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zoom RSS 日本史の「陰謀」17 ヘッこれが”錦の御旗”かえ?

<<   作成日時 : 2016/04/05 00:01   >>

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幕府側は最後の将軍・徳川慶喜が政権返上(大政奉還)を
実行、また朝廷側は、〜慶喜を討伐せよ〜との詔勅を、
薩摩・長州の両藩に発する・・・
実はこれが同じ日(1867年11月9日)の出来事ですから、
徳川幕府が倒れ、明治新政府が成立するまでの過程には
相当に緊迫した政治状況があったといえそうです。

そして、この時発せられた「討伐」詔勅には、幾分おどろおどろ
しく、「討幕の密勅」という愛称?が付いています。 
しかし、内密であろうがなかろうが、詔勅であるからには、
内容自体は、時の明治天皇※(1852-1912年)の「御意思」という
ことになるはずです。
しかし、どうもそれは建前で、実態はむしろ側近たちによる工作
の匂いも感じられるところです。 ※明治天皇践祚 1867年1月30日 

なぜなら、孝明天皇(1831-1867年)急逝後を継承したばかりの、
齢十代の若き天皇が、いきなり〜慶喜を討伐せよ〜というところ
まで踏み込んだ「御意思」を示したものか、この点にいささかの
疑問が残るからです。

この詔勅によって「討伐の標的」?とされていまった慶喜は、
結局翌1868年早々、「鳥羽伏見の戦い」に追い込まれます。
そして、この旧幕府軍VS新政府軍対決の場面で、突如?として
「錦の御旗」が登場することになるわけです。

通説では「錦の御旗」を目にした途端、慶喜は戦意を喪失し
大坂から江戸へ逃げ帰った〜
 このように説明されています。
また、この時官軍側にあった田中光顕※(1843-1939年)は自ら
の体験として、こんな証言もしています。
「錦の御旗」を知らしめただけで前線の幕府兵達が、
  「このままでは朝敵になってしまう」と青ざめて退却した〜

※当時土佐藩兵/後に内閣書記官長、警視総監などを歴任。

しかし、教養人である慶喜が、「錦の御旗」(錦旗)の御稜威に
まつわる昔々のお話を知っていたことは認めるにせよ、一般兵
までが、すべからく同様の知識を備えていたとも思えません。

事実、話を整理すれば、旧幕府軍が目撃した「錦の御旗」
岩倉具視の要請により、薩摩・大久保利通や同・品川弥二郎
らが、こっそり作ったものということですから、つまり、それまでに
この「錦の御旗」の現物を見た人はなく、関係者以外は誰もその
存在すら知らなかったということになります。
※慶応3年10月6日 (1867年11月1日)

もっとも、こんな説明もあります。
〜覚えやすい歌詞と明るい曲調の「宮さん宮さん」
  「錦の御旗」のCMソング?として、その広報に大きく貢献した〜

※「宮さん宮さん (トンヤレ節)」 作詞:品川弥二郎/作曲:大村益次郎
宮さん宮さんお馬の前に/ひらひらするのは何じゃいな/トコトンヤレトンヤレナ/
あれは朝敵征伐せよとの/錦の御旗じゃ知らないか/トコトンヤレトンヤレナ/


錦の御旗51 岩倉具視51
















  錦の御旗   岩倉具視

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しかし、歌詞の中に「宮さん宮さん」との文言があるからには、
この歌曲ができたのは、その「宮さん」こと「有栖川宮熾仁親王」
が、明治天皇の命を受け進軍を始めた1868年2月以降のことに
なるわけで、もしそうなら、1月の「鳥羽・伏見の戦い」には間に
合わなかったものと考えられます。

また、まだラジオ放送(開始は1925年)もなく、その普及・浸透は、
もっぱら「口コミ」?に頼らざるを得ない時代ですから、一般の
国民がこの「歌曲」を知るようになるまでには、現代よりはるかに
多くの時間を必要としたはずです。

なのに、ひとたび「錦の御旗」と聞くや、〜戦意を喪失した/
青ざめて退却した〜
とは、いかにも不可解な出来事です。
そこで、そのへんを少し探ってみると、こんなことが分かって
きました。 先の証言者・田中光顕が晩年(昭和8年/1933年)
NHKの放送で、こう語っていたのです。

錦の御旗を押し立てて進軍していくと、旧幕府兵が
  「これは何じゃ」と尋ねたので、「錦の御旗である」と答えると、
  錦の御旗とは何じゃ」と尋ねる。
  「天皇の軍の旗である、我らは皇軍である」と答えた。
  すると幕府兵は、「わしらは賊軍か」と尋ね、
  「そうだ」と答えたところ、血相を変えて走り去った〜

  林 洋海:著/母成峠【そして少年は戦場に消えた】 

ですから、錦の御旗を見て、「たちまちひるんだ」とする説明は
いささか舌足らずで、遠慮なく言えば、少なくとも幕府軍の兵士
に限れば、「鳥羽伏見の戦い」の段階でも、「錦の御旗」なる
ものをよく知らなかった。 
これが本当のところかもしれません。

常識的にも、12月に隠密裏に作ったものが、翌正月には前線の
一兵卒にまで広く知れ渡っていたとは考えにくいところです。
では、その「錦の御旗」の御稜威?がまことしやかに語られて
いるのはなぜか?

このことに岩倉具視・大久保利通・品川弥二郎などが大きく
関わっていたことを思えば、「勝者側の情報操作」、いわゆる
「大本営発表」?ということになるのでしょう。

ということで、今まで語られてきた「錦の御旗」の“圧倒的な
御稜威”を、少しばかり疑問視していたワタシのモヤモヤ気分は
これで多少薄められたわけです・・・
やれやれ、今日も元気でビールがうまいッ!



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