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zoom RSS 日本史の「災難」07 トレンドは出世から平和へ

<<   作成日時 : 2017/07/15 00:01   >>

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平和をドップリ享受している現代人からすれば幾分首を傾げたくもなる風潮
ですが、戦国乱世の時代には国民の中にも「戦争」が無くならないことを
期待する気分が濃厚にありました。 
〜なんでまた、そんな「命懸け」の事態を望むのか?〜 理由は単純。 
実は絶好のサンプル?が目の前に存在していたからにほかなりません。

その「絶好のサンプル?」とは、下層階級(農民?)の出身でありながら
折からの「戦争時代」を巧みに生き抜くことで武将にも出世し、ついには
天下様にまで駆け上がった豊臣秀吉(1537-1598年)です。
要するに、〜戦乱の時代が続く限りは、このオレだって秀吉のように
武将にもなれるし、まあ猿関白までは無理としても大名くらいまでなら易々と
出世できる・・・(ハズだ!)〜


目立つ例があると「自分だって!」と考えるのは人の常で、現代でいうなら
「宝クジ」に似た話で、確かに毎回間違いなく何人もの賞金長者が誕生して
いるのですから、「宝クジ」が続く限りは、「今度は自分の番だ!」と思いたくなる
ものです。 それと同じと考えれば話が早い。(但し、これも参加が必須)

しかし、天下様の誕生とは、逆にいうなら曲がりなりにも国内の平定に成功した
ことになるわけですから、出世を夢見て戦を望む人にとっては、つまりのところ
そのチャンスが激減したということでもあり、これは「一旗上げたい組」にとって
決して望ましい雲行きとはいえません。

たとえば、次回の宝クジの「賞金長者」を狙っていた人に、
〜突然ですが、明日から「宝クジ」は廃止にします〜と宣告するようなものです
から、当然反対の声が上がります。
〜「宝クジ」が続いていないことには、私が今度の「賞金長者」になれないでは
  ないか! まったく不公平な対処であるッ!〜


戦国の世もこれと同じでした。
〜もう戦さをしないということは、秀吉よ、自分一人だけが「勝ち抜け」しようと
  考えているのかッ! まったく不公平千万であるッ!〜

ついこの間まで「武装兵士」だった数十万人もの人間が「不平分子」になる
のですから、さすがの天下様・秀吉も、
〜まぁええがや、この辺で戦は止めとこみゃあ〜とは言えません。
(余談ですが、秀吉は地元言葉の尾張弁を使っていたと想像されます)

仮に言ったとしたら、まさに「物言えば唇寒し秋の風」の按配で、こうした
「武装不平分子」が自分に向けて決起する危険性だってあるわけです。
〜フーム、もう国内に戦場(いくさば)がにゃあ(無い)なら海外に出る
  しか方法はあれせんがやッ〜
 (これも尾張弁を使ったはず)

そこで「唐入り」(明国征服計画)です。
〜国内でチマチマした戦をするより、どうせのことなら広大な明国がええなぁ
  ・・・ここなら、しばらくは戦も続けられるでよぅ〜

「思い立ったが吉日」・・・というわけでもなかったのでしょうが、早々にその
海外遠征行動「文禄の役」(1592-1593年)を起こしています。


唐入り名護屋城51 唐入り文禄の役51










バーチャル名護屋城(肥前国・佐賀県)/文禄の役

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目的地・明国へは朝鮮経由のルート。
開戦当初の日本軍は、明国に協力を押し付けられた朝鮮軍を撃破し続けた
ものでしたが、敵陣深くに侵入するにつれ強力な抵抗に遭遇することに
なって、ここでガクンとペースダウン。 結局、「休戦講和」に至りました。

この頃、秀吉は後嗣・秀頼(1593−1615年)に恵まれるや、邪魔になった
関白・秀次(1568-1595)を粛清。
盤石と思われていた体制は崩れ、豊臣家自体にも綻びが見られるように
なりました。

これに焦ったわけでもないのでしょうが、秀吉は初期構想を貫徹すべく、
再びの海外軍事行動「慶長の役」(1597年)に打って出ました。 
武装不平分子に対するガス抜き対策?でもあったわけで、これが順調に
運んだ暁には、さらなる「大規模攻撃」(1599年)まで視野に入れていたよう
ですが、実際にはその実行より前に秀吉本人が死んでしまいます。(1598年)

ともあれ、前回の実りなき戦いもあってか、この頃には「武装不平分子」の
モチベーションもかなり低下していたように感じられます。
なぜなら、「戦」は勝ってこそ出世の機会などそれなりのメリットが期待でき
ますが、命を懸けた挙句に「勝てない戦さ」ともなれば、なんらのメリットもない
のですから、「厭戦気分」が高まって当然です。
こうした「気分」を読み取ったものか、秀吉亡き後の政権運営を担った五大老
や五奉行らは朝鮮からの撤兵を決定しました。

〜そんなことなら、「唐入り」とはいったい何だったんだ?〜
こうした思いは、昭和の「太平洋戦争」(1941-1945年)終結後に覚えた
虚しさに似たものがあったのかもしれません。
当初は「真珠湾攻撃」(1941年)などでイケイケドンドン。
ところが、ほぼ半年後の「ミッドウェー海戦」(1942年)でボコボコにされて
以降は、全くのジリ貧に陥り、本来の戦争目的すら見失ってしまった感が
あったからです。

ですから、昭和の場合、終戦以降は「平和」が金科玉条になったのと同様に、
いわゆる「唐入り」失敗後の日本もこんな国是?を打ち出しました。
〜互いに身分をわきまえることで、その中で平和に暮らすことこそが善、
  すなわち尊い考え方であり、他人との競争の挙句に己の出世を企むなどは
  悪業の極みである〜


つまり、秀吉後の政権担当者となった徳川家康(1543-1616年)は「士農工商」
という身分の固定化を政策の骨格としました。
要するに、秀吉が目論んだ拡張路線の大失敗を見て、これを全面否定し
真逆の政策を打ち出したわけです。

「出世できること」より「平和である」ことを善とする意識は時代のトレンドに
なり、これがほぼ二世紀半の長きに渡って続きました。 
草葉の陰から秀吉の述回。
〜おみゃあたちが、出世のために戦をしたいしたいと言うもんで、「唐入り」を
  仕掛けたのによぅ、なんだとぅ、今になって「出世」より「平和」の方が
  ええってか・・・ホントやっとれんがや〜


念の為に付け加えるなら、しかしこの「平和」は二世紀半後に諸外国の圧力に
よって、見事に覆されてしまいました。
ですから、「太平洋戦争」終結後の現代日本人が金科玉条とする「平和」
だって、このケースと同じように「外国の動き」次第でその影響を受けないとは
言い切れない、ということにもなりそうです。

まあ、どちらも時代も「ドロ沼戦争」から素早く「のほほん平和」へ切り替えた
のですから、そういう意味では、日本人って昔も今も極端から極端へ走り
たがる民族なのかもしれません。



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