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zoom RSS 日本史の「油断」05 老中20年の剛腕外交?

<<   作成日時 : 2016/09/30 00:15   >>

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江戸時代の享和・文政・文化の期間、長きに渡って
老中(1802〜1822年の間)を務めた土井利厚(1759-1822年)は、
その知名度はともかくも、「老中勤続20年」という実績を備えた
人物です。
だったら、本当に「有能な老中」だったと言っていいものか?
この点について多少皮肉な見方をするなら、何事も「先送り」に
徹することがその「手腕」だったと言えなくもありません。
実際、ロシアの外交使節・レザノフとの交渉(1804年)の席でも
こうした「手腕」は遺憾なく発揮されています。

ロシア側はその徹底した「先送り」姿勢に大いに困惑し、まさに
「暖簾(のれん)に腕押し/糠(ぬか)に釘」の思いを味わいました。 
もっともこれは、当時のロシアに「暖簾」「糠」があったと
すればの話ですが。 

さすがのレザノフも、こうした態度にはムッときたようで、
日本の北方拠点(樺太/択捉島)襲撃を部下・フヴォストフ
命じるや、その行動を以てロシア側の意思を示しています。 

もちろん本格的な戦争まで持ち込むことはせず、多少の建物を
焼き払い、食料や武器を略奪する程度に留めたものでしたが、
要するに〜オレたちはメッチャ腹を立てているのだゾ!〜
いうロシア側の”感情”を分かりやすい行動で伝えたわけです。

同時に、このことはこんなメッセージにもなります。
〜話し合いに応じないのなら、力づくの方法もありまっせ!〜
実際、この”襲撃”には日本側もいささか泡を食っちゃいました。
なにぶんにも、「想定外」の成り行きだったからです。

土井老中といえば、信念一徹の人物であり、
〜こちらがまともに取り合わなければ、そのうちに相手も諦める
  だろうし、もしそれで武力行使してきてもダ、武士の力で抑え
  込めばロシアなんかはメじゃない、屁のカッパだッ〜
 
こんな、なんとも現状認識を欠いた空想的信念?を金科玉条と
していたのですから、これは同時に、この頃の江戸幕府中枢が
平和ボケ・油断の只中にあったことを証明しています。

「平和ボケ」と言うのは、これより十数年も以前のこと、思想家?
林子平(1738-1793年)が、著書「海国兵談」(1791年)の中でこう
力説していた事実があるからです。
〜江戸の日本橋より唐、阿蘭陀(オランダ)迄境なしの水路也〜
〜世界の海はひと続きになっているのだから、外国が来ようと
  思えば、いつでもどこからでも来られるのだゾ・・・よってもって
  我が国としても「海防」を充実させておかねばならないッ〜


文化露寇船01 文化露寇レザノフ01








文化露寇/レザノフ

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つまり、土井老中が現に直面した「ロシアの脅威」に対しては、
とっくの昔に具体的な言葉で警鐘が鳴らされていたわけです。 
ところが、時の幕府(老中/松平定信)は、そうした対応・準備を
進めるどころか、逆にこれを握り潰していました。
意見の中身よりも、部外者の分際が「御政道に口を挟んだ」こと
自体が、「ともかくけしからん」という理由でしたから何をか
いわんやです。

この時の日本VSロシアの衝突を、日本側では元号「文化」を
冠して「文化露寇」(文化3年・1806年/文化4年・1807年)と呼び、
ロシア側では襲撃を指揮したレザノフの部下の名をとって
「フヴォストフ事件」と呼んでいます。 

思いがけない襲撃を受け、さすがの幕府もこれは見過ごせない
と判断したのでしょう。
青森・山形・秋田など東北の諸藩から約3,000名の武士を徴集し、
宗谷・斜里など蝦夷地の要所警護に当たらせることにしました。
しかし、なにせドロ縄式・行き当たりばったりの処置ですから、
このことがまたとんでもない惨事を招いています。

当然のことですが、現地には全員が寝泊りできるだけの十分な
宿舎もありません。
そのため、派遣された者たちは周辺の樹木を伐採し、不足分を
自ら建設することから始めなければなりませんでした。

急ごしらえの生木構造は時が経てば狂いも生じ、そこらじゅう
から厳しい隙間風が容赦なく吹き込みます。
その上に、食料とて潤沢に備わっていないことも重なって、
極寒の中で栄養不足に陥り、結局百人余りの犠牲者を出して
しまったのです。 →津軽藩士殉難事件
林子平の忠告に対する意識が少しでも働いていたなら、こうした
「悲劇」を見ることもなかったのかもしれません。

この点からしても、土井老中の外交能力はいささか「問題アリ」
でしたが、実は現職老中のままで六十余年の生涯を閉じて
います。 つまり、その間に降格や左遷や解職の憂き目に合う
ことはなかったということです。

そうなった理由の第一は、「文化露寇」後のロシア側が、自国の
事情により日本への接触を控えたことでした。 そのため、
結果として、土井老中の「先送り戦術」は功を奏す形になり、
「イヨッ、さすがは老中ッ!」との評価に結びついたわけです。

逆に言えば、ロシア側にもしそうした特殊事情が発生しなかった
としたら、「さすがは老中」どころか、続け様の「文化露寇」
「殉難事件」を引き起こしていたのかもしれません。

ただ拙いことに、この土井老中の成功事例?はその後の幕府の
姿勢に大きな影響を与えてしまったようです。
〜幕府にある者は外国なんぞに真摯に向き合う必要はなく、
  時間稼ぎに徹し、鎖国を貫徹するのがあるべき姿である〜


早い話が、後のいわゆる「黒船来航」(1853年)の折に、幕府が
何ら有効な手を打てず、時間稼ぎに時間を費やした姿も、この
外交哲学?を遵守したものだったのでしょう。

それはともかく、〜何もせず時間稼ぎをすることが優秀〜という
ことなら、筆者なんぞは土井利厚並みの才能に恵まれた人材で
あることは間違いなさそうです。




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