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zoom RSS 日本史の「付録」03 幕末の殺し屋ビッグ・フォー

<<   作成日時 : 2017/11/30 00:01   >>

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「逆説の日本史」20幕末年代史編Vの中で、著者・井沢元彦氏は
佐久間象山(1811-1864年)の暗殺に触れ、こう書いています。 
〜日本史上もっともテロが横行した幕末の文久から元治にかけても、
  「人斬り」とまで呼ばれた人間は四人しかいない。
  この「人斬り彦斎」こと熊本藩の河上彦斎、「人斬り以蔵」こと土佐藩の
  岡田以蔵、「人斬り新兵衛」こと薩摩藩の田中新兵衛、そして「人斬り
  半次郎」こと同じく薩摩藩の中村半次郎(桐野利秋)である。〜

ちなみに、文中の「文久から元治にかけて」とは、西暦なら1861年〜1865年
にまたがる時期を指しています。

なんでもこの四人を指して「幕末の四大人斬り」という物騒な呼び方も
あるようですが、それにしても「四大文明」とか「四大銀行」ならまだしも、
「人斬り」に「四大」という冠をつけるのも少しばかりヘンではないのかぇ?

それはさておき、爪を切ったり髪を切ったりしても、それを「人斬り」とは
言いません。 また手術でメスを入れる医者に対しても、普通は「人斬り」と
いう表現は用いません。 敢えて言うなら「人切り」でしょうか。

つまり、この場合の「人斬り」とはモロに「殺人者」のことを指し、仮に
そのような職業があるとするなら「殺し屋」のことであり、ヤクザ用語?なら
「鉄砲玉」、少し現代風にいうなら「テロリスト」?もどきの存在を指している
わけです。 なのに「四大」ってか。

さて、その「四大人斬り」に選ばれた方々に年齢順に並んでいただくと、
○薩摩藩・田中新兵衛(たなか・しんべえ/1832-1863年)
  大老・井伊直弼の指令の下で活動家らの捕縛(安政の大獄)に貢献した
  島田左近を暗殺(1862年)。 
  これが引き金になって暗殺事件が多発し始めたとする見方もあるほどで、
  自身身も多数の暗殺に関与。 
  公家・姉小路公知暗殺(1863年)容疑で逮捕された折り、尋問の隙を
  ついて突如割腹自決。

○熊本藩・河上彦斎(かわかみ・げんさい/1834-1872年) 
  兵学者・佐久間象山暗殺(1864年)他、多数を暗殺。 
  維新政府要人・広沢真臣暗殺(1871年)の容疑で捕縛され斬首。

○土佐藩・岡田以蔵(おかだ・いぞう/1838-1865年) 
  土佐藩士・井上佐市を絞殺(1862年)他、多数を惨殺。 
  捕縛・拷問の末に打ち首獄門。
  土佐勤王党御用達?の「人斬り」であり、坂本龍馬の紹介で勝海舟の
  護衛を務めた時期もあり、この際には、夜道での刺客の襲撃から海舟を
  護り通した実績もあります。

○薩摩藩・中村半次郎(はんじろう/1838-1877年) 
  師でもある公武合体派の軍学者・赤松小三郎(1867年)を暗殺。 
  これもまた薩摩藩御用達?の「人斬り」で、新政府で陸軍少将となるも、
  西郷隆盛の下野(1873年)に伴い辞表を提出し、後の「西南戦争」に
  反乱軍として参戦し戦死。

いやあ、これだけでもこの時代の「暗殺ブーム」?「テロリスト全盛」?を
雰囲気を充分に疑わせるところです。
そうした中でも、現代人にとって分かりにくいのは中村半次郎です。
なぜなら、「人斬り半次郎」とまで言われた人物が、明治新政府においては
なんと「陸軍少将」を務めているのだゾ。

中村半次郎02 河上彦斎01










中村半次郎(後に桐野利秋)/河上彦斎

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〜いわゆる「人斬り(殺し屋)」が軍隊の重要な地位に立つ〜
このことは今風なら、「凶悪(殺人)犯」が自衛隊の「現役将官」の地位に
立ったという受け止め方になりますから、何やら釈然としないものを感じて
しまいます。
〜当時はいわゆる「乱世(平時でない)」にあったのだゾ〜
確かにその通りには違いありませんが、このことを考慮しても、「平和ボケ」
した現代人にとって、いささかの分かりにくいのも事実です。

ということは、その当時にも幾分はこうした気分があったでしょうから、
明治維新の頃になって、それまでの「中村半次郎」の名を捨て、新しく
「桐野利秋」への「改名」を実行したのも、「人斬り」の印象が染みついた
「中村半次郎」のままで、軍隊の将官に就くことに、いささかの「引け目」?が
あったことがその理由になったとも考えられなくはありません。

薩摩藩では、家老・小松帯刀(1835-1870年)や重臣・西郷ドン(隆盛/
1828-1877年)などから可愛がられ、日本国内最後の内戦といわれる
「西南戦争」(1877年)の折には、西郷ドンの下野と共に辞表を提出し、
参戦した挙句にその地で戦死しています。

それはともかく、「人斬り」なんて称賛?されると、めったやたらと「暗殺」に
精を出していた、つまり「斬りまくっていた」印象になります。
確かに、他の三人(新兵衛/彦斎/以蔵)は多数の人間を「斬った」よう
ですが、中村半次郎については、記録に残された暗殺は「赤松小三郎」に
対する一件だけとされています。
一人を手に掛けただけで「四大人斬り」とは?
この点も、なんとなく整合性?に欠ける印象になります。

また、その最期も他の三人に比べて、「中村半次郎」だけは「戦死」という、
ちょっと異質なものになっています。
ちなみに他の三人の最期は、上に並べたように、
○薩摩藩・田中新兵衛→割腹自決(1863年)
○熊本藩・河上彦斎  →捕縛され斬首(1872年)
○土佐藩・岡田以蔵  →捕縛・拷問の末に打ち首獄門(1865年)

中でも、河上彦斎なぞはとりわけ厳しいものがあって、「斬首」されたのは、
「明治新政府」が発足した後の明治五年のことです。
御維新が成ったというものの、そのことによってそれまでの世の中が
コロッと変わったというわけでもなかったことになりそうです。

この「四大人斬り」は、誰一人として、いわゆる「畳の上で死ぬ」ことは
できませんでしたが、それでも割腹/斬首/獄門/などに比べたら、
中村半次郎の「戦死」という最期は、ある意味いささかの「名誉」を
守ったものになったのかもしれません。
こうした最期を知るにつけこの「四大人斬り」がいかに苛烈な時代環境の
下で活動していたかが、自ずと伺い知れるというものです。

さて、「四大人斬り」は別としても、「畳の上で死ぬ」・・・これを実現する
ことは、現代でも相当に難しい。
むしろ「病院で死ぬ」ことが普通になってしまっている風潮のせいも
ありますが、仮に運よく「自宅」でその終焉を迎えられたとしても、
その自宅に「畳」がないッ! 
「洋間オンリー」・・・これが現代のトレンド?だからです。 あっちゃー!



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