日本史の「謎解き」06 ”米”はどこへ消えた?
この「統計」?が正確なものか、もちろん議論もあるでしょうが、
江戸時代の米の生産量と人口には(幾分の凸凹はあるものの)、
概ね比例関係があるように見えます。
つまり、人口が2,000万人と推定される頃の米の生産量は
概ね2,000万石、2,500万人の頃なら2,500万石程度ということです。
もっとも、幕府への各藩の石高申告には作為的な「過少申告」が
あったとか、新田開発分は内緒にしたりとか、はたまた「米」だけ
ではなく、麦や雑穀などもカウントする藩もあったとか、色々言い
出せばキリがありませんが、人間一人が一年間に消費する米の
量が「一石」とされていますから、その基準からも、ひとつの目安
にはなる数字かと思えます。
また、米の生産者「農民」と、それ
以外の人々、つまり「士農工商」の
うち非農民系「士工商」に属する
人口比率についても様々な推定が
あるようですが、これもエイヤッ!
とばかりに「80:20」と仮定します。
僧侶・漁師・猟師など「農民」と呼ぶにはやや疑問符がつく人々も
「非農民系」の「20」の側にカウントすることにします。
※「士」以外を表す言葉としての「百姓」でも現在は使っていけないのでしょうか?
さらに、農民が納める税金?「年貢」の率も、少々乱暴ですが、
これも分かりやすい数字で「五公五民」としてしまいます。
つまり、農民側の手元には生産した米の半分(50%)しか
残らない、という前提にするわけです。
こうしておいて、さて「もし、日本が100人の村だったら・・・」です。
80人が農民、20人がそれ以外(非農民=士工商・他)ということ
ですから、お米の配分は80人の農民側に50石、そして
20人の非農民側に50石、当然このようになります。
ということは、80人の農民が手にできた「米」は50石ですから、
一人一年一石の公式?からすると、必要な量の半分程度しか
確保できなかったということになります。
そこで、これだけを見て「百姓は米を食べられずに、稗(ひえ)
や粟(あわ)ばかりを食べていた」という解説が出てくることに
なるわけです。
この解説は一見とても合理的に見えますが、実は変ですゼ。
どこが?
この解説を反対側から見てみると、20人の非農民がナント50石
もの大量の米を消費したことになってしまうからです。
そりゃあ、幾分かは「お酒」や「せんべい」などの原料に廻ったで
しょうし、20人のうち1人くらいの「大飯喰らい」がいたかもしれま
せんが、それでも、さすがに毎日毎日何倍もの飯を食べ続ける
ことは無理だった、こう想像するのが常識的でしょう。
そうすると、非農民側には、「50石(マイナス)20人分の20石
(イコ-ル)30石もの余剰米」が発生してしまう勘定になります。
では、この大量余剰米(30石)をどのように扱ったのでしょうか?
「備蓄」した? おそらく多少はそうもしたのでしょうが、30石分
全部ではなかったはずです。
なぜなら、1年だけならともかく、毎年毎年30石もの備蓄をし続け
ていたら、「古米」どころか「古々・・・・々米」になって使い物に
ならなくなっちゃうからです。
では、では、輸出に回した? それはあり得ません。
なにしろ「鎖国」の真っ只中ですから、輸出先がないのです。
(出島のオランダ人が大喰い揃いだった?・・・これはヘリクツの類です)
じゃあ、捨てた?
現代日本人ならやりそうなことですが、昔の日本人がそんな
「バチ当たり」な行いをするはずがありません。
う~ん、ではいったいどこへ消えたのサ?その30石ものお米!
な~に、簡単なことです。
農民側に「米不足」、非農民側に「米余剰」、しかも原則的に、
輸出なし/備蓄なし(幾分はしたでしょうが)/廃棄処分なし、と
なれば、結局は80人のところに50石しかない、いわゆる
「食糧不足?」の立場にいる農民側に廻ったと推理するのが
常識的でしょう。
その入手の方法も、おそらくはいたってシンプルなもので、
たとえば殿様から「使役」に駆り出されたときなどの報酬として
受け取るようなカタチも少なくなかったのではないでしょうか。
もちろん、社会インフラ(情報・流通など)は現在より低いレベルに
あったせいで、このような「米の再分配」が上手く運営できずに、
飢饉や餓死者を出したことも確かにありましたが、その点だけを
指摘して「江戸時代の百姓は稗(ひえ)や粟(あわ)ばかりを・・・」と
主張するのも、また極論でしょう。
現代の日本は諸外国に比べ、目立って「自殺者」が多いのは
動かぬ事実ですが、しかし、このことをもって「21世紀日本人の
死因のほとんどは“自殺”だった」と結論づけるのが間違いである
のと同様です。
さて、かつて冷夏による米不足に陥った日本が、タイから大量の
“米”を輸入したことがあります。(1993年)
この“大量輸入”が、タイ国内の米価暴騰を招き、タイ国民にも
多大な難儀を強いたにもかかわらず、輸入した側の日本では
その“米”を不法投棄した事実もありました。
そう、20年前の日本人には、「味がまずい」という理由をもって、
“米”を捨てた前科があるのです!
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~日本史の「謎解き」05 賜姓のアリバイ~ 賜姓は鎌足ではなかった!
~日本史の「謎解き」04 三種神器の象徴~ 意味があって三種を選んだ!
~日本史の「謎解き」03 鏡じかけの舞台~ 神様に尻を向けるのか!
~日本史の「謎解き」02 綱吉の可視政策~ 無理を承知の法律づくり!
~日本史の「謎解き」01 信長の財テク~ どこでそんな資金を作ったのか!
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江戸時代の米の生産量と人口には(幾分の凸凹はあるものの)、
概ね比例関係があるように見えます。
つまり、人口が2,000万人と推定される頃の米の生産量は
概ね2,000万石、2,500万人の頃なら2,500万石程度ということです。
もっとも、幕府への各藩の石高申告には作為的な「過少申告」が
あったとか、新田開発分は内緒にしたりとか、はたまた「米」だけ
ではなく、麦や雑穀などもカウントする藩もあったとか、色々言い
出せばキリがありませんが、人間一人が一年間に消費する米の
量が「一石」とされていますから、その基準からも、ひとつの目安
にはなる数字かと思えます。

以外の人々、つまり「士農工商」の
うち非農民系「士工商」に属する
人口比率についても様々な推定が
あるようですが、これもエイヤッ!
とばかりに「80:20」と仮定します。
僧侶・漁師・猟師など「農民」と呼ぶにはやや疑問符がつく人々も
「非農民系」の「20」の側にカウントすることにします。
※「士」以外を表す言葉としての「百姓」でも現在は使っていけないのでしょうか?
さらに、農民が納める税金?「年貢」の率も、少々乱暴ですが、
これも分かりやすい数字で「五公五民」としてしまいます。
つまり、農民側の手元には生産した米の半分(50%)しか
残らない、という前提にするわけです。
こうしておいて、さて「もし、日本が100人の村だったら・・・」です。
80人が農民、20人がそれ以外(非農民=士工商・他)ということ
ですから、お米の配分は80人の農民側に50石、そして
20人の非農民側に50石、当然このようになります。
ということは、80人の農民が手にできた「米」は50石ですから、
一人一年一石の公式?からすると、必要な量の半分程度しか
確保できなかったということになります。
そこで、これだけを見て「百姓は米を食べられずに、稗(ひえ)
や粟(あわ)ばかりを食べていた」という解説が出てくることに
なるわけです。
この解説は一見とても合理的に見えますが、実は変ですゼ。
どこが?
この解説を反対側から見てみると、20人の非農民がナント50石
もの大量の米を消費したことになってしまうからです。
そりゃあ、幾分かは「お酒」や「せんべい」などの原料に廻ったで
しょうし、20人のうち1人くらいの「大飯喰らい」がいたかもしれま
せんが、それでも、さすがに毎日毎日何倍もの飯を食べ続ける
ことは無理だった、こう想像するのが常識的でしょう。
そうすると、非農民側には、「50石(マイナス)20人分の20石
(イコ-ル)30石もの余剰米」が発生してしまう勘定になります。
では、この大量余剰米(30石)をどのように扱ったのでしょうか?
「備蓄」した? おそらく多少はそうもしたのでしょうが、30石分
全部ではなかったはずです。
なぜなら、1年だけならともかく、毎年毎年30石もの備蓄をし続け
ていたら、「古米」どころか「古々・・・・々米」になって使い物に
ならなくなっちゃうからです。
では、では、輸出に回した? それはあり得ません。
なにしろ「鎖国」の真っ只中ですから、輸出先がないのです。
(出島のオランダ人が大喰い揃いだった?・・・これはヘリクツの類です)
じゃあ、捨てた?
現代日本人ならやりそうなことですが、昔の日本人がそんな
「バチ当たり」な行いをするはずがありません。
う~ん、ではいったいどこへ消えたのサ?その30石ものお米!
な~に、簡単なことです。
農民側に「米不足」、非農民側に「米余剰」、しかも原則的に、
輸出なし/備蓄なし(幾分はしたでしょうが)/廃棄処分なし、と
なれば、結局は80人のところに50石しかない、いわゆる
「食糧不足?」の立場にいる農民側に廻ったと推理するのが
常識的でしょう。
その入手の方法も、おそらくはいたってシンプルなもので、
たとえば殿様から「使役」に駆り出されたときなどの報酬として
受け取るようなカタチも少なくなかったのではないでしょうか。
もちろん、社会インフラ(情報・流通など)は現在より低いレベルに
あったせいで、このような「米の再分配」が上手く運営できずに、
飢饉や餓死者を出したことも確かにありましたが、その点だけを
指摘して「江戸時代の百姓は稗(ひえ)や粟(あわ)ばかりを・・・」と
主張するのも、また極論でしょう。
現代の日本は諸外国に比べ、目立って「自殺者」が多いのは
動かぬ事実ですが、しかし、このことをもって「21世紀日本人の
死因のほとんどは“自殺”だった」と結論づけるのが間違いである
のと同様です。
さて、かつて冷夏による米不足に陥った日本が、タイから大量の
“米”を輸入したことがあります。(1993年)
この“大量輸入”が、タイ国内の米価暴騰を招き、タイ国民にも
多大な難儀を強いたにもかかわらず、輸入した側の日本では
その“米”を不法投棄した事実もありました。
そう、20年前の日本人には、「味がまずい」という理由をもって、
“米”を捨てた前科があるのです!
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~日本史の「謎解き」04 三種神器の象徴~ 意味があって三種を選んだ!
~日本史の「謎解き」03 鏡じかけの舞台~ 神様に尻を向けるのか!
~日本史の「謎解き」02 綱吉の可視政策~ 無理を承知の法律づくり!
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