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zoom RSS 日本史の「トホホ」25 ペリー代将の私的なぼやき

<<   作成日時 : 2018/02/05 00:01   >>

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アメリカ海軍マシュー・G・ペリー代将(1794-1858年)率いる東インド艦隊が
日本を訪れた事件。 いわゆる「黒船来航」(1953年)ですが、結果として
これが十数年後に起きる「明治維新」(1867年?)の引き金になったことは
紛れもない歴史的事実です。

では、アメリカは「何用あって日本国へ」やって来たものか?
多くの理由が挙げられるものの、一つには日米双方からしても、ウィンウィン
の関係になる「相互貿易」を始めることでした。

アメリカ本国の西海岸から見れば、日本国は「太平洋」を挟んだすぐ隣国、
つまり「アジアの入口」です。
ところが、イギリスを初めとするがヨーロッパの国々からすれば、一旦
大西洋へ出て、アフリカ大陸を迂回し、やっとアジアのインド・中国に入る
ことができ、そのさらに奥地?にある、要するに「アジアの出口」に位置
するのが日本国です。
アメリカからすれば、この地理的な優位性を放っておくのでは、いかにも
「もったいない」ということになります。

そこで、この「アジアの入口」である日本国に対して、積極的なアプローチに
努めていたわけです。
とはいうものの、日本国はもとよりオランダ国以外を相手としたお付き合いを
望んではいません。
いわゆる「鎖国政策」の堅持を国是としていたからです。

ですから、ペリー代将に率いられた蒸気船2隻、帆船2隻による最初の来航は、
結果として「ご挨拶」程度のことになってしまいました。
ところが翌年(1854年)の同じくペリー代将を長とした二度目の「黒船来航」は、
そんなことでは済みませんでした。

来航したその陣容も、最初に帆船1隻、続いて蒸気船3隻・帆船3隻、その
チョイ後には、さらに2隻が加わって計9隻。
日本国との「条約締結」に向け、アメリカ国家も、またペリー代将自身も腹を
据えて臨んだことが分かろうというものです。

条約交渉における「言葉の壁」(日本語と英語)に対しては、概ねこんな方法で
対応したようです。 (逆パターンも含む)
(米側)英語→(米側通訳)それをオランダ語に→(日側通訳)そのオランダ語を
受け→日本語に直す。
(※文書の場合などを含め、どうやら漢文が主体となったらしい?)

ただ、ペリー代将自身はこの方法を面倒くさく感じたものか、オランダ語を
介しない「英語→←日本語」での直接交渉を期待したとされています。
ところが、米側通訳本人がそれを辞退しました。
〜そこまでの日本語能力はこのワタシにゃおまへんでぇ〜
また日本側も「現地の英語」に堪能なジョン万次郎(1827-1898年)が、
スパイ疑惑の渦中にあって参加することが許されず、結局はこの煩雑な
手順を踏むことになったようです。

実は、この日米交渉の場に朱子学者・林復斎(1801-1859年)なる人物が
加わっています。
幕府朱子学の総元締め「林家」(林羅山の末裔)の当主であることと、併せて
その漢文能力を買われてのことでした。

米側・ペリー代将と日本側・林復斎、この両者による交渉内容には日米間の
「思想・文化の異質性」というか、「宗教・信仰の違い」というか、際立って
異なるものが顔を覗かせていて、これが結構面白いのです。

ペリー代将自身もこの交渉過程には相当なイライラを覚えたようで、自らの
日誌(個人航海日誌)にもその憤懣を書き残しているほどです。
〜実際のところ交渉を通じて我々は様々な段階で障害に悩まされっぱなしで
  あった。 特に言葉の使い方について、さほど重要でもないこと、たとえば
  「商品」という言葉は使わずに「物品」にしてくれなどと、どうでもいいことを
  日本側は頑強に主張してくるのだ〜

※原文は「商品」は「merchandise」、「物品」は「goods」となっている。

この日誌の内容からすれば、ペリー代将自身はこれを、開国を望まない
日本側の嫌がらせ・イチャモンと受け止めていたフシが感じられます。 
ところがギッチョン!
日本側からすればそんな軽いものではありませんでした。

ペリー代将01 ペリーいらすと51










(写真)ペリー代将/(イラスト)ペルリ像

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日本側、特に林復斎にとっては「そんな軽いもの」どころか、当時の日本人の、
言葉を換えれば「江戸民族のアイデンティティ」にも関わる重要な文言だった
のです。

幕府朱子学の総本家?にある林復斎は、言うまでもなくガチガチの朱子学
信奉者です。
その朱子学には、「商業・商売なんぞに手を染めるのは人間のクズ」とする
絶対の信仰?があります。

復斎よりもおよそ半世紀前の江戸幕府老中・松平定信(1759-1829年)、
この人物も間違いなく朱子学原理主義者?の一人でしたが、いみじくも
こんな名セリフ?を吐いています。
〜商は詐なり〜 (商業とは詐欺・ペテンの行いであるッ!)

ですから、こうした伝統を持つ江戸幕府の人間が、国家間の正式文書に
「商品」という文言を残せるものかどうかという問題になってくるわけです。 
答えは「否」に決まっています。
なぜなら、それを認めることは諸悪の根源である「商売」に幕府自らが手を
染めるということになってしまうからです。

「商品」なら当然その対価が支払われ、ここで「商取引」の成立です。
ところが、同じものでも「物品」であれば、それを与えてくれたことに感謝の
気持ち、御礼を返せばいいことになり、そこに「商売」行為は絡んできません。
無論、その感謝の気持ちは多くの場合金銭で表すことになるのでしょうが、
朱子学的理論からすれば、ハナから「商品←→対価」をやり取りするのでは
ないために、「商売」とはまったく別の行為という理屈になるわけです。

ですから、イヤでもこうなっちゃいます。
〜商売を意味する「商品」という表現は最悪・最低のものであるからして、
  この交渉においては、商売臭を伴わない「物品」という文言にすべきで
  あるッ!〜
 
これほど三角定規いや違った、杓子定規な拘り方はビジネス慣れした
現代人からすれば噴飯物ですが、当時の幕府の常識にてらせば、
〜復斎殿は体を張ってアメリカの魔手から幕府(日本)のアイデンティティを
  守り抜いた御仁だ〜
 おそらくは、こんな感覚だったのでしょう。

この時代の、つまり朱子学一辺倒だった幕府がいかに「商売」というものに
触れたくなかったのか、別の証拠?もあります。
その際の条約名が「和親条約」とされていることです。
アメリカは「相互貿易」を盛んにすることで、日米双方がウィンウィンの関係に
なることを目的してやって来ました。

だったら条約名も「通商条約」とするのが自然な運びですが、ドッコイそうは
ならず、単に「仲良く」を意味する「和親条約」としています。
おそらくは、これも日本側から拒否権?が発動されたものでしょう。
〜ここに至って両国が「和親(仲良く)」することは、必ずしもやぶさかでは
  ないが、対外商売を意味する「通商(貿易)」なる文言を使用することは
  断じて差し控えたいと思う。 当方の事情もあるじゃによって、なにぶん
  よしなにネ〜


この形式主義の極致ともいうべき日本側の要望には、おそらくアメリカ側も
「開いた口が塞がらない」ほどに唖然としたでしょうが、しかし、この幕府による
その場しのぎのこの「先延ばし作戦」は功を奏しませんでした。
わずか四年後には「日米修好“通商”条約」(1858年)を結ばざるを得なかった
からです。

裁判権や関税自主権などの面からしても、この条約は明らかに日本側に不利な
内容であったことから、一般的に「不平等条約」とされていますが、その道を
選ばせたのは、ある意味朱子学に凝り固まっていた日本側にあったと言える
のかもしれません。

関税自主権を回復できたのは、なんと「日露戦争」後(1911年)のことで、
半世紀以上も経ってからでした。
その間に日本国が被った経済的損失は天文学的な数字になるとされて
います。
その意味では、この「朱子学」というイデオロギー?信仰?から抜け出せない
ままでいた江戸幕府が、次代の「明治新政府」に遺した「負の遺産」だったと
言えるのかもしれません。

ですから、
〜「商品」でも「物品」でも、そんなもんどっちでもいいじゃないかッ!〜
という、ペリー代将の個人的なぼやきは、案外歴史の核心を衝いていた
のかもしれません。

こうした経緯を知って、強烈なイデオロギー・信仰・信条を持つことは必ずしも
得にはならないことを突き止めた筆者なぞは、自らの人生モットーを早速の
こと、「タリラリラ〜ン」に切り替えたほどのものです。
えぇ、お陰様で今のところ無難な日々を過ごさせて貰っていますがネ。



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