつて熱血青春ドラマもどきに「ボクは断然内府殿にお味方ッ!」
叫んだ福島正則のその後も決して順風満帆には運んでいません。
豊臣方との最終決戦である「大坂の陣」(冬:1614年/夏:1615年)の際には、
幕府が正則の従軍を許すことはありませんでしたし、家康の死後には、
無断で(広島)城を修理したと咎めたて、さらに最後は改易の沙汰まで
下しています。

実際には「無断修理」ではなく事前の「届け出」があったようですが、
幕府はこれを握り潰し、罪をでっち上げることまでして正則を追い込んで
いったわけです。

「戦国の雰囲気を漂わしている、秀吉子飼いの家臣・福島正則」の存在は、
間髪を入れなずに「もはや戦後ではない」と宣言したい幕府にとって、いささか
お荷物になってきたということでしょう。
正則や清正が辿ったこうした一連の流れを眺めてみると、こんな感想にも
なります。 (秀吉子飼いの家臣は)誘惑されて棄てられて〜

ちなみに、メッチャ古い映画に同名の作品がありました。 
(1964年「誘惑されて棄てられて」監督:ピエトロ・ジェルミ)
「だから、なんだと言うのだッ?」・・・ってか?
いや、なにげに今ひょっこり思い出したものですから、今回のタイトルに
借用したことを白状しておきたかっただけですねん。
 


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