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zoom RSS 日本史の「事始め」14 流人”第一号”の半世紀

<<   作成日時 : 2017/04/25 00:01   >>

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苦労の末に手にした自らの権力を我が子・秀頼に継承させるべく心を砕いた
晩年の豊臣秀吉(1537-1598年)は、その政権運営を配下の有力武将、
いわゆる「五大老」にサポートさせる体制を整えました。
その「五大老」の中には徳川家康・前田利家・毛利輝元らに混じって、
秀吉に可愛がられて猶子となった武将「宇喜多秀家」(1572-1655年)の名も
ありました。

岡山城主57万石。 容姿端麗で身長170cmほどの美丈夫(美しく立派な男子)
だったとされており、ちなみに、この「秀家」という名も、元服した際に秀吉より
偏諱を賜り「秀」の字を与えられたものです。

こうした事情もあったからでしょう。
秀吉没後に勃発した、実質的に豊臣方(西軍)VS徳川方(東軍)の対決構図と
なった「関ヶ原の戦い」(1600年)において秀家は迷わず豊臣方に身を
置きました。
ところが、この十数年後の豊臣VS徳川による再激突「大坂の陣」
(1614・1615年)には、その秀家の名を見出すことができません。
なぜなら、それが叶う境遇にはなかったからです。
エッ、いったい何があったの?

「関ヶ原」の後、敗者・宇喜多家は勝者・家康の手によって改易された上に、
秀家本人には「流罪」(1606年)が申し渡されていたのです。 
つまり、その頃は「敗軍の将」どころか「罪人」の立場にあったわけで、
これでは参戦しようにもできることではありません。

こうした刑罰は現代では無くなったためイマイチ分かりにくいのですが、
「流罪」(るざい)とは、要するにこんな按配のことをいっています。
〜罪人を辺境や「島」に送る追放刑であり、「流刑」(るけい・りゅうけい)
  「配流」(はいる)とも言う。  
  特に流刑地が「島」の場合には「島流し」(しまながし)と呼ばれることもある。
  江戸時代になると「遠島」とも称される〜


つまり罪人の隔離を目的した刑罰ですから、「脱走」を許さないためにも、
往き来に不便でなるべく遠い島が最高の立地条件?ということになります。 
ですから、現代ならさしずめ、地球を離れた「月世界」へ罪人を送り込む
ような感覚でしょうか。

それまで「流罪地」の主流?は佐渡・隠岐・伊豆大島などでしたが、秀家
「月世界」?には、なんと「八丈島」が充てられました。
公式にはこの秀家が「初めて」の「八丈島配流」とされています。

江戸幕府の管轄下にあったとはいうものの、当時はそれこそ絶海の孤島で、
「鳥も通わぬ八丈島」・・・こんな言葉もあったほどの僻地でした。
とはいうものの、「無人島」というわけではありません。
ちゃんと島民も住んでいました。

宇喜多秀家51 宇喜多夫妻像51








宇喜多秀家/秀家・豪姫の像(八丈島)

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しかし、本土に比べれば生産性も低く、食料事情も芳しくなく、いわば経済的
には「貧困の島」でしたから、そこへ新たに厄介者の「罪人」が送り込まれて
くるのは、島民にとっては迷惑至極な話です、

幕府とて、さすがにこうした事情は斟酌せざるを得ません。
「罪人送り」の代償?ということでしょう。 
その八丈島に対しては飯米の援助もしました。 現代でいうなら、原発を
抱える自治体に補助金を交付するようなものかもしれません。

それでも島民千人以上が餓死したこともあったとされています。 
では、そうした過酷な環境の中で宇喜多秀家はいったいどんな暮らしぶりを
していたのか?

どうやら当初は内緒にこっそり、後には幕府公認の形で、正室・豪姫※の
実家・加賀前田家や宇喜多旧臣などから援助を受けていたようです。
それでも、まあ他の島民よりは多少恵まれていたというだけのことで、
決して「悠々自適」な快適生活といえるものでなかったのは当然です。
※前田利家の娘で、秀吉の養女になり、秀家に嫁ぐ。

そして家康が亡くなる1616年、やっとのこと秀家(45歳)の刑は解かれます。 
待ってましたとばかりに、こんな誘いが前田家から寄せられました。
〜ウチから10万石を分け与えるようにするから、もう一度大名として
  返り咲いたらいかがなものか?〜


この誘いを秀家は断わりました。 理由はよくわかりません。 そして、
この島に留まり続け、流人生活「半世紀」の末に享年84歳(1655年)で死去。
家康の手による江戸幕府はすでに第四代・家綱(1641-1680)の治世に
なっていました。 ちなみに、「関ヶ原」を戦った大名の中では、この秀家
最も遅くに没した人物とされています。

蛇足ですが、江戸時代に八丈島へ流された流人の累計は1,800人程度で、
その内訳は武士が600人ほど、僧侶250人ほど、女の流人は全部で70人
くらいだったとされています。

フーム、それにしても宇喜多秀家が「八丈島配流」の一番乗り?だったの
なら、「最後の流人」(最後まで流刑状態にあった人物)はいったい誰なのだ?

探してみると、「近藤富蔵」(1805-1887年)とありました。
北方探検で知られる旗本・近藤重蔵※(1771-1829年)の嫡男です。
なんでも1826年に殺人を犯したために、「八丈島遠島」となり、以後1880年
(明治13年)、明治政府により赦免されるまで足掛け55年に渡る「流人生活」を
送ったとのことです。
※その流人生活の間に記した『八丈実記』は、後に東京都文化財に指定。

ですから、八丈島における「最初の流人」宇喜多秀家は半世紀に渡る流人
生活を送ったものの、「最長不倒?」という点では、「最後の流人」である
近藤富蔵に一歩譲る形になりました。

ちなみに、1997年のこと、この八丈島の太平洋を望む風光明媚な西岸に、
宇喜多秀家と正室・豪姫の像が建てられましたが、ただ、実際には豪姫自身は
この八丈島生活を経験していないので、その意味ではいささかの歴史誤解?を
招きそうな像ではあります。



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