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zoom RSS 日本史の「発明発見」07 動機?トラウマです!

<<   作成日時 : 2014/10/10 00:01   >>

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生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされれば、誰だってチビる思い
を味わうのは当然です。
現に、何度となく戦さを体験してきた徳川家康(1543-1616年)
さえ、あの有名な「しかみ像」を残くらいのものですからネ。

「三方ケ原の戦い」(1573年)で武田信玄軍に大敗し、自身も
落命寸前まで追い詰められた家康は、浜松城に帰還するや
すぐさま絵師を呼びつけて、この「肖像画」を描かせたとされて
います。 今で言う「記念写真」?でしょうか。

その姿は、目は見開き、右手を左足に左手はアゴにやり、
全身の震えを必死に押さえ込もうとしています。
つまり、戦のベテラン・家康でさえもこの「三方ケ原の戦い」では、
これほどの恐怖感、チビる思いを味わったということです。
 (もっとも実際に脱糞したとの噂も)

合戦経験に乏しいワタシが言うのもなんですが、それが初陣とも
なれば、なおのことその恐怖感は大きかったと想像されます。
それを証明しているのが、この家康よりも千年も前の人物、
聖徳太子(574-622年)の初陣の様子です。

蘇我馬子VS物部守屋の戦い(崇仏排仏戦争/587年)に、親戚・
蘇我氏から駆り出されたのが、当時中学生?の太子です。
蘇我氏が圧倒的優位に立っていたからこそ中学生?の参加も
許されたのでしょうが、不利な物部氏の必死の反撃は想像を
超えた凄まじさで、これを目撃した太子は肝を潰してしまいます。

ちょうど全身の震えが止まらなかった家康と同じですが、なにせ
若くもある上に初陣ときているのですから、太子の場合の
恐怖心はさらに大きいものがあったでしょう。 
後はもう「神頼み/仏頼み」あるのみです。 「どうぞ勝たせて
ください!その暁にはお寺を寄進しますによって・・・」


感受性の豊かなローティーンの年齢で、死ぬ思いを味わったの
ですから、これがトラウマにならないはずがない。
で、後年、太子の心の中にはこんな思い・信念が芽生えます。

〜仮に意見の相違があっとしてもダ、戦いを持ってその決着を
  つけようとするなんぞは断固としてよろしくないッ!〜

これが有名な“和の精神”の骨格になります。


画像 画像 









 しかみ像(徳川家康)   物部守屋との合戦/「聖徳太子絵伝」

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その精神を謳った「十七条憲法」(604年?)の最初の部分です。
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一曰。 以和為貴。無忤為宗。 人皆有黨。 亦少達者。
是以或不順君父。 乍違于隣里。 然上和下睦。 諧於論事。
則事理自通。 何事不成。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
このように実に深い内容になって・・・えっ、分かりませんか?
何を隠そう、ワタシもサッパリ。

そこで、聖徳太子には申し訳ないのですが「超訳」です。
〜いさかいのない仲良しが一番大事なんです・・・第一完璧な
  人間なぞはいないからには、みんなで話し合うことが大切で、
  それでまとまったときの答えは絶対に正しいのですッ〜


三十歳を超えてなお、これほどまでに「みんなで仲良く」を強調
していたのですから、逆にいえば中学生時代の初陣、つまり
武力衝突(戦争)の体験・目撃は、自身のその後を決定づける
ほどに衝撃的な出来事だったということです。

その証拠が、四天王寺の建立(593年?)で、太子は神頼みの
折の「お約束」をキッチリ果たしています。
窮地に追い込まれて「神仏に約束」したとしても、ピンチを脱した
途端にケロッと「水に流して」しまう現代人に比べると、この点、
聖徳太子はさすがに律儀でエライっ!

しかしそれはそれとして、では聖徳太子のお言葉(発明・発見? )
〜全員話し合いの合意なら、その答えは絶対に正しい〜
本当に的を得た理屈なのか?
正直なところ、この点には少々の疑問を感じます。

〜全員話し合いの合意でも、その答えが間違うこともある〜
こんな気もしないではないのですが、しかしこれは証明できる
性格のものでもないので、まあ太子ご自身の信念、さらに言う
なら「聖徳太子教」とも呼ぶべき一種の宗教と受け止めた方が
正しいのかもしれません。

それにしても、徳川家康の「しかみ像」にしても、聖徳太子の
「四天王寺」にしても、自分が味わった「恐怖心」を隠すことなく
後世に伝えようとしたところが偉人の偉人たる所以でしょうか。

その点、凡人は自分が恐怖したこと、たとえば夜道でバッタリ
出くわした大柄な黒猫にいきなり「シャ〜ッ!」と威嚇されて、
思わず腰を抜かしたなど、この手の体験をカッコ悪いものとして
隠したがるものです。

なぜ、そんなことが断言できるのか? 決まっています!・・・
ひときわ凡人のワタシが一途に隠し続けている「恐怖の実体験」
だからです。




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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
どうも。和の精神とはどんな概念なのでしょうか。どんなに日本の歴史を見直しても、話し合いで事足りたという記録は見当たらないと思うんです。有名な合戦がたくさんあり、多くの人間の血が流れ、命を落とした者達がいるのです。身分・階級の違いはあれど、戦に赴き帰らぬ人となったことに変わりはない。家康や尊氏、頼朝、清盛などの武士。蘇我氏や藤原氏のような豪族・貴族。邪魔な人達を様々な手段で排除してますね。どう思われます?
閑人
2014/11/05 21:48
コメントありがとうございます。
自分なりにはこんなイメージをもっています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
「和の精神」は、その背景にもっと古くからの
「怨霊信仰」があると思います。
つまり「怨念」や「怨霊」を生み出すような
生き方は好ましくないとする、一種の哲学?
規範?です。

では「怨念」や「怨霊」を生み出さない
ようにするには?
ここに至って「和の精神」がそのツールと
して発明?されシステムとして発見?された、
といったイメージです。

もっとも、これはあくまでも「おらが村さの中」
や「おらが仲間のうち」で活用されるべき努力
目標?的な位置づけであり「夷敵」に対して
応用される思想ではなかったのでしょう。
聖徳太子自身が「新羅討伐」という大規模戦争
に踏み出して(途中で頓挫)いることがその
証拠になるのかもしれません。

昔々は、「おらが村さ」と比較して、住む
地域が違う/血筋が違う/使っている言葉が
少し変だ/風習が異なる・・・などのことは、
概ね「異国・異民族すなわち野蛮人」という
意識に結びついていたのではないでしょうか?

ですから、こうした者と戦うことは「おらが
村さの和の精神」となんら矛盾するものでは
なかったとも想像します。
それどころか、それが「正義」だったのかも
しれません。

ですから「和の精神」はあくまでも「おらが
村さの中」において守るべき規範であって、
「おらが村さの外」(すなわち意識としては
「異国・異民族」)の範囲まで広げたものでは
なかったように思っています。

むしろ「おらが村さの外」であれば
「なんでもあり」だったのかもしれず、
その名残り?が・・・〜旅の恥は掻き捨て〜???
住兵衛
URL
2014/11/08 09:35

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