テーマ:徳川家康

日本史の「大雑把」03 昔年齢をイメージする

「関ヶ原の戦い」(1600年)に勝利し、戦国乱世の最終勝者となったのは 豊臣政権五大老の一人である徳川家康(1543-1616年)でした。 その数年後には自らが征夷大将軍に就き「江戸幕府」を創立していますから、 家康はこの時点で事実上天下を掌握したことになります。 そうした家康に対して、数多の大名は抵抗姿勢を改め、そのことに…
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日本史の「発明発見」23 小牧山城から天下を見渡す

筆者の生息地・名古屋から車で30分ほどの「小牧(市)」。 用事を早めに済ませ、空いた時間を「小牧山」探訪に充てたのが、数日前 (2019・04・27土曜)の午前のことでした。 割合近いエリアでありながら、ここを訪れたことがないという事実に、ふと 気が付いたからです。 「歴史好き」あるいは「お城好き」の皆様には、この「小牧山…
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日本史の「微妙」10 勝者は看板づくりに精を出す

筆者の生息地・尾張名古屋では、戦国時代に華々しい活躍を見せた 織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の御三方を、その死後数百年経った現在でも 「郷土の三英傑」と呼んで称えています。 ちょっと補足しておくと、こんな案配になります。 織田信長(1534-1582年/尾張国)「室町幕府」に事実上の終止符を打った。 豊臣秀吉(1537-15…
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日本史の「付録」09 頭のテッペンに祖法あり

ものごとを比較するのび、世界の、あるいは日本の「三(大)○○」という 表現がよく使われます。 筆者の生息地・名古屋辺りでいうなら、たとえば 「郷土の三英傑」※とか「徳川御三家」※という表現などがそれに該当します。 ※織田信長(出身:尾張)/豊臣秀吉(出身:尾張)/徳川家康(出身:三河) ※尾張徳川家(家祖:家康 9男・義直/6…
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日本史の「陰謀」26 誘惑されて棄てられて

「豊臣秀吉の子飼いの家臣」といえば、まあ大抵は福島正則(1561-1624年)や 加藤清正(1562-1611年)あたりの顔が浮かぶものです。 もっとも、筆者の場合は直接にお会いしたことがないこともあって、むしろ 「(顔より)名が浮かぶ」と表現した方が適切かもしれません。 じつはこの二人の主家・豊臣家に対する忠誠心は主君・秀…
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日本史の「信仰」12 信心かぶれはどれもアブナイ

戦国乱世の最終勝者となった徳川家康(1543-1616年)は、何度か信仰 がらみの事件に遭遇しています。 領国・三河国で起きた「三河一向一揆」(1563-1564年)もその一つで、 一揆衆側に味方する家臣も決して少なくはなかったこの時は、当の家康自身 が「命の危機」に晒されたほどでした。 まさにチビる思い・・・いやホントは少し…
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日本史の「トホホ」26 京の大仏様にツキはない

日本の場合、「大仏」サマと言えば、まあ普通には 「奈良の大仏」(東大寺廬舎那仏仏像/752年開眼)か、あるいは 「鎌倉の大仏」(高徳院阿弥陀如来像/開基時期不明)あたりを、 イメージするものと思われます。 では、この他に大仏サマがないかのと言えば、実は「さにあらず」で、 古い時代に限っても、たとえば方広寺には「京の大仏」(毘廬…
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日本史の「謎解き」28 民族DNAは競争を嫌う?

戦国の世の最終勝者となり、その後に江戸幕府を創立した徳川家康 (1543-1616年)は、幕府の公式学問として「朱子学」を採用しました。 もともとは「孔子」(前552-前479年)が始めた「儒教」を、千数百年も後に なって南宋の「朱熹」(1130-1200年)が再構築したものが、この「朱子学」で あり、これはまた「新儒教」ともい…
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日本史の「微妙」07 会議は”根回し”にあり!

現代日本人には、議論をぶつけ合う形になる「会議」自体をあまり好まず、 むしろそれよりは事前の“根回し”という手続きの方に、より重点を置く習性が あるように感じられます。 根回し”という事前調整?を駆使することによって、本番の白熱議論を 避けておく方が仲間集団の和を保つためには無難とする意識でしょうか。 しかし、こうした「根…
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日本史の「陰謀」24 家康の朝廷封じ込め作戦

戦国の世の最終勝者となった徳川家康(1543-1616年)は、その権力機構 である「幕府」(1603年)を江戸に置きました。 そこでちょっと気になるのは、家康がその「江戸」という地名をそのまま 使い続けたという事実です。 平安時代末期の頃にはすでに「江戸」という地名はあったとされていますが、 これは「穢土」にも通じる響きがあっ…
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日本史の「誤算」07 我が死は三年間秘すべし

自領に迫った甲斐・武田信玄(1521-1573年)軍。 これを阻止すべく、 徳川家康(1543-1616年)が、屈強な自前の軍団「三河武士団」及び 織田信長(1534-1582年)軍との「連合軍」を率いて挑んだのが、 いわゆる「三方ヶ原の戦い」(1573年/現:静岡県浜松市)でした。 ところが、武田軍は圧倒的に強く、徳川織田「連…
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日本史の「言葉」25 長い物には巻かれよ 戦国版

~勢力・権力のある者には逆らわないほうが身のためであるゾ~ こうした意味の助言・忠告の格言が、~長い物には巻かれよ~ なかなかに説得力のある言葉ですが、幸いなことに、長い歴史の中には、 この言葉を彷彿とさせる出来事を見つけることができます。 ここでは戦国乱世における一例を取り上げてみますが、この場合の 「勢力・権力のある者…
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日本史の「誤算」06 ”盛者必衰”家康の回避方程式

隣国の遠江・駿河を治める大大名・今川義元(1519-1560年)に屈する形で 人質生活を送ったのが、後に徳川家康(1543-1616年)と名乗ることになる 若き日の松平元康でした。 当主・元康自身が人質境遇ですから、その家臣達はほとんど奴隷?の扱いを 受け、そればかりか自領・三河は今川家の植民地?もどきの状況にあったと いうこ…
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日本史の「もしも」10 ビビった家康”薩摩”を安堵

薩摩国島津氏の「当主」?※島津義弘(1535-1619年)は屈指の猛将として 「鬼島津」の異名でも聞こえた人物で、殊に「関ヶ原の戦い」(1600年)で示した 度肝を抜く行動は敵味方双方の語り草になったほどです。 ※異説もあり 本番?「関ヶ原」本戦の前哨戦ともいうべき戦いに備えて、伏見城に籠城する (東軍)徳川方・鳥居元忠(1…
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日本史の「トホホ」23 家康の英断!集団高台移転

筆者の生息地・名古屋市が自ら行ったアンケート調査の結果は・・・全国主要 都市の中で「魅力に欠ける街」、もっと直截な表現なら、「行きたいと思わない し、住民もお薦めできない街」としてトップ、すなわち魅力の順番ではダントツ の「ドベ」(名古屋弁で最下位/ビリ/ワースト1/テールエンドの意味)・・・ この現実はトホホとしか言いよう…
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日本史の「タブー」01 天下人を脅した鬼作左

徳川家康(1543-1616年)の祖父・清康、次いでその子・広忠、さらには家康と 徳川家三代に仕えた譜代の臣・本多作左衛門重次(1529-1596年)は、特に 武勇に秀でたものがあったことから、「鬼作左」と綽名されたそうです。 その豪胆さは、戦時ばかりか平時においても遺憾なく発揮され、主君・家康 にも遠慮なく諫言した人物としても…
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日本史の「逆転」20 戦国冤罪?家康側の証人

織田信長(1534-1582年)から偏諱の「信」の字を、また下の字「康」 を父・徳川家康(1543-1616年)から与えられたのが、後に「切腹」 に追い込まれることになる家康嫡男・松平信康※(1559-1579年/ 生前は徳川姓)です。 通説によれば、その「切腹」の発端は信康正室・徳姫(1559- 1636年)が父・信長に…
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日本史の「逆転」19 金と銀に見る三英傑の遺伝子?

金貨と銀貨/金メダルと銀メダル/金婚式と銀婚式、これらを 比べてみると、いずれの場合も「金」の方が「銀」より立派、 あるいは格上というイメージになっています。 では「金庫」と「銀行」、この場合はどうだ? その実態や法律的な定義はよく知りませんが、個人的には、 扱う資金も営業エリアも「(信用)金庫」より「銀行」の方が 大規…
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日本史の「怪人」13 通説見直し?冬峰踏破の怪

「さらさら越え」・・・初めてこの言葉に触れたときには、 なにかしら「ハイキング」に似たイメージを持ったものです。 「さらさら」という優しい響きと「越え」という弾んだ言葉が こんな歌のイメージに結びついていたのかもしれません。  ♪丘を越えて/行こうよ/真澄の空は/朗らかに・・・ ※「丘を越えて」作詞:島田芳文/作曲:古賀政…
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日本史の「逆転」18 ”夏の陣”二人の影武者

「徳川家康」(1543-1616年)には、その人生の「三大危機」として 語られている出来事があります。 念のために言えば、その窮地を切り抜けたからこそ、結果と しての「危機」だったわけで、切り抜けられなかったとしたら、 これは単に「一巻の終わり」と呼ばれたことでしょう。 その「三大危機」とは、時代順に以下の通り。 1) …
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日本史の「油断」03 英傑トリオの本願寺介入

数年前に750回忌大法要を迎えた宗祖・親鸞(1173-1263年)さんも、 ひょっとしたら、その後の「本願寺」の在り方には幾分首を ひねっておられるかも知れません・・・~なんでこうなったの?~ それは「本願寺」※と名乗るお寺が京都に二つ、それも割合近い 場所にあることです。 ※いずれも京都市下京区 その上に、つい最近まで両…
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日本史の「忘れ物」20 能はマルだが芝居はペケだ

現代での人気度を比べるなら、「歌舞伎」の方が「能」よりは いささか上という雰囲気を感じます。 ところが少し前の時代だと、これが逆になる印象で、実際 江戸幕府が「式楽」※として採用していたのは「歌舞伎」ではなく、 「能」の方でした。 もちろんそこには伝統ある「能」に対し、駆け出しの「歌舞伎」と いう大きなハンディもあったのでし…
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日本史の「言葉」17 下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる

豊臣家と徳川家の対峙は、このような経緯を辿りました。 ○1598年 「豊臣秀吉」(1537-1598年)の死去 ○1600年 「関が原の戦い」 名目は豊臣家の逆賊を成敗 ○1603年 「江戸幕府」を開く 初代将軍・徳川家康 ○1605年 「家康隠居(大御所に)」 息子・秀忠が「2代将軍」に ○1614年 「方広寺鐘銘事件」 徳…
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日本史の「発明発見」07 動機?トラウマです!

生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされれば、誰だってチビる思い を味わうのは当然です。 現に、何度となく戦さを体験してきた徳川家康(1543-1616年)で さえ、あの有名な「しかみ像」を残くらいのものですからネ。 「三方ケ原の戦い」(1573年)で武田信玄軍に大敗し、自身も 落命寸前まで追い詰められた家康は、浜松城に帰還するや…
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日本史の「トホホ」11 情けは怨みと復讐に

平清盛(1118-1181年)は、「平治の乱」(1159年)で長年のライバル・ 源義朝(1123-1160年)を倒し、この時点で義朝の遺児、頼朝・ 義経兄弟をも手中にしたのですから、当時の常識からすれば、 この両人を早々に「殺して」おくべきところでした。 なぜなら、今は若く幼なくとも、十年もすれば青年に成長し、 ひょっこり…
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日本史の「謎解き」10 ”外様”はなぜ石高が多い?

江戸時代の大名に関して、こんな疑問を持ったことは ありませんか? ~外様大名に対して高い石高を認めているのはなぜ?~ この親藩・譜代・外様を少し整理してみるとこんな感じでしょうか? 親藩は、徳川家の一門、つまりはご親戚筋。 譜代は、関ヶ原以前からの味方で、つまりは系列会社? 外様は、関ヶ原以降に従属した大名で、つまりは当…
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日本史の「逆転」03 秀吉のシックス・センス

映画「シックス・センス」には、普通の人間にはない特殊な 能力を持った少年が登場しています。 日本史だって負けてはいられませんので、時折そんな 超能力者?もどきの人物を登場させていますが、多分、 豊臣秀吉(1537-1598年)もその種の一人と言えるのでは・・・    豊臣秀吉  …
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日本史の「トホホ」01 小幡城の消滅マジック

「小牧・長久手の戦い」(1584年)は、信長が「本能寺の変」 (1582年)で倒れたあとの「後継者決定戦?」の意味合いを もった秀吉軍VS家康軍の唯一の直接対決であり、その意味 では両者ともに決して負けることのできない戦いでした。 ところが、その重要な戦いの最中にありながら、ナント人も馬も 消滅するという、なんとも不思議な…
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日本史の「謎解き」07 塀の上を歩いた茶人

現代ですと「茶人」という言葉から文化人・芸術家を連想する人も 少なくないと思いますが、でも千利休が生きていた頃にはそのよう には見られていなかった気がするのです。 なぜ? それは利休が「切腹」させられているからです。 利休(1522-1591年)は現代の「茶道教室の先生」とは少しばかり 違う立場にいたようです。 そんならば…
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日本史の「女性」02お江の将軍構想

お江「では、義父上様は兄・家光と弟・忠長のどちらの方が    優秀だとお考えなのですか?」 家康「それは忠長の方であろうよ」 お江「それがお分かりになっていながら、わざわざ優秀でない    方の家光を次期将軍にしようなんて、信じられない!」 家康「そうではないゾ。兄である家光の方がふさわしい、    と言っておるのだ」 お…
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