テーマ:江戸幕府

日本史の「大雑把」02 五十年ワシ掴みの江戸幕府

~「江戸時代」とは1603年の幕府樹立から1868年の江戸城明け渡し   までの265年を指す~ 普通この程度の説明がされています。  しかし、始まりから終わりまでの265年はいかにも長い。  もう少しコンパクトに把握できないものだろうか? そこで思いついたのが、江戸時代265年をエイヤッとばかりに、 約半世紀50年単位で…
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日本史の「誤算」11 狂気の沙汰?領地返上

戦国の世の最終勝者となった徳川家康(1543-1616年)は、江戸幕府を成立 (1603年)させ、征夷大将軍として、それまで同格とされていた諸大名の上に 君臨することで新しい時代を誕生させました。 要するに、それまでの横並びの同僚関係を消滅し、家康率いる徳川家が 統治する形に作り変えたということです。 最大のライバル・豊臣…
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日本史の「逆転」22 異国・異人に拘った幕末風景

黒船来航(1853年)の翌年に日本再来航を果たしたアメリカに対して、 心ならずも「日米和親条約」(1854年)を締結せざるを得なかったのが 時の幕府でした。 長崎「出島」に拠点を持つオランダ国以外の、新たな「異国」である欧米との 関りを持つことは、それまで継続してきた実質的な「鎖国体制」に幕府自身が 終止符を打ったことになり、…
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日本史の「列伝」18 突然死と長っ尻の第11代

江戸幕府第10代将軍・家治(1737-1786年)の世嗣・徳川家基(1762-1779年) は、幼年期より聡明で文武両道の才能を発露していただけでなく、成長 するにつれ政治にも大きな関心を寄せるようになっていました。 ですから、8代・吉宗→その子9代・家重→その子10代・家治と続いた 江戸幕府将軍職は、何事もなければ、血筋の流れ…
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日本史の「ツッパリ」21 臨機応変それとも右往左往?

ペリー代将が率いるアメリカ海軍による、いわゆる「黒船来航」(1853年)から、 それ以降「明治維新」に至るまでの期間(約15年)を、一般的に「幕末」 (江戸幕府の末期)と呼んでいます。 一口に言えば、「江戸幕府」の在り方を巡り、政治的にも社会的にも大きな 混乱が生じた時期でした。 ~泰平の眠りを覚ます上喜撰 たつた四杯で夜…
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日本史の「微妙」05 多重国籍?将軍の苦悩

艶福家として有名な?水戸藩主・徳川斉昭を父、またその正室である宮家 (有栖川)出身の吉子女王を母として、江戸・小石川の水戸藩邸で生まれた のが、江戸幕府最後の将軍となった第15代・徳川慶喜(1837-1913年)です。 ということは、慶喜の体には生まれながらにして「水戸藩()徳川家」と 「皇室(天皇家)」の両方の血が流れていたこ…
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日本史の「誤算」06 ”盛者必衰”家康の回避方程式

隣国の遠江・駿河を治める大大名・今川義元(1519-1560年)に屈する形で 人質生活を送ったのが、後に徳川家康(1543-1616年)と名乗ることになる 若き日の松平元康でした。 当主・元康自身が人質境遇ですから、その家臣達はほとんど奴隷?の扱いを 受け、そればかりか自領・三河は今川家の植民地?もどきの状況にあったと いうこ…
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日本史の「トホホ」22 幕末八万騎VS八郎の嘘八百

「旗本八万騎」とは、こう説明されています。 ~徳川将軍家の旗本の数を称したもの。 実際には旗本は   五千を少し上回る程度でであったが、御家人と陪臣を含め   れば、約八万騎であった~ (三省堂・大辞林) この程度の説明なら、まあ大概の人には理解できると判断した ものでしょうが、どっこい、ここに使われている言葉自体が、 すで…
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日本史の「アレンジ」16 悲運に遭遇!公武合体

「都市伝説」かもしれませんが、こんなお話が残されています。 ある時、舞踊家イサドラ・ダンカン※1(女性)が、作家バーナード・ ショー※2(男性)にこう言って結婚を申し込んだ。 ~貴男の頭脳と私の肉体を持った子供が生まれたら、   どんなにかすばらしい事でしょう~  ところがショーはこう答えて辞退した。 ~私の肉体と貴女の頭脳…
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日本史の「油断」05 老中20年の剛腕外交?

江戸時代の享和・文政・文化の期間、長きに渡って 老中(1802~1822年の間)を務めた土井利厚(1759-1822年)は、 その知名度はともかくも、「老中勤続20年」という実績を備えた 人物です。 だったら、本当に「有能な老中」だったと言っていいものか? この点について多少皮肉な見方をするなら、何事も「先送り」に 徹するこ…
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日本史の「もしも」08 桜田門外”安政”の雪模様

~安政7年3月3日の朝(午前9時頃)、護衛藩士15名を含めた   総勢60名ほどの行列を従えて彦根藩邸を出た大老・   井伊直弼※1は、職場の入口(江戸城・桜田門)目前で、暴漢   集団※2に襲われ絶命に至った~ (西暦:1860年3月11日) これが今から約150年前に起きた「桜田門外の変」です。 ※1 1815-1860年…
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日本史の「ツッパリ」18 空回り?”無二念”の気迫

いくつかの言い方※があるようですが、その中でも一番気迫に 満ちた表現は「無二念打払令」(1825年)でしょう。  なにしろ、清国・オランダ以外の「外国船」を見つけたら、 ~何も考えず、ためらうことなく打ち払え、追い払え!~ こう言っているわけですから、半端ない迫力です。 ※ほかにも/異国船打払令/外国船打払令/文政の打払令 …
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日本史の「事始め」08 昔もあった?ブラック企業

~あまりの激務に体調を崩し、病死(享年55)~  幕臣・江川英龍(1801-1855年)の最期を紹介した文章です。  現代なら、さしずめ“過労死”という言葉になるのでしょう。 では、死に至るような“激務”とは、いったいどういうものだった のか? そもそもの端緒は、最初の「黒船来航」(1953年)で開国を 迫ったペリー艦隊…
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日本史の「陰謀」16 事件は”長袴”から始まった!

裾の丈がメッチャ長くて、足も出せないまま後ろに引きずる 袴姿は、 たとえば、「忠臣蔵」ドラマの江戸城内「松の廊下」 シーンにも登場します。 これには、見た目通りの「長袴」という名が付いていますが、  ともかく足の出ない不思議なデザインですから、現代人が いささかの疑問を抱いたとしても不思議ではありません。 ~それにしても無駄…
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日本史の「列伝」10 徳川将軍の心身健康診断書

徳川幕府※の歴代15人の将軍の中には精神面や身体面で それなりの「健康問題」?を抱えていた方もいたようです。  「国のトップ」という地位には、シモジモには分からないご苦労が あったということかもしれません。 ※1603年創設~解散1867年 初代・家康 (1543-1616年)&第2代・秀忠 (ひでただ 1579-1632年…
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日本史の「トホホ」18 加賀百万石のクール宅急便

前田利家(1538?-1599年)は、豊臣秀吉(1537-1598年)政権下で 大幹部・五大老の一人として、徳川家康(1543-1616年)とともに その職責を務めていました。 しかし、その後の流れは以下のように変化します。 ○1598年 豊臣秀吉の死 (享年62) ○1599年 前田利家の死 (享年62?) 後継は長男・…
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日本史の「逆転」16 アメでムチを忘れたか!

「飴と鞭」」(アメとムチ)という言葉は、一般的に、国民に対する 為政者の「懐柔策と弾圧策」という意味で使われています。 つまり、上の者が下の者を上手くコントロールしようとするなら、 「厳しさ(ムチ)」だけでは十分でなく、適度の「褒美(アメ)」も 必要だとする考え方といったところでしょうか。 それなら、為政者としての江戸幕府…
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日本史の「油断」04 武家諸法度の三日坊主

武家の統制を目的とした「武家の憲法」とも言うべき 「武家諸法度」※は、徳川幕府初代将軍・家康の命により 二代・秀忠がまとめ上げ(元和令/1615年)、それ以降、次の ように数度の改訂?が加えられました。 ○寛永令(1635年) 三代・家光 →参勤交代/大船の建造禁止 ○寛文令(1663年) 四代・家綱 →キリスト教禁教を明…
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日本史の「逆転」14 維新”オセロゲーム”模様

表裏がそれぞれ白と黒になっている石?駒?を使うゲーム ”オセロ”では、直前までほとんど「黒一色」にあった盤上が、次の 一手によって今度はほとんど「白一色」になるという「劇的変化」 を作り出すことがあります。 ※これを指す正式な言葉は知りませんが、 ここではゲームの名を拝借して“オセロ現象”?と命名しておきます。 実際の歴史…
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日本史の「言葉」16 自作自演はなぜ”狂言”?

デッチあげ・自作自演の強盗事件を「狂言強盗」と表現すること があります。 しかしよく考えてみると、この言い方は伝統芸能 である本物の「狂言」に対し大変に失礼な気もするのです。 ところが、このことで本家「狂言」側からクレームが付いたという 話も耳にしません。 ということなら、それなりに“合理的”な表現になっているとも 考え…
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日本史の「トホホ」13 ”武士の情け”も外注で

当然のことですが、国政・行政を遂行するためには少なからず その実務者すなわち公務員を必要とします。 江戸幕府の場合はそれを武士が担当しましたが、人数の面では 現代の水準よりグ~ンと少なかったようで、正直なところ武士 だけでは決定的に「人手不足」の状態でした。 だからといって、行政を停滞させてしまうわけにもいきません。 そ…
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日本史の「トホホ」12 不慣れな御政道と美少女

個人にせよ組織にせよ「慣れないこと」に手を出すと、思いの ほかその影響を広げてしまうものです。 ~下々の者が御政道に口を挟むなどまかりならん!~ 長い間この姿勢を基本理念?としてきた江戸幕府にとって、 国民の意思を斟酌するなんぞは、まさにその「慣れないこと」 そのものでした。 その動機は、何と言っても「黒船来航」(185…
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日本史の「怪人」07 慶安のリストラ蜂起

弱者?の立場を最大限に配慮する、いわゆる「護送船団方式」 には、とかく批判も囁かれましたが、実はこれとは真逆の政策を 推し進めていた時代もあったのです。 大阪の陣(1615年)で宿敵・豊臣家を滅ぼし、「強い政府(幕府)」 構築を目指した徳川家が諸大名に対し、「改易(取り潰し)・減封」 攻勢を仕掛けていた時期がまさにそれです…
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日本史の「逆転」10 貧乏だけど大金持ちだゾ

そこに「財力」も加わるのが「権力者」の典型的な姿ですから、 江戸幕府のような「貧乏権力者」は相当に珍しいはずです。  ええっ、江戸幕府ってそんなに貧乏だったの? もちろん!・・・その間何度も「貧乏脱却」のための改革?を企て あがき続けていたことが「動かぬ証拠」です。 黒船来航(1853年)直前の時期も、いわゆる「天保の改革…
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日本史の「謎解き」12 ピンハネ?は見ぬフリを

江戸幕府は、その期間に何度かの「改革」を試みていますが、 そこには、いつも「財政再建」という課題が伴っていました。 しかし、なんでまた「財政再建」が必要だったのか? そんなことは決まっておる、とにもかくにも「貧乏」だったからだ! それはそうでしょうが、でも普通に考えれば、その「貧乏」? 自体からして、なにかしら怪しい雰囲気…
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日本史の「忘れ物」14 アメリカ船はいつ来たか?

1783年、大西洋側の13州で当座の独立を果たした「アメリカ」は その後に太平洋側の地域を併合(1846年)し、初めてその国土が 太平洋に面することになりました。 この時のアメリカ政府は、既にヨーロッパ列強がひしめきあって いる「大西洋」を活動拠点とすることは、新米独立国にとって 得策にならないと判断し、この「太平洋」に目…
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日本史の「迷宮入り」09 幕府が”それ”をしなかった理由

最大の敵「豊臣家」を滅ぼした(1615年)後の幕府・徳川家は ひとつには、不平分子?の「反乱」に神経を尖らせていたこと、 さらには、海外貿易を管理し、ほぼ鎖国?の状態を保つように したこと、こんな状況にありました。 その内、外様大名などによる「反乱」を「想定内」のこととして 警戒していた意識は各藩の配置ぶりからも、また、な…
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日本史の「冗談?」07 変装迷人?大いに語る

1709年、江戸においてイタリア人カトリック司祭・シドッチ (シドッティ)の密入国に対する「取調べ」が幕臣・新井白石に よって行われました。 四日ほどに渡る取調べはヨーロッパにおける科学・天文・政治・ 医学など、実に広範囲に及びましたが、それに答えるシドッチの 博識ぶりもハンパでなかったようで、少なからず感嘆した白石は …
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日本史の「女性」10 何が正室に起こったか?

徳川15人の将軍の正室・側室の人数を合計すると一体 何人になるのかは知りませんが、その中でたった一人だけ 極めて特異な扱いを受けた女性がいます。 二代将軍・秀忠(1579-1632年)の正室・お江サン(1573- 1626年)がその女性で、実は「火葬」に付されているのです。 もちろん、亡くなった後のことですよ。 亡くなる…
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日本史の「逆転」 02 木曽三川 レ・ミゼラブル!

一切れのパンを盗んだがために19年間の過酷な監獄生活を 強いられた挙句、出獄後の自由も認められず、生きている限りは ”仮釈放”の扱い・・・これが主人公・ジャン・バルジャンの 半生です。 一方、スキあらば監獄へ戻すべくバルジャンの監視を続けるのが 宿敵?ジャベール警部という構成の物語「レ・ミゼラブル」は、 最近映画でも人気…
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