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zoom RSS 日本史の「付録」05 幕府憲法?その試行錯誤

<<   作成日時 : 2018/03/01 00:01   >>

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多少の異論はあるようですが、日本の歴史に登場した三つの「幕府」
(武家政権)を古い順に並べれば、概ねのところ、こんな按配になります。
鎌倉幕府(1192-1333年/約142年間/将軍は 9代)
室町幕府(1336-1573年/約238年間/将軍は15代)
江戸幕府(1603-1867年/約265年間/将軍は15代)

各々の幕府は施政者として、当然のごとく数多の制度の整備に手を付け、
その中でも下記の法令を、それぞれその骨格としました。
鎌倉幕府→「御成敗式目」 (51ケ条/後に「貞永式目」とも)
室町幕府→「建武式目」   (17ケ条/「御成敗式目」の追加型?)
江戸幕府→「武家諸法度」 (当初13ケ条/以後たびたびの改訂)

ちなみに「式目」とは、箇条書き形式の制定法のことを意味しています。
また「法度」も法令を意味する言葉ですから、ここにある「諸法度」とは、
あれこれの事柄をひっくるめた「総合基本法(憲法?)」ほどのニュアンスに
なるのでしょうか。

「幕府」(武家政権)とは、そもそもが武士の権益を守るために、それまでの
朝廷政治とは一線を画す形で樹立された政治機構です。
それなら、何事にせよ朝廷を意識せずに、武家の自由勝手に定めても
よさそうなものですが、実はこれら「式目」を構成する「51」とか「17」などの
条文の数は、意外なことに(意外でもないかもしれんが)、朝廷政治の時代
聖徳太子(574-622年)による「十七条憲法」をバッチリ意識した数字に
しているのです。 (51は17のジャスト3倍数)

「幕府」を構築したことで、いまや元気ハツラツの武家階層とは言いながら、
この辺りの成り行きは、元を辿れば「武装農民」に過ぎない者たちの朝廷・
公家など「高貴な人種」に対する一種の「身分的コンプレックス」が影響して
いたのかもしれません。
つまり、当初のうちは「式目」を武家の完全オリジナル作品?と謳うよりは、
そこに聖徳太子の「十七条憲法」を連想させる演出を施した方が、
ある種の箔が付くと考えたということなのでしょう。

さて、最初にある「御成敗式目」が制定されたのは1232年とされています。
ですから、鎌倉幕府の初期はこれが整っていなかったことになります。
このことは特段の不思議でもなく、タネを明かせば、この頃の鎌倉幕府が
その勢力下に置けたのはやっとのこと東日本だけで、西日本は相変わらず
朝廷の勢力下にあったに他なりません。

結局、歩き出した武家政権「幕府」と、それに不快感を示す「朝廷」との間の
直接対決「承久の乱」(1221年)を引き起こすことになり、これが武家側の
完勝に終わったことで、結果としてその微妙なパワー・バランスからの脱却
を果たすことができ、ようやくのこと、「幕府」が全国制覇、つまり西日本に
おいても朝廷勢力を上回るようになったわけです。 

その証拠に、この乱の後には首謀者の罪が問われ、「後鳥羽上皇」(1180-
1239年)は隠岐島へ、またその息子である「順徳上皇」(1197-1242年)は
佐渡島へ、それぞれ配流(島流し)されています。
かつては武装農民に過ぎなかった武士が高貴な朝廷側を罰したのですから、
それまでの主従関係はここにおいて完全に逆転したということになります。

この勝利によって、それまで朝廷からは「穢れた存在」として蔑まれ、何らの
権利も得られず、ほとんど奴隷のような扱いだった武士の境遇が一変し、
この二年後には武士による自前の法律「御成敗式目」が制定されました。
この事実からすれば、「承久の乱」とは当時の日本の最終勝者を決めるべく
「頂上決戦」を意味していたといえるかもしれません。

ここにおいて、武士(御家人)の権利は一足飛びとまではいかないまでも、
「財産相続」や「土地所有」などの点で、一応のところゼロから脱却を果たせた
ということです。

ところが、時の流れと共に鎌倉幕府は衰えを見せ、遂には滅亡に至ります。
その滅亡は後醍醐天皇(第96代/1288-1339年)による「建武の新政」
(天皇直接政治)を招いてしまいました。 あっちゃー!
しかし、後醍醐天皇による自己満足政策?は、武士階級の要求を満たした
ものにはなっておらず、結局のところ短期間で頓挫する形に陥るや、その後
の政治的実権は再び武士階級が掌握しました。 
足利尊氏(1305-1358年)による「室町幕府」がそれですが、武士からすれば、
めでたしめでたしの運びということになります。

北条泰時51 武家諸法度61 








「御成敗式目」北条泰時/「武家諸法度」徳川家康


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早々に「建武式目」(1336年)を制定することで、室町幕府はその施政方針
を示しました。
ところが、実はその中身そのものはそれほど革新的なものにはなっておらず、
むしろ「鎌倉幕府」の正当な後継者が「室町幕府」であることを強調したものに
なっています。
ですからこれは、政治は武家政権「幕府」が連綿と受け継ぐべきものであり、
朝廷は「お呼びでない」、とする意思表示だったとも受け止められそうです。

現に、この「建武式目」は、鎌倉幕府初期の
第2代執権・北条義時(1163-1224年)※1)や、その嫡男である
第3代執権・北条泰時(1183-1242年)※2)の施政時代を理想としていました。
※1)源頼朝の正室・北条政子の弟で源氏将軍断絶後最高指導者。
※2)北条義時の長男で「御成敗式目」を制定した人物。

先に述べたように、「承久の乱」で朝廷を制圧し、三人の上皇を配流したのが
第2代・義時であり、また「御成敗式目」制定したのが第3代・泰時ですから、
後醍醐天皇を失脚させた室町幕府・足利氏としては自らの姿に重なるもの
を感じていたのかもしれません。

特に第3代・泰時の政治姿勢は「道理」というものに重きを置いていたことも
あって、法を軽んずる、いわゆる「ばさら」風潮の台頭に神経を尖らせていた
室町幕府がその抑止力として期待した向きも感じられます。
この「道理」とは、物事の正しい筋道/人として行うべき正しい道/また、
その理(ことわり)ほどの意味で、「御成敗式目」はこれを基本理念にした
ものであり、泰時自身も「道理好み」とされていました。

しかし皮肉なことに、その「道理」も「へったくれ」もない、一口でいうなら
「なんでもあり」の時代が到来します。
元はといえば、幕府管領家の家督争いに端を発したものでしたが、そこに
室町将軍家の後嗣争いまで加わっての戦乱がほぼ全国に渡って拡大した、
いわゆる「応仁の乱」(1467-1477年)の勃発です。
これ以降を一般的には「戦国時代」(1467?-1590年)と呼んでいます。

この時代は、まさに「なんでもあり」の状況を呈していました。
謀略や謀反なんぞは日常茶飯事で、その上に「騙される奴・討たれる者の方
がお間抜け」とされたほどで、たとえば家臣・明智光秀(1528?-1582年)に
よる主君・信長殺し、いわゆる「本能寺の変」(1582年)が、まさしくその通り
の謀反でしたし、またその後の織田家をちゃっかり乗っ取った豊臣秀吉
(1537-1598年)の仕業などは、謀反と謀略を兼ね備えたもので、この時代を
象徴するがごときの出来事でした。

そうした有様をじっと見てきたのが、戦国の世の最終勝者であり、かつ
江戸幕府の創始者である徳川家康(1543-1616年)でした。
〜こんな風潮が続いていては、いつ寝首を掻かれるか分からず
  おちおち枕を高くすることもできせんがや・・・きっと改めねばならん〜


そこで、諸大名を統制するための「武家諸法度」(1615年)です。
その内容は結構細々としたものになっています。 たとえば、諸大名には、
○学問と武術を磨くことに努めなければイカン。
○城を修理するときは、必ず事前に届け出なければイカン。
○幕府の許可なくして勝手に結婚の約束をしてイカン。
○参勤交代の折、決められた以上の家来を連れてきてはイカン。
○不審者を見つけたら、きっちり届け出なければイカン・・・などなど。

ただ、こうした「イカン」の連発だけでは不十分と思ったのか、さらに家康は
幕府の公式学問として「朱子学」を採用しました。
その「朱子学」の最大の徳目は「孝」であり「忠」です。
つまり、謀反を企むような奴は、その「孝/忠」を無視する犯罪者、最低最悪の
「人でなし」だと定義?したわけです。
この概念に、諸大名は以後永らく(幕府滅亡の時期まで)縛られ続ける
ことになります。

性格的にも慎重居士?であった家康は、諸大名だけでなく、なお念には
念を入れて朝廷にも、この「イカン」を連発しています。
歴史好きだったこともあって、かつての後醍醐天皇の行動を知っていたの
でしょう・・・朝廷・公家の政治関与を予防するための法律を布いています。 
それが「禁中並公家諸法度」(1615年)で、ここでも結構口うるさい。
○天皇は学問に専念すべきだゾ。 (政治に口出しは無用!)
○武家の官位は公家の官位とは別のものとするゾ。
  (要するに、幕府とは朝廷の影響を排除した独立機構なのだゾ。)

なかなかに迫力を備えていましたが、さすがに、
〜(江戸)幕府は永久に不滅です〜とはいかず、遂には滅亡に至ることで、
ここに潜ませてあった迫力もただの文章となってしまいました。
ウーム、諸行無常・・・まことに儚いものです。

ちなみに、フランス語交じりのこの英語 〜花束は帽子を示す〜 
“bouquet show hat” ブーケ・ショウ・ハット・・・「武家諸法度」
なんらの意義を持たないオバカな言葉遊びとはいうものの、こうしたことが
まんざら嫌いでもなくなっている昨今の筆者です。



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