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zoom RSS 日本史の「パクリ」07 お宝”北条氏”頂きました

<<   作成日時 : 2014/08/25 00:01   >>

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その本名を「伊勢(新九郎)盛時」といったそうですが、別名の
「北条早雲」の方でよく知られた人物です。
生まれは1432年とも1456年とも言われ、またその出自についても
一介の素浪人に過ぎないという見方もあれば、室町幕府に
関わりを持った人間の血筋という意見もあって、実際のところは
これもよく分かっていません。

ともかく、織田信長(1534-1582年)より百年ほど前に小田原
あたりを拠点に勢力を広げていったという実績に照らし、
この早雲を「戦国大名」の第1号とする見方もあるようです。

では、なぜ「伊勢(新九郎)盛時」が、似ても似つかぬ「北条早雲」
という名で呼ばれているのか?
名の「早雲」の方は、自らの号「早雲庵宗瑞(そううんあんそうずい)」
からきているのでしょうが、では姓の「北条」は?

その“変身”?は早雲の嫡男・氏綱(1487-1541年)がこう考えた
ことがキッカケでした。
〜新聞見出しなら、“関東”で勢力拡大の“伊勢氏”・・・といった
ところだ。 しかしこれでは“鶴岡八幡宮”に流れる“五十鈴川”
もどきの印象で、整合性に欠け迫力もイマイチだ〜


で、早速「小田原評定」?を開催。
側近 「殿のご懸念は尤もです。そこで提案ですが、この際
    思い切って“改姓”されるのはいかがでしょうや?」
氏綱 「ふ〜む、・・・なんぞ名案でもあるのかえ?」

側近 「ズバリ、“北条”ってのは、いかがでしょうや?」
氏綱 「なんだと、鎌倉幕府・執権の“姓”をパクろうと言っておる
    のか? もしそうならモラル的にもいささか問題があるゾ」

側近 「お言葉ですが、我が“伊勢氏”は先代様の時代から
    散々他人の領地を荒らし征服してきています。だったら、
    いまさら“姓”のひとつくらい気にする必要もないような気が
    しますが・・・」

側近の理屈になるほどと思いながらも、しかし氏綱の心には
“引っ掛かり”が残りました。


画像














       小田原駅前にある北条早雲像

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氏綱 「後世“パクリの氏綱”なんて呼ばれることは断然嫌だぞ」
側近 「心配ご無用! 幸いなことに我が領地内には“北条”と
    いう土地がございます」

側近の説明はこうです。
名門“足利氏”や“新田氏”も、拠点の地名をそのまま“苗字”に
しているのであれば、当方が領内“北条”の地名をそのまま
“苗字”に採用することはむしろ自然なこと。

氏綱 「う〜む、冴えた理論展開じゃ」
側近 「それにこの“北条改姓”のメリットは他にも盛り沢山!」

鎌倉幕府執権・北条氏と偶然?にも同じ姓になることは、民に
なんとなく親近感を抱かせ、それがまた関東支配権の正当性に
「プラスの誤解」?を与えることができます。
さらには、同じく平氏だった“北条氏”を名乗ることで、世間には
現政権・足利源氏を滅ぼすのはこの我らだ、という気概を
アピールすることにもなります。

氏綱 「聞けば聞くほど“北条”の姓が“お宝”に見えてきたゾ。
    しかしだ、父チャンが“伊勢盛時”で、その嫡男のボクが
    “北条氏綱”ではいささか説得力に欠けてやせんか?」

側近 「そんなもん遡って父チャンの方も“北条早雲”だったって
    ことにしてしまえば、それで一件落着ではございませんか!
    殿も案外ケツの穴の小さいお方ですね」

かくして、めでたく「北条早雲」の誕生を見ることになるのですが、
この「パクリ」?は目論見通りに割合巧く機能しました。
早雲以後の「後北条氏」はこのように引き継がれたからです。
(鎌倉執権“北条氏”と区別するために、こちらを“後北条氏“と呼ぶことも)

初代 早雲(1432?1456?-1519年) 基礎を築く
二代 氏綱(1487-1541年) ちゃっかり「北条」を名乗る
三代 氏康(1515-1571年) 武田・今川との三国同盟

ところが、豊臣秀吉(1537-1598年)が台頭してくると、俄然雲行きが
怪しくなり、結局は滅亡の道をたどることに。
四代 氏政(1538-1590年) 豊臣秀吉に負け切腹
五代 氏直(1562-1591年) 秀吉により滅亡に至る
せっかくの「パクリ」?も百年ほどの栄華に留まったわけです。

ところで、この後北条氏には「小田原評定」と呼ばれた重臣会議
がありましたが、実はこの言葉、現在でも“いつになっても結論の
出ない会議”
の比喩としてよく使われています。
しかし、これは勝者側が言いふらした「悪口」に過ぎず、実際には
十分に機能していたようです。

では、この誤った比喩の「言い出しっぺ」は誰なのか?
その真犯人?を突き止めるべく意見を集めれば、それこそ
「小田原評定」になりかねませんので、これは別の機会にでも。




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