テーマ:黒船来航

日本史の「異国」07 朱と黒の幕末意地っ張り

「紅白」あるいは「赤と白」と言われたら、めでたい折に出される 「紅白饅頭」とか、大みそかの恒例番組「紅白歌合戦」、さらには、 歴史好きな人の中には源氏の白旗、平家の紅旗を思い浮かべる向きもある かもしれません。 では、それが「赤と黒」だったら? 小説「赤と黒」を思い浮かべる方も少なくないでしょう。 ただし、おそらくはその…
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日本史の「ツッパリ」24 幕末老中の御意見募集

いわゆる「黒船来航」(1853年)によって外国(アメリカ)から開国を求められる ことになった幕府でしたが、ハナから相手の希望に沿うつもりは持っていません でした。 鎖国政策は権現様、つまり幕府創立者である徳川家康(1543-1616年)も 遵守してきた祖法だと強く信じ込んでいたことがその理由です。 祖法違反とは、江戸幕府にとっ…
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日本史の「事始め」17 幕末日本人のモノづくり

~泰平の眠りを覚ます上喜撰たつた四杯で夜も眠れず~ いわゆる「黒船来航」(1853年)で吃驚仰天した様を揶揄した狂歌です。 蛇足ですが、この「上喜撰」とは茶の銘柄であり、「蒸気船」(黒船のこと)に かけた言葉になっています。 それはともかく、それこそ「見たこともない」ハイテク戦艦が姿を現したの ですから、当時の日本人にとっては…
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日本史の「タブー」07 技術革新 300年の空白

遥かヨーロッパからこの日本に「鉄砲」が伝わった時期は、戦国の世 真っ只中の1542年か1543年のことだとされています。 いわゆる「鉄砲伝来」ですが、そのハイテク武器が最初に上陸した 大隅国・種子島の、今なら中学生ほどの年齢だった若き領主・種子島 時堯(1528-1579年)は、これに大きな関心を寄せ、大枚をはたいて 二丁を購…
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日本史の「ツッパリ」21 臨機応変それとも右往左往?

ペリー代将が率いるアメリカ海軍による、いわゆる「黒船来航」(1853年)から、 それ以降「明治維新」に至るまでの期間(約15年)を、一般的に「幕末」 (江戸幕府の末期)と呼んでいます。 一口に言えば、「江戸幕府」の在り方を巡り、政治的にも社会的にも大きな 混乱が生じた時期でした。 ~泰平の眠りを覚ます上喜撰 たつた四杯で夜…
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日本史の「災難」10 世界の果てまでワープする

イギリスの支配から独立(1776年)を成し遂げたアメリカ合衆国は、当初 大陸の大西洋側(東海岸)のみだった国土を、その後西へ西へと拡張に 努めることで、1848年にはカリフォルニアなどを獲得し、遂に太平洋側 (西海岸)まで達する広大な国土を保有するようになりました。 要するに、国土の東側では大西洋を、西側では太平洋を利用でき…
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日本史の「トホホ」25 ペリー代将の私的なぼやき

アメリカ海軍マシュー・G・ペリー代将(1794-1858年)率いる東インド艦隊が 日本を訪れた事件。 いわゆる「黒船来航」(1953年)ですが、結果として これが十数年後に起きる「明治維新」(1867年?)の引き金になったことは 紛れもない歴史的事実です。 では、アメリカは「何用あって日本国へ」やって来たものか? 多くの理…
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日本史の「油断」07 平成鈍感力は江戸ゆずり?

~泰平の眠りを覚ます上喜撰 たつた四杯で夜も眠れず~ これは“黒船来航”(1853年)で慌てふためく幕府の姿を揶揄した幕末の 狂歌ですが、ただこの歌にはこんな誤解?を招く側面も備えています。 ~鎖国・日本に最初に到来した外国船がこの“黒船“~ これが事実でないことは、それより百年以上も前の「元文の黒船」事件を 知るだけでも…
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日本史の「もしも」09 風前?日本版”アヘン戦争”

七つの海を跨く「イギリス帝国」を構想し、世界各地に 「植民地」を拡大していたのが19世紀のイギリスです。  アジアにおいては、清国(中国)を標的とした「アヘン(阿片) 戦争」(1840-1842年)も、まさにそうした行動の一つでした。 そもそもこの戦争は、清国に対する「輸入超過」の分を、イギリス 側が自国の植民地・インドで…
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日本史の「信仰」04 災い列島!幕末の改元

芳しくないことが続くと、~それまでのことを水に流す~とか ~祓い給え清め給え~などの神道的感性をもって、心機一転、 あるいは気分一新、つまり「仕切り直し」をしたいとする心根を 日本人は昔から持っているようです。 別の言葉にするなら、ソロバンの~御破算で願いましては~と いう掛け声と同様なもので、それ以前のことはチャラにして…
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日本史の「事始め」12 与力”捨身の写真”撮り!

後に日本最初期の職業写真師のひとりに数えられることに なる上野彦馬が生まれたのは1838年。  奇しくもその翌年(1939年)、写真(銀板写真/ダゲレオタイプ)の 技術が発明されています。  その影響もあってか、早くも1840年代には欧米で一種の 「肖像写真」ブームが見られたそうですから、現代日本での 「iPhone 7…
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日本史の「ツッパリ」18 空回り?”無二念”の気迫

いくつかの言い方※があるようですが、その中でも一番気迫に 満ちた表現は「無二念打払令」(1825年)でしょう。  なにしろ、清国・オランダ以外の「外国船」を見つけたら、 ~何も考えず、ためらうことなく打ち払え、追い払え!~ こう言っているわけですから、半端ない迫力です。 ※ほかにも/異国船打払令/外国船打払令/文政の打払令 …
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日本史の「怪人」08 洋学者”象山”の日本人離れ

モダンダンスの創始者といわれるアメリカの舞踊家・ イサドラ・ダンカン(1878-1927年/女性)が、イギリスの作家・ バーナード・ショー(1856-1950年/男性)に、こう言って結婚を 申し込んだことがあるそうです。 ~「あなたの頭脳」と「私の肉体」を持った子供が生まれたら   どんなにか素晴らしいことでしょう~ これ…
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日本史の「トホホ」15 万次郎の難儀な通訳術

幕末期、日本の開国を巡る「日米交渉」では、当然ながら 両国間の「言葉の壁」という大きな問題がありました。  日本語を英語に、またその逆を自在にこなせる、つまり「通訳」 を必要としたわけです。 その日本側の候補者の一人が土佐出身の元漁師・万次郎 (1827-1898年)でした。 と言うのは、漁に出た折に遭難(1841年 /…
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日本史の「トホホ」12 不慣れな御政道と美少女

個人にせよ組織にせよ「慣れないこと」に手を出すと、思いの ほかその影響を広げてしまうものです。 ~下々の者が御政道に口を挟むなどまかりならん!~ 長い間この姿勢を基本理念?としてきた江戸幕府にとって、 国民の意思を斟酌するなんぞは、まさにその「慣れないこと」 そのものでした。 その動機は、何と言っても「黒船来航」(185…
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日本史の「逆転」11 日本列島ウラオモテ

少し前までは、日本列島の太平洋側を「表(オモテ)日本」、 日本海側を「裏(ウラ)日本」とする、幾分差別的なニュアンスを 含んだ呼び方がありました。 地形的に太平洋側に大都市が集中したこともその理由でしょうが むしろ、この頃の日本が中国大陸側より欧米側に関心を寄せて いた事情が大きく影響したものと考えられます。 ところ…
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日本史の「言葉」13 金も無けれど死にたくも無し

親も無し 妻無し子無し版木無し 金も無けれど 死にたくも無し こんな六つの「無」を嘆いて、自ら六無斎(ろくむさい)と 号したのは「林子平」ですが、この言葉の軽妙さとその名前から 落語家・林家三平の弟子を連想してはいけません。 林子平(1738-1793年)は「寛政の三奇人」の一人に挙げられて いるほどの人物なのです。 「…
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