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ヤジ馬の日本史

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ヤジ馬の日本史
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日本の常識は世界の非常識?
そんな風土を培った「日本史」の不思議を
せっせとヤジ馬しよう! by 住兵衛
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部分に注目すれば ”大勢の人の姿”に、
全体を眺めれば ”人の顔”に見える不思議。
ならば、「日本史」こそは究極の ”だまし絵”
なのかもしれんゾ! by だまし絵師

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タイトル 日 時
日本史の「信仰」10 朱子学生まれの銭嫌い
日本史の「信仰」10 朱子学生まれの銭嫌い 12世紀・南宋の儒学者・朱熹(1130-1200年)が興した「朱子学」の思想は、 いわば「新儒教」との位置づけがなされていますが、オリジナルの 「儒教(孔子)」に比べると、随分とヒステリックな一面を備えていました。 ...続きを見る

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2018/01/15 00:01
日本史の「油断」08 鎌倉殿暗殺事情三代記
日本史の「油断」08 鎌倉殿暗殺事情三代記 源頼朝が創立したいわゆる「鎌倉幕府」・・・そのトップである「鎌倉殿」の (征夷大将軍)の座には、当初の間頼朝とその息子達が就きました。 これは血統を重視した方法ですが、よほど日本人の感性にフィットして いたものか、後の室町幕府(1336-1573年)も江戸幕府(1603-1868年)も 踏襲しています。 ただ鎌倉幕府については、 初代・頼朝(1147-1199年)のあと、 二代・頼家(1182-1204年/頼朝嫡男/北条政子の長男) 三代・実朝(1192-1219年/頼朝四男/北条... ...続きを見る

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2018/01/10 00:01
日本史の「忘れ物」26 人口僅少時代に巻き戻す
日本史の「忘れ物」26 人口僅少時代に巻き戻す 「小人閑居して不善をなす」・・・小人物(つまらぬ人間)がヒマを持て余すと、 とかく悪事に走りやすい、という意味です。 ところが、確かに「小人物」に違いないけど、筆者の場合は「不善をなす」 どころか、そのヒマを逆利用して人口の変遷、少し堅苦しい言葉なら 「人口動態」、これに目を配ってみました。 褒めてやってください。 ...続きを見る

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2018/01/05 00:01
日本史の「デジャヴ」22 ヤマト民族のヘソ曲がり
日本史の「デジャヴ」22 ヤマト民族のヘソ曲がり 日本における「本格的」な法体系は第42代・文武天皇の時代(683-707年)に 制定された「大宝律令」(701年制定)が最初とされています。 この時の「律令」制度は、それなりの努力を払い日本社会の実情に合うように 多少の編纂は加えたものの、骨格部分は当時の最先進国・唐(中国)の 「本場の律令」そのものでした。 ...続きを見る

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2017/12/30 07:20
日本史の「世界標準」22 平文氏のローマ字熱意
日本史の「世界標準」22 平文氏のローマ字熱意 たとえば、日本文字で表記するなら、「歩く/あるく/アルク」の音韻を アルファベットを使って「aruku」と記す方法を「ローマ字」と呼んでいます。 〜そんなの面倒くさい・・・オリジナルの英語で「walk」とした方が、   手っ取り早くってわかりやすいじゃん〜ってか? そう言われると、英語不如意?の筆者なぞは 〜腹の立つ奴っちゃ! だったらここから先は読ませんゾ!〜 こんな「瞬間湯沸器」?もどきに逆ギレしてしまうところですが、ここではグッと こらえておくことにします。 ...続きを見る

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2017/12/25 00:01
日本史の「タブー」04 国王呼ばわりはお断り
日本史の「タブー」04 国王呼ばわりはお断り まだ生徒だった頃、歴史の授業中についウツラウツラ。 室町時代のいわゆる「勘合貿易」のくだりですから無理もありません。 ところがハタと正気に戻ってみれば、先生曰く。 〜よってもって、明国側の勅書には「日本国王・源道義」と記されている。    えぇか、だからこの「源道義」とは実は室町幕府第三代将軍・足利義満   (1358-1408年)本人のことなのだ〜 ...続きを見る

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2017/12/20 00:01
日本史の「アレンジ」17 違いがあって然るべき!
日本史の「アレンジ」17 違いがあって然るべき! 天皇の名前を表すのに、例えば「朱雀帝」とか「持統帝」とか、 「○○帝(てい)」という呼び方をすることも少なくありません。 また「持統帝」のような女性天皇については「女帝(じょてい)」という 言葉も併せて使われています。 ...続きを見る

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2017/12/15 00:15
日本史の「女性」24 無血開城はなぜできた
日本史の「女性」24 無血開城はなぜできた もし、明治新政府側が聞く耳持たぬという強硬姿勢を崩さなかったら、あるいは 幕府側があくまでも抵抗の意思を示し続けたとしたら、「江戸開城」(1868年)は 史実のようには運ばなかったのかもしれません。 ...続きを見る

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2017/12/10 00:01
日本史の「信仰」09 恐怖が生んだ身分詐称?
日本史の「信仰」09 恐怖が生んだ身分詐称? 平安京を開いたことでも有名な第50代・桓武天皇(737-806年)の同母弟に、 一回りほど齢の違う「早良親王」(さわら/750-785年)という方がいました。 共に第49代・光仁天皇(709-782年)の息子です。 天皇家の慣習に詳しくない方もおられましょうから、念のためですが、 年下が「弟」・・・この辺の扱いは天皇家であろうが庶民階級であろうが そんなに違いはありません。 ...続きを見る

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2017/12/05 00:01
日本史の「付録」03 幕末の殺し屋ビッグ・フォー
日本史の「付録」03 幕末の殺し屋ビッグ・フォー 「逆説の日本史」20幕末年代史編Vの中で、著者・井沢元彦氏は 佐久間象山(1811-1864年)の暗殺に触れ、こう書いています。  〜日本史上もっともテロが横行した幕末の文久から元治にかけても、   「人斬り」とまで呼ばれた人間は四人しかいない。   この「人斬り彦斎」こと熊本藩の河上彦斎、「人斬り以蔵」こと土佐藩の   岡田以蔵、「人斬り新兵衛」こと薩摩藩の田中新兵衛、そして「人斬り   半次郎」こと同じく薩摩藩の中村半次郎(桐野利秋)である。〜 ちなみに、文中の「文久から元治に... ...続きを見る

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2017/11/30 00:01
日本史の「発明発見」18 リサイクル征夷大将軍
日本史の「発明発見」18 リサイクル征夷大将軍 日本史の中の「将軍」(征夷大将軍)の位置付けとは? こう言われれば、まあ一般的には国家の最高権力者、要するに現代で言う ところの「総理大臣」もどきの地位をイメージすることでしょう。 江戸幕府の政治形態を思い起こせば、この印象はもっと強くなります。 ...続きを見る

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2017/11/25 00:10
日本史の「災難」08 伝統打破?女帝の選択
日本史の「災難」08 伝統打破?女帝の選択 「蕎麦(そば)のマヨネーズ和え」とか、ワサビならぬ「ジャム入り握り寿司」 ・・・試してみたら、案外に美味しいのかもしれませんが、日本人の感覚と してはまあ首を傾げたくもなります。 これまでの食文化の伝統を根底から破壊したものになっているからです。 ...続きを見る

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2017/11/20 00:01
日本史の「タブー」03 コメ将軍の”贅沢は敵だッ”
日本史の「タブー」03 コメ将軍の”贅沢は敵だッ” 将軍本家ではなく御三家の一つ紀州藩の出身で第8代将軍に就いたのが 徳川吉宗(1684-1751年)で、後に「享保の改革」(1716-?年)と呼ばれた 幕政改革に乗り出しています。(将軍在任1716-1745年) そうした大仕事に敢えて取り組んだのも、本家出身でないことに幾分の 引け目があってのことだったかもしれません。 ...続きを見る

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2017/11/15 00:01
日本史の「怪人」17 ♪京の五条の橋の上
日本史の「怪人」17 ♪京の五条の橋の上 若武者・牛若丸(後の源義経/1159-1189年)と、後にその郎党となった 僧兵・武蔵坊弁慶(生年不詳-1189年)との出会いを、童謡「牛若丸」は このように歌っています。 〜♪京の五条の橋の上 大の男の弁慶が・・・〜 ...続きを見る

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2017/11/10 00:10
日本史の「誤算」07 我が死は三年間秘すべし
日本史の「誤算」07 我が死は三年間秘すべし 自領に迫った甲斐・武田信玄(1521-1573年)軍。 これを阻止すべく、 徳川家康(1543-1616年)が、屈強な自前の軍団「三河武士団」及び 織田信長(1534-1582年)軍との「連合軍」を率いて挑んだのが、 いわゆる「三方ヶ原の戦い」(1573年/現:静岡県浜松市)でした。 ところが、武田軍は圧倒的に強く、徳川織田「連合軍」はボッコボコに。 撃退どころか、こともあろうに大将である家康自身ですら命からがら本拠・ 浜松城へ逃げ帰る有様でした。 ちなみに、この時の家康は恐怖のあ... ...続きを見る

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2017/11/05 00:01
日本史の「陰謀」23 正史だってウソをこく
日本史の「陰謀」23 正史だってウソをこく なにも推理作家・横溝「正史」(1902-1981年)氏がウソコキであると言って いるわけではありません。 そうではなく、ここでは歴史を語る際によく使われている歴史用語で 〜主に国家によって公式に編纂された歴史書〜と定義?されている 「正史」を指しています。 ...続きを見る

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2017/10/30 00:01
日本史の「冗談?」16 豪胆衝動買いに栄光あれ!
日本史の「冗談?」16 豪胆衝動買いに栄光あれ! 幕末に活躍した人物の一部については、その評価が分かれることもあります。 その行動を肯定的に捉えれば、間違いなく一種の「先駆者/功労者」という 評価になるものの、一面ではちょっとばかり首を傾げたくもなる行動も併せて 取っているということで、たとえば、幕末尊王攘夷の志士として一般的には 高い評価を得ている長州・高杉晋作(1839-1867年)。 この御仁についても、ネガティブな一面に目をやれば、こんな評価も成り立ち そうです。 ...続きを見る

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2017/10/25 00:01
日本史の「微妙」05 多重国籍?将軍の苦悩
日本史の「微妙」05 多重国籍?将軍の苦悩 艶福家として有名な?水戸藩主・徳川斉昭を父、またその正室である宮家 (有栖川)出身の吉子女王を母として、江戸・小石川の水戸藩邸で生まれた のが、江戸幕府最後の将軍となった第15代・徳川慶喜(1837-1913年)です。 ということは、慶喜の体には生まれながらにして「水戸藩()徳川家」と 「皇室(天皇家)」の両方の血が流れていたことになります。  ...続きを見る

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2017/10/20 00:10
日本史の「トホホ」24 日蓮サン予言?の星取表
日本史の「トホホ」24 日蓮サン予言?の星取表 日本の歴史には、時として「日本人離れ」?した人物が登場します。  たぶん、日蓮宗(法華宗)宗祖・日蓮(1222-1282年)もそうした一人に 挙げていいのでしょう。 なにせ、みんな仲良くの「和」をモットーとする日本社会にあって、いわば 「唯我独尊」的なこんな主張をしていたのですから。 〜念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊〜  ...続きを見る

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2017/10/15 00:01
日本史の「列伝」16 証文通りで何かご不審が?
日本史の「列伝」16 証文通りで何かご不審が? 現代社会で暮らすほとんどの人間には、社会通念として「公と私」という 観念上の境界線が存在しています。 〜「公」とは社会生活における自分(公人として)の立場であり、「私」とは   自分(私人として)のプライベートな生活〜  ごく大雑把に捉えるならこんなところでしょうか。 ...続きを見る

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2017/10/10 00:01

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