日本史の「デジャヴ」25 二度ある落城は三度ある

ヘソ曲がり系の方々に念のためにお断わりしておきますが、ここでいう
「落城」とは~城が空から降って落ちてくる~ことではなく、オーソドックスに
~敵に城を攻め落とされること~の意味で使っています。
ほとんど「非日常」の光景とも言ってもいいこの「落城」を、実は生涯に
三度も体験している女性がいます。

もちろんそれは現代人ではありません。
遥か昔のいわゆる「戦国時代」に生きた女性で、本名を浅井茶々(1569-
1615年)といい、後に天下人・豊臣秀吉(1537—1598年)の側室となり、また
秀吉の遺児・秀頼(1593-1615年)の母でもあった「淀殿」と呼ばれた方です。
ちなみに、この母・淀殿と息子・秀頼の没年が同じなのは、偶然ではなく、
「大坂の陣」(1614/1615年)で敵・徳川家康軍に追い詰められたこの
二人は揃って自害を選択したからです。

ここでは「淀殿」の名で通しますが、さて淀殿の伯父(母・市は信長の妹)に
当たる織田信長(1534-1582年)に敵対した父・浅井長政が攻め込まれ
果てた折、母妹たちと共に淀殿も救出されましたが、居城・小谷城
(近江国)は落城・・・これが「淀殿」僅か5歳(1573年)の時の出来事でした。

この後に、母・(1547-1583年)が信長家臣・柴田勝家(1522?-1583年)と
再婚する道を選んだことから、母妹共ども勝家の北の庄城(越前国)に
移り住むことになりました。
これが、家臣・明智光秀の謀反により信長が自害に追い込まれた
「本能寺の変」(1582年)と同じ年のことでした。

ところがその翌年、今度は新たな父となった勝家と、かつての同僚・羽柴秀吉
(後の豊臣秀吉/1537-1598年)との間での開戦を招くに至り、その結果
追い詰められた勝家と市は自害。 北の庄城は落城。
15歳の「淀殿」にとっては小谷城以来二度目の落城体験です。
以後の「淀殿」は父・勝家の仇である秀吉の保護を受けることになります。

どうやら秀吉は「淀殿」の美貌にゾッコン参っていたようです。
秀吉がかねてより思いを寄せていた憧れの女性「お市の方」の美貌を
この「淀殿」が一番強く引き継いでいたことが、その理由とされています。
そこで秀吉は、勝者の特権とばかりに、この「淀殿」をちゃっかり側室にした
わけですが、そうしてみると、アナタほどではないにせよ秀吉もなかなかの
スケベだったかもしれません。

とは言っても、何しろ後には天下人にまで上り詰めた秀吉ですから、その
側室である「淀殿」の生活は、概ねのところに不自由ないものだったと
思われます。
ところが、その秀吉が死んだ途端に、それまで秀吉の家臣並みの境遇に
甘んじていた徳川家康(1543-1616年)が急速に台頭し、「豊臣家」を
上から目線で扱う言動を見せ始めるようになると、ちょっとばかり雲行きが
怪しくなりました。

~無駄なツッパリは止めて、豊臣家は明日から徳川家の家臣になりなされ~ 
家康の意向を簡単に言えばこういうことでしょうが、淀殿にすれば必然的に
こんな態度を取ることになります。
~なにさ、昨日まで父ちゃん(秀吉)の家来だったくせに、偉そうに!~
結局は両者間において開戦。

そして、この「大坂の陣」(1614/1615年)に敗れた淀殿(この時47歳)は、
息子・秀頼と共に自害に至り、大坂城もまた落城しました。
ですから淀殿は、小谷城(近江国/1573年)・北の庄城(越前国/1583年)・
大坂城(1615年)と、生涯三度に渡る落城を体験したことになるわけです。
~二度ある落城は三度ある~

浅井3姉妹01 大坂城01








母・市と幼い浅井三姉妹/現在の大阪城

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実は、その大坂城そのものもある意味で~二度ある落城は三度ある~でした。
最初にこの場所(または付近の地域)に城を構えていたのは本願寺でした。
今うっかり「城」として書いてしましたが、実際には浄土真宗「石山本願寺」と
称する寺院です。
ただ、この呼び方は後世のもので戦国時代の当時は「大坂本願寺」とも、
それどころか、そのものズバリ「大坂城」とも呼ばれていたようです。

本山を中心にして「壕」(敷地周囲に掘られた防衛用の溝・堀)や「土居」
(敵侵入を防ぐための土製の堤防状の壁)を設けたばかりか、そこには
「寺内町」(信者・商工業者などが集住)まで有していたそうですから、ガチガチ
に防御を固めた「要塞国家」であり、ちょっとした「小規模独立国」並みの
構造を備えていたことになります。

当時の宗教勢力の目に余る横暴に手を焼いていた織田信長は、そうした
状況を是正すべく動き出し、そうはさせじとするこの「石山本願寺」の宗主・
顕如(1543-1592年)と正面衝突します。

両者間に繰り広げられた「石山合戦」(1570-1580年)は10年以上も続いた
末に、結局講和に持ち込まれて、宗主・顕如は退去を余儀なくされました。
ところが、この「石山本願寺」は引き渡し直後に火を出し、三日三晩燃え
続けた挙句、完全に燃え落ちてしまったのです。
火事で焼け落ちることを「落城」と表現していいのかどうかはよく分かり
ませんが、ともかく「影も形も無くなった」ことになります。

主君・信長がこの「本願寺攻略」に手を焼く姿を間近で見ていた豊臣
秀吉は、立地条件に恵まれたこの地に無関心でいられるほどにお人好し
ではありませんでした。
その跡地(または付近)に、さっそく新たな城「大坂城」を築いたのです。

先にも書いたように、この「大坂城」は「大坂の陣」で落城しています。
少し前の信長時代の「石山本願寺」の落城?を一度目とするなら、秀吉の
「大坂城」落城は二度目のことになります。

~二度あることは三度ある~という言葉もあれば、はたまたその逆に
~三度目の正直(一度や二度はともかく三度目には期待通りの結果になる)
という言葉もあります。
その「三度目の正直」にチャレンジしたのが、徳川家康の後継者である、
江戸幕府第二代将軍・徳川秀忠(1579-1632年)でした。

ちなみに、この秀忠の正妻は「淀殿」の末妹である「江」です。
なんでも、秀忠はこの「江」サンが亡くなるまでしっかり尻の下に敷かれ
続けていたようですから、いわば「恐妻家」の走り、要するにアナタの
大先輩に当たる人物と言っていいのでしょう。

それはともかく、「大坂の陣」で廃墟と化した大坂城の再築工事は1620年に
始まりました。
この大事業には、前天下人・豊臣家の色を払拭したいとする政治的意図も
ありますから、幕府の長・秀忠に力が入るのは当然です。
西国・北陸の外様大名を中心に六十四家の大名を動員した幕府は、
いわゆる「天下普請」として進め、1626年には天守を完成させ、1629年には
晴れて竣工させました。 
三代将軍・家光の時代を迎えていましたが、秀忠の「三度目の正直」は
実現したと言っていいかもしれません。

ところがダ、「三度目の正直」がスンナリ実現するほど、世の中甘いもの
でもなかったようです。
天守を完成させてからわずか 39年後(1665年)には、その天守を落雷に
よって焼失させてしまったのです。
こういう場合は、あくまでも「落雷」が原因と説明するのが正しく、本来の
「落城」とは一線を画すべきかもれませんが、それに拘らず話を進めるなら、
この天守の復興は昭和時代(S6/1931年)まで待つことになり、それまでの
266年間は「天守なし(スリム体形?)の大坂城」のままでした。

そして、この「大坂城」は幕末維新の時代にも、さらなる試練を経験して
います。
「王政復古の大号令」(1868年)の後のこと、江戸幕府最後(第15代)の
将軍・徳川慶喜(1837-1913年)は、それまでいた二条城を追われるような
形でこの大坂城に移り住むことになりました。

元はと言えば、大坂城は幕府直轄、つまり持ち主は将軍なのですから
それほどの遠慮も働かなかったでしょうが、「鳥羽・伏見の戦い」(1868年)で
一敗地にまみれた旧幕府軍の総大将・慶喜が一目散で江戸へ退却
(敵前逃亡?)してしまったために、この大坂城は新政府軍に明け渡される
ことになりました。

なにせ昨日まで徹底抗戦の檄を飛ばしていた総大将が、突然行方不明?
になったのですから、現地が大混乱に陥るのも無理はありません。
その混乱のさなかに大坂城は火を出し、城内の建造物のほとんどを
焼失してしまったのです。

正確にはこれも「落城」とは表現しないのかも知れませんが、なにしろ
戦時のさなかの出来事ですから(もしこんな表現があればの話ですが)、
「準(セミ)落城」くらいの言い方は許されるのでは? 
つまり、大坂城も~二度ある落城は三度ある~ことになったわけです。

ちなみに、筆者はいまだかつて「落城」の光景を見たことはありません。
しかしながら、人間が為す「薄情」な光景は何度も見ています。
もっともそれを為した「薄情人物」こそ、誰あろう筆者自身であることを、
今ここに全面的に「白状」しておきます。 ゴメンね。

勘の鈍い方にまたまた念押しをしておきますが、上の文章は
「落城」(らくじょう)、「薄情」(はくじょう)、「白状」(はくじょう)というように、
実は韻を踏んだセンスある言葉遊びになっているのですねぇ、これが。



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