日本史の「デジャヴ」18 幕末”御預浪士”の正義

名刺からはみ出してしまいそうな、この長ったらしい名乗りが
「新選(撰)組」の正式な名称です。 
~京都守護職/会津藩松平肥後守容保中将/御預浪士/
  新選(撰)組~
(前身は壬生浪士組 ※松平容保(1836-1893年)

幕臣(旗本・御家人)で構成された正規(公的)の組織である
「京都見廻組」とは異なり、こちらは浪士・町人・農民などを
集めたいわば非正規(私的)組織で、そのことを「御預浪士」
という言葉で表しています。
ただ「新選組」と「新撰組」の表記の違いについては、さして
強い拘りはいなかったのか、局長・近藤勇(1834-1868年)自身も、
両方の書き方を使っていたようです。
 
その「新選組」(1863-1868年)はこんな任務に当たりました。
○京で活動する不逞浪士・討幕志士らの捜索・逮捕
○担当エリア内の巡察・警備、また反乱の鎮圧

要するに、幕府に敵対する一派への徹底的な「取り締まり」、
さらに言うなら、「一掃」活動を行っていたわけです。

当然、「新選組」の日常は「命懸け」と隣り合わせでした。
ですから、その辺りの雰囲気をドラマなどでは、隊員の颯爽と
した立ち振舞いとして描くことも少なくありません。
しかし、ただ「颯爽」だけで組織を機能させられるかといえば、
世の中それほど甘いものでもなく、何をするにもまずは「お金」が
必要です。 その点は「新選組」も例外ではありませんでした。

後には「会津藩」から、さらにその後には「幕府」から一定の資金
を得られるようにはなったものの、結成当初は極端な資金難に
苦しみ、そのため一般の商家から資金を無理やり提供させたり
もしたようです。 これってモロに「恐喝」ですよね。

ともかく、24名の構成で発足した前身「壬生浪士組」「新選組」
の最盛期ともなると200名ほどに膨らんだそうですから、こうした
行為は「結成当初」だけでなく、おそらくはその後も続けていた
ものと思われます。
この辺りは、現代暴力団の「みかじめ料」を想像すれば理解が
早いのかも?

また、活動期間中に内部から45名ほどの死亡者を出したとも
言われています。 それほどに危険が伴う任務だったわけです。
ところが、討幕志士との戦闘など、本来の任務での死亡者
(殉職?労災死?)はその内のわずか6名とされているのが
いささか腑に落ちない点で、もし、この数字が正しいとしたなら、
~ほんなら、残りの39名はどんな亡くなり方をしたのか?~


新選組芹沢鴨01 新選組近藤勇51










筆頭局長:芹沢鴨/局長:近藤勇

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驚くことに、その多くは組織内部での「粛清」、少し古い言葉なら
いわゆる「内ゲバ」に当たるものでした。
同志に対して、切腹を強要、あるいは暗殺の決行、つまりは
こうした行為によって「敵」?より遥かに多い人数の「同志」を
殺した・・・ということになってしまいます。
※「内部ゲバルト」の略語で、「ゲバルト」は暴力を意味するドイツ語。

集団を律するために、確かに厳しい隊規を設けていました。
しかしその解釈・可否判断は幹部の「胸先三寸」に白紙委任?
されたような譲許にあったことが大きな問題でした。
このあたりの状況はイヤでも、昭和時代の「連合赤軍」による
「山岳ベース事件」を連想させるものがあります。

横道に逸れますが、ちなみにその「山岳ベース事件」とは?
1971年12月末からの約2ヶ月半の間の出来事でした。
あまりの先鋭化に、市民からは見放された過激派思想集団?
「連合赤軍」は警察の追及に追い詰められるや、些細な言動を
取り上げて仲間を「総括する」という行動に出ています。

この時も、その裁判権?を握っていたのは数人の幹部でした。
昨日までの同志(敵ではない!)を、容赦なく次々と集団リンチ
にかけるや、最終的に「粛清」(命を奪う)にまで及びました。

同志(29人の内12人)を「粛清」し続けたその手口は、言葉に
出来ないほどの凄惨さを極め、まさに人間の「狂気」の果て
を思い知らされるほどのものでした。
※その「狂気」の様は、高木彬光著「神曲地獄編」に詳しい。

「新選組」ファンには大変失礼な物言いになりますが、この武闘
集団にも、そうした傾向が皆無でなかったことは、心に留めて
おく必要があるかと思います。
つまり、同志を粛清・暗殺しても、彼らはそれは「規律違反」を
糾さんがための「正義」の行動と捉えていたフシが感じられると
いうことです。

「連合赤軍」がまさしくそうだったように、「新選組」もまたこうした
行動に自らが歯止めをかけることはできませんでした。 
初代筆頭局長・芹沢鴨(?-1863年)山南敬助(1833-1865年)
伊藤甲子太郎(1835-1867年)藤堂平助(1844-1867年)なども、
新選組同志による切腹強要や暗殺実行で命を落としています。
※フィクションですが、1964年映画「幕末残酷物語」(主演:大川橋蔵)は、
  「新選組」をこうした一面を持った集団として描いています。


なぜそれを止められなかったのか? おそらくは、それが本来
あるべき「武士の姿」だと信じていたからなのでしょう。
ですから、心理面から眺めるなら、こんな説明もできそうです。
~隊員の心中には「武士以外」(元は浪士・百姓・町人など)の出身
  であることが、一種のコンプレックスとして沈殿しており、
  そのことがホンマモンの武士以上に「武士」でなければ
  ならないとする一種の脅迫観念を生んでいた~


しかし、明治に入って新政府VS旧幕府による「戊辰戦争」(1868-
1869年)
が始まると、旧幕府側に従って転戦した「新撰組」も、
隊員が散り散りになってしまい、結局のところ、なし崩し的な
解散に追い込まれていきました。

そうした中にあって、「鬼の副長」と称された土方歳三(1835-
1869年)
が北海道にまで転戦し、「函館戦争」(1868-1869年)
おいて、ついに戦死に至ったことはドラマなどで割合知られて
いるところです。

「信念」を持つことは確かにカッコイイ。 しかしそれが過ぎると、
むしろ「害」になりかねないことを歴史は伝えているわけです。
賢明にもそのことに気がついたワタシは、それ以降、
~「信念」なんぞは決して持たないこと~
これを固い「信念」としているのですねぇ、実は。




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306 日本史の「デジャヴ」15 日本版?”アーミッシュ” 先人と同じが善なり
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