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zoom RSS 日本史の「誤算」04 武士団スフィンクスに立つ

<<   作成日時 : 2017/02/15 01:35   >>

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あまり有名な出来事ではない(筆者の無知?)かもしれませんが、
1864年のこと、備中国(現:岡山県)井原領主・池田長発
(ながおき/当時28歳/1837-1879年)をリーダーとした34名からなる
「遣欧使節団」が幕末の日本を離れ、遠くフランスへ渡航した
事実があります。 
これより2年ほど前の「文久遣欧使節」を第1回とするなら、
これは第2回に当たるものでした。

「遣欧」とは言うものの、なにしろまだ飛行機が発明されて
いない時代ですから、一直線で目的地到着とはなりません。
当然途中いくつかの港に立ち寄る船旅になり、この時「使節団」
が乗船したフランス軍艦もその例外ではありませんでした。 
※ライト兄弟による「飛行機」試運転の初成功は1903年。

「使節団」は上海やインドなどを経由する航路でスエズまで到着
すると、ここから先は陸路をとり、こうして地中海まで抜けたら、
あとはフランス・マルセイユまで、また船旅という按配です。

スエズまで行きながら、なぜ「スエズ運河」を利用しなかったの?
それはいささかヘッポコな疑問と言うべきで、「スエズ運河」の
建設開始は1858年、開通したのは1869年です。
要するに「使節団」の折りはまだ建設の真っ最中だったからに
ほかなりません。

陸路でカイロ(ダジャレではありません)まで来たなら、ピラミッドも
スフィンクスも目と鼻の先ですから、「使節団」はここでしばし
「サムライ観光団」に変身です。〜各々方ッいざ参るゾッ!〜

勇んで現地に達した一行は、その光景に圧倒され、口々に、
〜この「ぴらみど」と申す三角石垣は、大きさといい高さといい、
  城もないクセにムダに大げさな拵え方ではないかえ〜


〜「すふんくす」とやらは大仏様より「デカイお顔」でござるなぁ〜
〜やあやあ見てみれ、この地の地ベタはよってたかって「砂」
  ばっかしで、「米作り」にはとんと不向きな土壌でござる〜

新鮮な驚きを味わった一同は、その「スフィンクス」の前に立ち、
「集合記念写真」も撮っています。

「観光団」いや「使節団」一行は、このあとパリへ移動し、今度は
皇帝ナポレオン3世(1808-1873年)※に謁見しました。 
本来の目的はスフィンクスではなくて、こちらだからです。
※有名なナポレオン・ボナパルト(1769-1821年)の甥に当たる。

この「遣欧使節団」の使命の一つに、開港場だった横浜を
「再度閉鎖する」交渉が含まれていました。 
一旦「開けた」港を再び「閉じる」ということですから、フランス側
がこれを蹴るのは当然で、案の定交渉決裂と相成りました。


池田長発51 ナポレオン三世01










池田長発/ナポレオン三世

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しかしこの時、「使節団」の面々はヨーロッパという未知の世界を
非常に強く重く実感・体感したようです。
〜凄いッ!スフィンクスも凄かったが、このフランスという国家も
  まことにもって凄いッ! 我が国の立ち遅れは歴然じゃッ!〜


若きリーダー・池田長発に至っては、
〜これほどの西欧文明の強大さを前にして、われ一国が旧態
  依然の鎖国を死守しようしたところで到底無理だ・・・いまや、
  全面開国一直線よりほかに日本の取るべき道はないッ!〜

 
そして、幕府側に身を置く立場でありながら、帰国後にも堂々と
「開国」の重要性を訴え続けました。
〜各国には「常駐外交使節」を置き、「条約」も結び、外国に
  学ぶために「留学生」を送り、「内外事情」も的確に把握できる
  ようにし、また自由に「外国」へ行けるようにしなくっちゃ〜


池田のこうした熱心な意見具申には、幕府もかなりアタマへ来た
ようで、この後にとんでもない展開を見せていきます。
〜横浜港再閉鎖の交渉すら失敗した人間が何をいう!
  ええぃ、石高は半分に減らし、池田本人は蟄居じゃッ!〜


スフィンクス遣欧使節51 











武士団スフィンクスに立つ/1864年

スフィンクス01











ギザの大スフィンクス/全身像

ここからは話が逸れます。 全長73.5m全高20m全幅6m。 
こんな大きさを誇る「ギザの大スフィンクス」の前で撮った
この「記念集合写真」、何かヘンではないか?  どこが?
※使節団メンバーの一人目付・河田相模守(30歳)の子孫(多分?)の家で、
  撮影後一世紀以上経った1998年に発見された写真


そこで、現代の「スフィンクス写真」も並べてみました。
あれれ、メッチャ高い位置にあるはずのその「デカイお顔」の
やたら近い場所に「サムライ観光団」が立っているゾ!

それもそのはずで、実は当時、この大スフィンクスの首から
下の部分は砂に埋もれていたのです。 
全身を現わすのは、エジプト考古学博物館・館長の呼びかけに
よる寄付金で「砂から掘り出す」作業を進めたお陰で、これが
「サムライ観光団」より約60年後の1926年のこと。 その後
1926年から1988年にかけては足部の修復が行われました。

ですから、「サムライ観光団」は覆った砂を取り除いたのちの
スフィンクスの足を見ることは叶なわなかったわけです。
もっとも、「砂の除去作業」とそれに伴う「本体修復作業」は、
実はこの時が初めてではなく、「建造」以来何度も行われて
いたとされています。 
※「紀元前2500年頃」が一応の定説ながら、この他にも「紀元前7000年頃」/
  「紀元前10500年頃」など諸説があって、要するに分からないということ?


さて、大きなカルチャーショックを受けた帰国後の池田は、
どうやら地元に学問所を作り、国際派?の青少年を育てること
を構想したようです。
しかし不運にも健康を害し、志半ばの1879年(明治12年)満43歳で
没しました。 それでも自身が幕府に直言した「鎖国」・・・これを
改めた新生「明治」日本国の姿を見ることは叶いました。

池田長発・・・これは御世辞抜きの話ですが、その肖像写真を
見る限り、筆者に負けず劣らずのイケメンでした。
これだけは、誰の目にも明らかな「歴史の真実」と言えましょう。




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