ヤジ馬の日本史

アクセスカウンタ

zoom RSS 日本史の「災難」04 複雑系?四兄弟の幕末維新

<<   作成日時 : 2017/01/15 00:01   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

いわゆる「幕末維新」のお話ですが、やや複雑系?の内容に
なりますので、体調もしくは頭調が優れない方にはお奨め
いたしておりません。 その点、悪しからずご了承ください。

さてその頃、現在の岐阜県海津市に当たる地域に「美濃国・
高須藩」という3万石ほどの小さな藩がありました。
その藩主・松平義建(よしたつ/1800-1862年)が儲けた男子は
なんと10人!(つまり長男から十男まで。 凄い!)
その内の四人は別名「高須四兄弟」とも呼ばれています。

すでにこの辺から複雑系?の匂いがしますが、十人もいながら
なぜ「四人様限定」かと言えば、幕末期に活動著しかった人達と
いう要件で絞り込んでいるからです。

だったら、残りの六人全員が「ノンキな父さん」ばかりだったか?
じつはこれはまったくの誤解で、昔のことですから夭逝、他家へ
養子、中には戦争で切腹など、ここにも波乱万丈・複雑系?の
事情が絡み合っています。

その「高須四兄弟」の方々に長幼の順に並んで頂くと、
次男:慶勝(1824-1883年)/尾張藩徳川家へ養子に
五男:茂栄(1831-1884年)/一橋徳川家へ養子に
七男:容保(1836-1893年)/会津藩会津松平家へ養子に
八男:定敬(1847-1908年)/桑名藩久松松平家へ養子に

しかし、こんなに次から次へと他家へ養子に出してしまって
大丈夫なのか? こんな心配をされる向きもありましょう。
さりながら、本家「高須藩主」には十男:義勇(1859-1891年)
就きましたので、その点はどうかご安心ください。
つまり、この「高須四兄弟」は、各藩から「是非にも藩主に」と
(たぶん)三顧の礼をもって迎えられたのですから、当然それに
ふさわしい能力・人格を備えた面々だったと思われます。

幕末期における全国各藩の動きも、これもまた複雑系?に絡み
合っています。
たとえば、御所警備の役目に就いていた長州藩などは、ある日
突然のこと、仲間の会津藩・薩摩藩から追い出され、その末には
「長州征伐」の憂き目まで味わっています。 

ここまででも結構複雑系?の経緯を踏んでいますが、ところが、
さらにその後になると、今度は再び「官軍」の側に返り咲くという
複雑さです。
それほどに至らなかった藩でさえ、この時代は決して単純素朴な
思惑・行動をとっていたわけではありません。

そうした状況の中で、「一会桑政権」(いちかいそうせいけん/1864-
1866年)
という実態が生まれました。 
語呂の流れはイマイチながら、長州藩を排除した後、京都の
政局を掌握した、「一橋家」当主・徳川慶喜、京都守護職「会津」
藩主・松平容保
、京都所司代「桑名」藩主・松平定敬の三者の、
家名・藩名の「頭の一文字」を並べることで、その状況を表わした
ものです。

後に慶喜が第15代の将軍に就任(1866年)したことで、この
「一会桑」体制は事実上の消滅を迎えますが、しかし、それと
時期を同じくして、公家・岩倉具視(1825-1883年)など新しい政治
勢力の台頭を招いたのですから、短期間ながら大きな影響力を
持っていたことは間違いありません。 

ここにも「高須四兄弟」七男・容保八男・定敬の名があります。
ちなみに、徳川慶喜(1837-1913年)は、この「高須四兄弟」の
母方イトコに当たり、それだけに「一会桑政権」には血筋的にも
強い団結があったのでしょう。


画像 画像












高須四兄弟(1878年9月撮影)/↑徳川慶喜(1864年頃撮影)
左から、八男・定敬(桑名藩)七男・容保(会津藩)
     五男・茂栄(一橋家)次男・慶勝(尾張藩)

 にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ  ↓コメント欄はいちばん下↓
↑応援クリックは↑

この頃、先にも挙げた攘夷思想過激派?に対する「第一次長州
征伐」
(1864年)が決行されましたが、その征討軍総督に就いた
のが、誰あろう実は「高須四兄弟」次男・慶勝であり、この時、
西郷どんこと薩摩藩士・西郷隆盛(1828-1877年)がその参謀を
務めています。

♪嵐も吹けば雨も降る・・・なら〜♪一次があれば二次もある〜
長州側はこれを「四境戦争」と呼ぶ「第二次長州征伐」(1866年)
の折りに、幕府軍総督に白羽の矢を立てられたのが、尾張藩
前藩主・徳川茂徳でした。
尾張藩主時代が茂徳、一橋家では茂栄、つまりは「高須四兄弟」
五男・茂栄その人です。
蛇足ですが、同じ人物でありながら複数の名前が飛び交うことも
この時代をさらに一段と複雑系?に傾けている印象になります。

それはともかく、「第一次征伐」総督を務めながら、「第二次」の
実施には強く反対した次男・慶勝は、五男・茂栄に対する
「白羽の矢」に俄然難色を示し、結果的にこれを退けています。
その「第二次」では、幕府軍は長州側にボコボコにやられて
しまったのですから、五男・茂栄が総督に就かなかったことは
結果として、賢明な選択だったことになるのでしょう。

ひょっとしたら、「高須四兄弟」のなかで一番の「貧乏クジ」を
引いたのは七男・容保だったかもしれません。
なにせ、再三辞退した「京都守護職」(1862年)を押し付けられた
上に、武闘浪士集団「新選組」を預かるハメになったのですから、
どう見たって「幕府」側に立っていることになります。

ところが反面では、容保自身は、「朝廷」トップの孝明天皇(1831-
1867年)
から「宸翰」まで下賜されるほどに絶大な信頼を寄せられ
ていた事実もあるのです。 ※天皇自筆の文書
〜朕は会津藩をメッチャ頼りにしているゾ〜 

いわば「ひとり公武合体」?もどきの立場にいたのですが、その
孝明天皇が突然崩御されるや、俄然「風向き」が変わりました。 
朝廷と幕府が対立する構図が鮮明になっていったからです。
「戊辰戦争」(鳥羽・伏見の戦い/1868年)での会津藩・容保
かつての「一会桑政権」と同様に、桑名藩や幕府軍と共に
新政府軍に立ち向かいました。 しかし、あえなく敗北。

その挙句に、「朝敵」との烙印まで押されてしまったのですから、
チョイ前の「御宸翰」下賜を思えば、まさに「事態一変」です。
ご丁寧なことに、明治新政府はこうした「朝敵」に等級まで設け、
その第一等戦犯?に前将軍・徳川慶喜を、続くランクの
第二等戦犯?には、「高須四兄弟」会津藩・松平容保
桑名藩・松平定敬を指定しました。

世が世であれば「死罪」・・・しかし、ここでもまた「高須四兄弟」
の一人が動きました。 五男・(一橋)茂栄(茂徳)です。
その必死の嘆願が功を奏したのでしょう、「一会桑」三人に
対する助命が成就しています。

こうした複雑系?の経緯を重ねた末に、「明治新政府」の時代
を迎えてから撮ったのが、「高須四兄弟」一同が顔を揃えた、
上の「集合写真」(明治11年/1878年9月撮影)ですから、ただの
「記念写真」とうっちゃるほどに軽いものではありません。

それにしても「幕末維新」とは何たる複雑系?の時代なのか! 
やっとのこと、ここまで辿り着いた「単純系向き」の筆者なぞは、
その複雑さにすっかり体調・頭調を崩してしまいました。
〜ウーム、明日はお医者に診てもらわなくっちゃッ〜




 にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ  ↓コメント欄はいちばん下↓
↑応援クリックは↑



−−−これまでの 「災難」 シリーズ−−−−−−−−−−−−−−−−
376 日本史の「災難」03 ゆるネーム?”蛤御門の変” 戦乱さ中にこの感性
376 日本史の「災難」02 ”面食い”は禍根を残す 謙虚不足は罰が当たる
371 日本史の「災難」01 築城名人<せいしょこ>さん 震災と劣化二つの名城
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
ヤジ馬の日本史〜超駄級・400記事一覧〜 301−400編 颯爽ろくでな史!
ヤジ馬の日本史〜超駄級・300記事一覧〜 202−299編 堂々肩すか史!
ヤジ馬の日本史〜超駄級・200記事一覧〜 後編「な→ん」巻 あゝ七転八倒!
ヤジ馬の日本史〜超駄級・200記事一覧〜 前編「あ→と」巻 七転び八起き!
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−



送料無料/松代藩 親兄弟の血縁を断っても護った真田の家名。信州最大の藩は文武の誉れたぐいない人材が輩出。/田中博文
オンライン書店 BOOKFAN
著者田中博文(著)出版社現代書館発行年月2012年09月ISBN9784768471319ページ数2

楽天市場 by 送料無料/松代藩 親兄弟の血縁を断っても護った真田の家名。信州最大の藩は文武の誉れたぐいない人材が輩出。/田中博文 の詳しい情報を見る / ウェブリブログ商品ポータル

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
URL(任意)
本 文
日本史の「災難」04 複雑系?四兄弟の幕末維新 ヤジ馬の日本史/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる