テーマ:豊臣秀吉

日本史の「発明発見」25 神の座へ三英傑の三段跳

筆者の生息地・愛知県では、戦国の天下を動かした下記の武将トリオを 「郷土の三英傑」として称えています。 尾張・織田信長(1534-1582年) 革新政策/関所撤廃・楽市楽座など 尾張・豊臣秀吉(1537-1598年) 集権体制/貨幣統一・兵農分離など 三河・徳川家康(1543-1616年) 幕府創立/天下統一・武家諸法度など …
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日本史の「微妙」10 勝者は看板づくりに精を出す

筆者の生息地・尾張名古屋では、戦国時代に華々しい活躍を見せた 織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の御三方を、その死後数百年経った現在でも 「郷土の三英傑」と呼んで称えています。 ちょっと補足しておくと、こんな案配になります。 織田信長(1534-1582年/尾張国)「室町幕府」に事実上の終止符を打った。 豊臣秀吉(1537-15…
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日本史の「落胆」01 勝てば官軍、でもないゾ

「勝てば官軍 負ければ賊軍」 この言葉は一般的に、 ~何事も強い者や最終的に勝ったものが「正義」であり、負けた方は   「不正義」である~ このくらいの意味で解釈されているようです。 しかし、この言葉が世の中の真実を正確に衝いているとも言い切れなくて、 むしろこんなニュアンスも隠されているようにも感じられます。 ~勝者に「…
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日本史の「タブー」06 かくして御家は滅亡する

平清盛(1118-1181年)を頂点として朝廷を凌ぐほどの栄華を誇った 平家一門の隆盛ぶりを、同門にあった平時忠はこう評したそうです。 ~一門にあらざらん者はみな人非人なるべし~ (現代言葉に直した~平氏にあらずんば人にあらず~が有名) ところが、一時期はこの言葉の通りに飛ぶ鳥を落とす勢いを示していた 平家も、この少し後に…
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日本史の「トホホ」26 京の大仏様にツキはない

日本の場合、「大仏」サマと言えば、まあ普通には 「奈良の大仏」(東大寺廬舎那仏仏像/752年開眼)か、あるいは 「鎌倉の大仏」(高徳院阿弥陀如来像/開基時期不明)あたりを、 イメージするものと思われます。 では、この他に大仏サマがないかのと言えば、実は「さにあらず」で、 古い時代に限っても、たとえば方広寺には「京の大仏」(毘廬…
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日本史の「微妙」07 会議は”根回し”にあり!

現代日本人には、議論をぶつけ合う形になる「会議」自体をあまり好まず、 むしろそれよりは事前の“根回し”という手続きの方に、より重点を置く習性が あるように感じられます。 根回し”という事前調整?を駆使することによって、本番の白熱議論を 避けておく方が仲間集団の和を保つためには無難とする意識でしょうか。 しかし、こうした「根…
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日本史の「付録」06 幻に終わった一日五食

それまで縁のなかった日本にキリスト教を最初に紹介した人物は 宣教師フランシスコ・デ・ザビエル(1506?-1552年)とされています。 これ以後は日本にも多くの宣教師が訪れるようになり、熱心な布教活動を 展開するようになるのですが、ただ、その「布教活動」の中身が、現代 日本人の感覚からしたら、ちょっとばかり曲者で、むしろ「布教後…
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日本史の「微妙」06 山上に棲むは堅気の衆か?

同じ言葉でありながら、時代によってその意味するところが違うものも 少なくないようで、たとえば「御家人」という言葉もその一つかもしれません。 ~武家の棟梁(将軍)の家人(家臣・郎党・従者)の身分を指す語であるが、   中世と近世では意味合いが異なる~ こう説明されています。 平たく言えば、~鎌倉時代の「御家人」は、鎌倉殿(将軍…
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日本史の「タブー」01 天下人を脅した鬼作左

徳川家康(1543-1616年)の祖父・清康、次いでその子・広忠、さらには家康と 徳川家三代に仕えた譜代の臣・本多作左衛門重次(1529-1596年)は、特に 武勇に秀でたものがあったことから、「鬼作左」と綽名されたそうです。 その豪胆さは、戦時ばかりか平時においても遺憾なく発揮され、主君・家康 にも遠慮なく諫言した人物としても…
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日本史の「事始め」14 流人”第一号”の半世紀

苦労の末に手にした自らの権力を我が子・秀頼に継承させるべく心を砕いた 晩年の豊臣秀吉(1537-1598年)は、その政権運営を配下の有力武将、 いわゆる「五大老」にサポートさせる体制を整えました。 その「五大老」の中には徳川家康・前田利家・毛利輝元らに混じって、 秀吉に可愛がられて猶子となった武将「宇喜多秀家」(1572-165…
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日本史の「陰謀」20 確信犯?”殺生関白”を吹聴す

何が違うの?・・・大方はこのくらいの説明になっています。 摂政 → 天皇に代わって「政(まつりごと)を摂(と)る」       女性・幼年・病弱の天皇に代わって政務を執り行う。       いわば「天皇の代理人」で、政策決済権を有する。       関白 → 天下の万機を「関(あずか)り白(もう)す」       成人天皇…
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日本史の「トホホ」19 天下様ボランティアに走る

~とんでもないことを思いつき、後先を考えないでそれを実行   してしまう~ 人間にはそうした性癖があるのかもしれません。 このことは庶民に限らず、殿上人とか天下人とか呼ばれるような 身分の高い人でも例外ではないようです。 久方ぶりに政治の実権が天皇家に戻って、「建武の新政」 (1333-1336年)に取り組むことになった後…
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日本史の「列伝」11 居場所をなくした十代武将

以下が小早川秀秋(1582-1602年)のプロフィール。 ○羽柴(豊臣)秀吉(1537-1598年)の義理の甥として生まれる。   (奇しくも「本能寺の変」の年) ○秀吉の養子(1585年)になり、秀吉妻・おねに育てられる。 ○養父・秀吉に実子・秀頼(後継者)が誕生(1593年)すると、   命により、小早川隆景(1533…
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日本史の「列伝」07 二転三転!藤吉郎と筑前守

豊臣秀吉(1537-1598年)なる人物の名乗り?の変遷は、 一般的にはこのように理解されているようです。 ①木下藤吉郎秀吉/(1561年) おねとの結婚を機に ②羽柴藤吉郎秀吉/(1573年頃)「羽柴」の名字を名乗る ③羽柴筑前守秀吉/(1574年) 「官職名」を名乗る また別に、「姓」にも、   平秀吉/(1583年…
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日本史の「発明発見」10 ”地名改称”ゴマスリ音頭

地名は「言葉の化石」とも言われているそうですから、逆に 言えば、「地名改称」はその昔からあまり熱心に行なわれて こなかったということになります。 ひょっとしたら、先人達の 意識の中に、改称することに対しての宗教的または文化的な ある種のタブー感のようなものがあったのかも知れません。 ところが戦国の時代、織田信長が本拠?の地…
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日本史の「もしも」02 秀吉の四人?の息子たち

天下人・豊臣秀吉(1537-1598年)の没後、豊臣家は秀吉唯一の 男子・秀頼を後継者に立て、徳川家の圧力に抗し続けたが、 「大阪の陣」(1615年)において結局滅亡に至った・・・史実は こうなっています。 ではもしも、秀吉が複数の男子に恵まれていたとしたら、 豊臣家の天下はどうなっていたのでしょうか? ということで、こ…
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日本史の「女性」13 正室は知っていた!

今回のタイトルにドキッとされた方もあるかも知れませんが、 ここでは“そのこと”に触れませんので、どうぞご安心ください。 ここでいう“正室”とは、豊臣秀吉の奥サマ・おね(北政所・高台院)の ことであり、その彼女に触れるからには、もちろん“側室“である 淀殿にも登場を願うことになります。 さて、豊臣秀吉(1537-1598…
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日本史の「ツッパリ」10 五尺の体にみなぎる気迫

近世以前の日本の歴史とは、お隣りの超大国・中国に 呑み込まれてしまわないよう、細心の気配りを続けた先人達の 「汗と涙と虚勢(ツッパリ)の物語」でもありました。 よく知られたお話に、こんなのがあります。 ~日出ずる処の 天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや・・・~ 聖徳太子が隋(中国)・煬帝に宛てたこの国書の文言は、ま…
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日本史の「ツッパリ」09 ♪地球の上に朝が来る・・・

♪地球の上に朝が来る/その裏側は夜だろう/ 西の国ならヨーロッパ/東の国は東洋の・・・♪ ※「地球の上に朝が来る」作詞作曲:川田義雄(後:晴久に改名) 日本人が作ったものとしては珍しくスケールの大きな歌曲ですが この歌詞にあるように、西の国のヨーロッパという政治勢力を 東の国の東洋(日本)が意識せざるを得ない状況が、 既…
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日本史の「陰謀」08 超裏ワザ・超極秘作戦

若い頃から数えて総勢347人との女性と関係を結んだA氏は ただの一人として子供には恵まれなかったのですが、53歳の折、 その時点での最愛の女性・B女(21歳)がひょっこり懐妊すると いう局面を迎えたのです。 ところが、誕生したその子・Cクンはわずか3歳で早世し、ガックリ 肩を落としたA氏でしたが、ドッコイその四年後にはこの…
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日本史の「逆転」03 秀吉のシックス・センス

映画「シックス・センス」には、普通の人間にはない特殊な 能力を持った少年が登場しています。 日本史だって負けてはいられませんので、時折そんな 超能力者?もどきの人物を登場させていますが、多分、 豊臣秀吉(1537-1598年)もその種の一人と言えるのでは・・・    豊臣秀吉  …
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日本史の「トホホ」01 小幡城の消滅マジック

「小牧・長久手の戦い」(1584年)は、信長が「本能寺の変」 (1582年)で倒れたあとの「後継者決定戦?」の意味合いを もった秀吉軍VS家康軍の唯一の直接対決であり、その意味 では両者ともに決して負けることのできない戦いでした。 ところが、その重要な戦いの最中にありながら、ナント人も馬も 消滅するという、なんとも不思議な…
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日本史の「謎解き」07 塀の上を歩いた茶人

現代ですと「茶人」という言葉から文化人・芸術家を連想する人も 少なくないと思いますが、でも千利休が生きていた頃にはそのよう には見られていなかった気がするのです。 なぜ? それは利休が「切腹」させられているからです。 利休(1522-1591年)は現代の「茶道教室の先生」とは少しばかり 違う立場にいたようです。 そんならば…
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日本史の「お国自慢」02 尾張系日本人の体験

昔からよく指摘されることですが、名古屋の人間はお世辞込みで 言うなら「保守的」、お世辞抜きなら「閉鎖的」な一面を持っている そうです。 もし仮にその通りだとしたら、その背景にある涙なし では語れない尾張系日本人?の「歴史体験」にもぜひ注目を。 保守的であり閉鎖的な性格~これをマイナスに捉えるなら、 その責任は尾張系日本人の…
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日本史の「陰謀」03天下人の就職難

三成 「いきなり、良いアイデアを出せ、と言われましても・・・」 秀吉 「やっぱり、箔を付けておかんことには迫力に欠けるゾ」 天下を取った秀吉に一番欠けていたもの、それは「正当性」、 平たく言えば「有資格」だった。 つい最近まで下層出身者の 「出世ぶり」を売りにしてきたのだから、それがないのは当然だ。 この時代、強いだけでは…
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~木太刀と無念腹~

これも地元・愛知県でのお話である。 知多半島の割合先端に近い地域の伊勢湾側に面した場所に 野間 も 内海 もある。 生きた時代は異なるが、源義朝と織田信孝の二人の武将が この地で生涯を終えている。 二人の「死」は決して穏やかとは言えないものであった。 ご存知のように、鎌倉幕府の創始者・源頼朝の実父がこの 義朝である。…
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~太陽のコレクター~

これほど「太陽」にこだわりを持つ民族もそう多くないので はないだろうか。 まず、国の名前からして、「日本(日の本)」。太陽のことである。 国のシンボルである国旗が、「日の丸」。これも太陽である。 国中で一番エラい神様が、「天照大神(アマテラス)」で、 天から照らすのは、やっぱり「太陽」だ。 では、仏様の方はといえば、これがま…
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