日本史の「列伝」19 幕府終焉と幕閣たちの最期 たまたまのこと、こんな説明に遭遇しました。 ~明治維新とは、日本史における政治的革命~ 「政治的革命」とされているからには、そのものズバリの「政治革命」とは ちょっと違うニュアンスが含まれているのでしょう。 ほんなら、その「政治的革命」なる出来事をわざわざ「維新」と呼び換える 理由は? 探ってみると、 ~「維 (こ) れ… トラックバック:0 コメント:0 2022年05月30日 続きを読むread more
日本史の「事始め」24 見せなきゃコトは進まんゾ ひょんなことから、鉄道のことが話題になりました。 日本初は「いつ、どこだっかた」ということです。 しかしまあ、江戸幕府の時代に鉄道が開通していたとは思えませんから、 普通に考えれば「明治時代」ということになるでしょう。 またその場所も、鉄道唱歌~♪汽笛一声新橋を~と歌われているように おそらくは「新橋(東京)」が出発地だったの… トラックバック:0 コメント:0 2021年08月30日 続きを読むread more
日本史の「災難」16 幕末の同時多発逆転劇 黒船来航(1853年)から大政奉還(1867年)くらいまでの15~16年間ほどの 期間を一般的に「幕末」と呼んでいます。 普通に考えれば「江戸幕府の末期」という意味なのでしょうが、その有様は まさに「激動の幕末期」と呼ぶにふさわしい状況を呈しました。 それが一番よく分かるのは、絵に描いたような「逆転劇」がどこにも頻発 した… トラックバック:0 コメント:0 2020年12月20日 続きを読むread more
日本史の「言葉」31 朱子学じゃあ戦が出来ぬから 明治維新に大きな功績を果たした雄藩も実際にはそれぞれの事情を抱えて いました。 そうした事情は長州藩でも同様で、藩主・毛利敬親(1819-1871年)の下で、 改革派と保守派の2つの派閥が主導権を争っていました。 その各々の姿勢を追えば、改革派とは尊王攘夷・討幕派のことであり、 保守派とは幕府恭順派ということになります。 … トラックバック:0 コメント:0 2020年11月25日 続きを読むread more
日本史の「災難」16 幕末貧乏くじを背負い込む いわゆる「貧乏クジ」とは、平たく言えば「損な役回り」のことを意味し ますが、そういう役回り、あるいはそうした境遇に立った人物も歴史の中には 数多登場しています。 で、そういう「日本史の中の貧乏くじ」ということなら、筆者なぞにはすぐさま 松平容保の名が浮かんでくるところです。 こんな風に紹介されています。 ~松平容保(18… トラックバック:0 コメント:0 2020年10月30日 続きを読むread more
日本史の「付録」13 その前と後の75年づつ 本年は「終戦75年」という節目の年に当たりますが、それにふさわしい 式典を迎えることができませんでした。 もちろん、その原因は「新型コロナウイルス感染症」が拡散し続けていること です。 さて、その「戦後75年」によく似たイメージの言葉を、つい最近も耳にした ことを思い出しました。 「明治150年」です。 そこで、ヒマに任… トラックバック:0 コメント:0 2020年08月20日 続きを読むread more
日本史の「世界標準」27 誰が誰に?五箇条の御誓文 明治維新の経緯の説明では、「五箇条の御誓文」という言葉がよく登場します。 ~そう言えば、学校の授業でもそうだったなぁ~ この程度に無頓着な受け止めをしていた筆者ですが、ある日、 ヘソ曲がり系の友人がこんな疑問を投げかけたのです。 ~「五箇条の御誓文」って、いったい誰が誰に何を誓ったのだ?~ 五箇条の御誓文 虚を衝… トラックバック:0 コメント:0 2020年01月25日 続きを読むread more
日本史の「落胆」05 主君の悪口は言えない いわゆる幕末維新(1853-1869年)の折に、最も過激な思想・行動を示した のが外様大名・毛利家を藩主とする「長州藩」でした。 戦国時代に国人領主から戦国大名への脱皮を一代で成し遂げ、中国地方の 覇者となった毛利元就(1497-1571年)が同藩の始祖とされ、 その子孫が代々の藩主を受け継いできた御家です。 現にこの幕末… トラックバック:0 コメント:0 2019年09月30日 続きを読むread more
日本史の「付録」10 なにゆえ貴殿が国葬に? 幕末の推移が分かりにくいのは、たぶん劇的な事態急変と逆転が遠慮なく 登場することが原因の一つになっているのかもしれません。 たとえば、その幕末期に政局の安定と攘夷実行を目論んで、いわゆる 「公武合体」路線を強力に推し進めた孝明天皇(1831-1867年)が突然の 崩御に見舞われたことを受け、その後継に立った明治天皇は逆に開国・ … トラックバック:0 コメント:0 2019年01月05日 続きを読むread more
日本史の「タブー」08 そして誰もが頓挫した 日本の歴史にはなんとも不思議な現象もあって、たとえば「天皇」の存在 などもそれに当てはまるかもしれません。 それ以前には別の呼び方をしていたのでしょうが、たぶん7世紀くらいには 自分たちの最高権力者に、現在と同じ「天皇」の呼称を用いていたと 思われます。 ただ、希望者なら誰もが、「天皇」になれるというわけではありません。 … トラックバック:1 コメント:0 2018年09月10日 続きを読むread more
日本史の「デジャヴ」25 二度ある落城は三度ある ヘソ曲がり系の方々に念のためにお断わりしておきますが、ここでいう 「落城」とは~城が空から降って落ちてくる~ことではなく、オーソドックスに ~敵に城を攻め落とされること~の意味で使っています。 ほとんど「非日常」の光景とも言ってもいいこの「落城」を、実は生涯に 三度も体験している女性がいます。 もちろんそれは現代人ではあり… トラックバック:0 コメント:0 2018年07月15日 続きを読むread more
日本史の「アレンジ」18 拙者の名前も御維新いたす 実際には、この他にもその該当者?は大勢いますが、幕末維新の頃に 大いなる活動を見せた人物の中からピックアップしたこの四人の 「共通点」に気が付きますか? ○長州藩士・村田 蔵六 (むらた・ぞうろく /1824-1869年) ○福井藩士・三岡 八郎 (みつおか・はちろう /1829-1909年) ○長州藩士・桂 小五郎 (か… トラックバック:0 コメント:0 2018年05月25日 続きを読むread more
日本史の「冗談?」16 豪胆衝動買いに栄光あれ! 幕末に活躍した人物の一部については、その評価が分かれることもあります。 その行動を肯定的に捉えれば、間違いなく一種の「先駆者/功労者」という 評価になるものの、一面ではちょっとばかり首を傾げたくもなる行動も併せて 取っているということで、たとえば、幕末尊王攘夷の志士として一般的には 高い評価を得ている長州・高杉晋作(1839-1… トラックバック:0 コメント:0 2017年10月25日 続きを読むread more
日本史の「列伝」16 証文通りで何かご不審が? 現代社会で暮らすほとんどの人間には、社会通念として「公と私」という 観念上の境界線が存在しています。 ~「公」とは社会生活における自分(公人として)の立場であり、「私」とは 自分(私人として)のプライベートな生活~ ごく大雑把に捉えるならこんなところでしょうか。 この観念上の境界線を軽視・無視すると「公私混同」という… トラックバック:0 コメント:0 2017年10月10日 続きを読むread more
日本史の「謎解き」27 生身の神は意思を持つ 21世紀に入ってから、いわゆる「イスラム国(IS)」による活発な?行動をよく 耳にするようになりました。 いわゆる「テロ」行為です。 ところが現代日本人には、その「イスラム教」に平均的に縁が薄いことも あって、その宗教的・政治的な背景までには充分な理解が及んでいません。 概ねこんな程度の大雑把な理解が精一杯なところでしょう。 … トラックバック:0 コメント:0 2017年09月05日 続きを読むread more
日本史の「事始め」15 日本の国旗はどう決めたの? 白地の中央に太陽(日章)の赤丸をあしらった日章旗(日の丸)を、いつ 日本国の国旗と決めたの? 突然にこんな素朴な疑問をぶつけられたら、 多分即答できない人の方が多数派だと思われます。 仮に、「日の丸弁当」※のことなら多少の講釈はできるゾと、胸を張る 年配者がいたとしても、本家?国旗「日の丸」のケースともなれば、おそらく そ… トラックバック:0 コメント:0 2017年08月20日 続きを読むread more
日本史の「陰謀」22 歴史は勝者が作る・・・もの? ~歴史は勝者が作る~という言葉があります。 新たに支配者となった「勝者」が、自らを正義とした主張に沿って次の時代の 社会秩序が構築されていくことを思えば、確かに説得力のある言葉です。 たとえば、奈良時代に成立した日本最古の正史とされる「日本書紀」(720年) がいい例で、ここにある内容も最終的な勝者となった天武天皇(631?… トラックバック:0 コメント:2 2017年07月25日 続きを読むread more
日本史の「もしも」10 ビビった家康”薩摩”を安堵 薩摩国島津氏の「当主」?※島津義弘(1535-1619年)は屈指の猛将として 「鬼島津」の異名でも聞こえた人物で、殊に「関ヶ原の戦い」(1600年)で示した 度肝を抜く行動は敵味方双方の語り草になったほどです。 ※異説もあり 本番?「関ヶ原」本戦の前哨戦ともいうべき戦いに備えて、伏見城に籠城する (東軍)徳川方・鳥居元忠(1… トラックバック:1 コメント:0 2017年06月25日 続きを読むread more
日本史の「災難」06 ”先取り維新”は悔し涙から いわゆる「黒船来航」(1853年)より半世紀ほど前のこと、鎖国体制にあった 日本の長崎港にイギリス軍艦が突如侵入するという事件がありました。 その軍艦の名から「フェートン号事件」(1808年)と呼ばれています。 イギリス艦のくせに、「オランダ国旗」を掲げて入港するや、乱暴なことに、 出迎えたオランダ商館員を人質に取り、水や食… トラックバック:1 コメント:0 2017年06月10日 続きを読むread more
日本史の「冗談?」15 新政府は”借金清算”事業団? 現代なら莫大な借金を抱えて返済不能に陥った場合、普通は会社は「倒産」、 個人は「自己破産」に至ることで、一応の決着はつくものです。 では、これが江戸期の「藩」の場合だったらいったいどうなるものなのか? 実際、幕末期においてはそれこそ「莫大な借金」を抱え込んでいた諸藩も 少なくなく、俗にいう「薩摩藩77万石」もその仲間でした。… トラックバック:0 コメント:0 2017年05月10日 続きを読むread more
日本史の「陰謀」21 歴史用語はブランド志向? 多数の人物、あるいは出来事の中から、傑出した三人(三つ)を選んで、 「三○○」とか「三大××」との名称を付けて呼ぶことはさほど珍しいこと でもありません。 たとえば人物なら、「三英傑」※1や「維新の三傑」※2が そうですし、出来事なら「江戸幕府の三大改革」※3もその法則?に バッチリ当てはまっています。 ※1 織田信長・豊臣秀… トラックバック:0 コメント:0 2017年04月15日 続きを読むread more
日本史の「列伝」15 できるの?藩主の脱藩 その藩の籍から離れ、主従関係を解消する「脱藩」・・・この経験を持つ人物は 幕末に限っただけでも、すぐさま何人かの名を挙げることができます。 たとえば、長州藩士・吉田松陰(1830-1859年)は、我が目で東北の状況を 確かめるべく旅行を計画したものの、藩の許可発行が遅れたため、しびれを 切らして出発・・・これで脱藩。 また… トラックバック:0 コメント:2 2017年04月05日 続きを読むread more
日本史の「発明発見」16 地球一周!と徳川埋蔵金? 江戸幕府がまだ健在だった頃、すでに「地球一周」を成し遂げた 77人の侍たちがいました。 日米修好通商条約批准のために 米軍艦・ポーハタン号で、アメリカに派遣された「万延元年遣米 使節団」(1860年)の一行がそれです。 とはいうものの、現在ではこの時のポーハタン本隊の行動よりも その折に護衛の名目で派遣された「咸臨丸」の方… トラックバック:1 コメント:0 2017年03月25日 続きを読むread more
日本史の「言葉」23 恐ろしいものを二人見た 明治時代に入ってからのこと、元幕臣・勝海舟(1823-1899年)が こんな回想をしています。 ~おれは今までに天下で恐ろしいものを二人見た。 それは横井小楠と西郷南洲とだ~ この場合の「恐ろしい」 とは、「夜叉面もどきの怖い面構え」という意味ではなくて、多分 人物の「桁外れの大きさ」を言ったものだと思われます。 … トラックバック:0 コメント:0 2017年03月15日 続きを読むread more
日本史の「誤算」04 武士団スフィンクスに立つ あまり有名な出来事ではない(筆者の無知?)かもしれませんが、 1864年のこと、備中国(現:岡山県)井原領主・池田長発 (ながおき/当時28歳/1837-1879年)をリーダーとした34名からなる 「遣欧使節団」が幕末の日本を離れ、遠くフランスへ渡航した 事実があります。 これより2年ほど前の「文久遣欧使節」を第1回とするな… トラックバック:1 コメント:0 2017年02月15日 続きを読むread more
日本史の「災難」04 複雑系?四兄弟の幕末維新 いわゆる「幕末維新」のお話ですが、やや複雑系?の内容に なりますので、体調もしくは頭調が優れない方にはお奨め いたしておりません。 その点、悪しからずご了承ください。 さてその頃、現在の岐阜県海津市に当たる地域に「美濃国・ 高須藩」という3万石ほどの小さな藩がありました。 その藩主・松平義建(よしたつ/1800-1862年… トラックバック:1 コメント:0 2017年01月15日 続きを読むread more
日本史の「災難」03 ゆるネーム?”蛤御門の変” 幕末期、それまで共に御所の護衛に当たっていた長州藩は、 同僚?の会津藩・薩摩藩から、突如として締め出しを食らい、 京から追放される立場になりました。 いわゆる「八月十八日の政変」(文久3年/1863年)です。 仲間の裏切り?にあった長州藩は当然巻き返しを図り、これが 翌年の「禁門の変」(1864年)と呼ばれる軍事行動でした… トラックバック:0 コメント:0 2016年11月10日 続きを読むread more
日本史の「デジャヴ」18 幕末”御預浪士”の正義 名刺からはみ出してしまいそうな、この長ったらしい名乗りが 「新選(撰)組」の正式な名称です。 ~京都守護職/会津藩松平肥後守容保※中将/御預浪士/ 新選(撰)組~ (前身は壬生浪士組) ※松平容保(1836-1893年) 幕臣(旗本・御家人)で構成された正規(公的)の組織である 「京都見廻組」とは異なり、こちらは浪士… トラックバック:0 コメント:0 2016年08月10日 続きを読むread more
日本史の「事始め」10 明治超高層の紆余曲折 中ほどの各階には物品販売店が並び、上階は展望室という 間取りで、浅草公園に建築(1890年/明治23年)された当時日本一 の高さを誇る建物(高さ52M/12階建)は、「雲を凌ぐほど高い」と いう形容から「凌雲閣」(りょううんかく)と命名され、別に分かり やすい「浅草十二階」の愛称でも親しまれました。 ※八角形の建物で10階ま… トラックバック:0 コメント:0 2016年07月15日 続きを読むread more
日本史の「言葉」21 幕末志士の日本史読本 歴史書は大きく「正史」と「外史」に分類されます。 この言葉を素直に受け止めるなら、「正史」とは「正しい歴史」を 意味し、これとは別に「外史」という言葉があるのなら、こちらの 方は「正しい歴史」以外の、まあ「歴史エピソード」ほどのものか と解釈したくなるところです。 ところが、実際にはこんな定義になっています。 正史~国家… トラックバック:0 コメント:0 2016年05月25日 続きを読むread more