テーマ:徳川家康

日本史の「事始め」21 鉛筆は鉄砲より強しか?

江戸時代を舞台にしたTV時代劇の劇中に登場した文字を書くシーンでは、 筆記ツールとして毛筆が使われていました。 その数日後、今度は幕末維新を描いたTVドラマです。 ここにも同様のシーンが登場しましたが、筆記ツールはやはり毛筆でした。 さて、こんなプチ体験から、個人的にちょっとした素朴な疑問を持つことに なりました。 ~す…
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日本史の「怪人」22 史実彷徨さらさら越え

本格的な登山シーズンを迎えながらコロナ禍の影響で出かけられないアル ピニストも多かろうという配慮からでしょうか、筆者の生息地(名古屋)の 地元紙・中日新聞(2020・6・5/朝刊)が史的伝説「さらさら越え」を取り 上げました。 歴史好きには少しは知られたお話です。 その見出しには~佐々成政 真冬の北アルプス踏破伝説~とあり、…
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日本史の「油断」11 乱世終えたら麒麟がくる

最終回まで一年の長丁場という理由もあって、大河ドラマにはこれまで あまり関心を寄せていませんでした。 ところが本年は放送直前に主要配役の一人を演じる女優さんの不祥事、さらに その後には新型コロナウイルスの影響などがあって、何かとその行方に注目 させられました。 そこで、ついでのことに今回、その大河ドラマ「麒麟がくる」の主人…
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日本史の「トホホ」30 人望なくば戦も勝てず

~とりわけ有能な官僚だが、武将としては戦下手~ 戦国時代の武将・石田三成(1560-1600年)に対する現代人の平均的な評価は 概ねのところこのあたりに落ち着きそうです。 戦争戦闘の類が得意ではなかったのは確かなようで、そのことは実質的な 大将デビュー戦となった「忍城の戦い」(1590年)でも例外ではありません でした。 …
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日本史の「列伝」13 戦国諜報員は悠々自適

「本能寺の変」(1582年)によって、織田家は絶対的な権力を有していた 織田信長(1534-1582年)と、その後継であった嫡男・信忠(1557-1582年) を一挙に失ってしまいました。 ではこの後の織田家をいったい誰が継承したらよいものか?   織田信雄 家臣団の挙げた候補者は信長次男・信雄(1558-1630年)…
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日本史の「発明発見」25 神の座へ三英傑の三段跳

筆者の生息地・愛知県では、戦国の天下を動かした下記の武将トリオを 「郷土の三英傑」として称えています。 尾張・織田信長(1534-1582年) 革新政策/関所撤廃・楽市楽座など 尾張・豊臣秀吉(1537-1598年) 集権体制/貨幣統一・兵農分離など 三河・徳川家康(1543-1616年) 幕府創立/天下統一・武家諸法度など …
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日本史の「大雑把」03 昔年齢をイメージする

「関ヶ原の戦い」(1600年)に勝利し、戦国乱世の最終勝者となったのは 豊臣政権五大老の一人である徳川家康(1543-1616年)でした。 その数年後には自らが征夷大将軍に就き「江戸幕府」を創立していますから、 家康はこの時点で事実上天下を掌握したことになります。 そうした家康に対して、数多の大名は抵抗姿勢を改め、そのことに…
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日本史の「発明発見」23 小牧山城から天下を見渡す

筆者の生息地・名古屋から車で30分ほどの「小牧(市)」。 用事を早めに済ませ、空いた時間を「小牧山」探訪に充てたのが、数日前 (2019・04・27土曜)の午前のことでした。 割合近いエリアでありながら、ここを訪れたことがないという事実に、ふと 気が付いたからです。 「歴史好き」あるいは「お城好き」の皆様には、この「小牧山…
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日本史の「微妙」10 勝者は看板づくりに精を出す

筆者の生息地・尾張名古屋では、戦国時代に華々しい活躍を見せた 織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の御三方を、その死後数百年経った現在でも 「郷土の三英傑」と呼んで称えています。 ちょっと補足しておくと、こんな案配になります。 織田信長(1534-1582年/尾張国)「室町幕府」に事実上の終止符を打った。 豊臣秀吉(1537-15…
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日本史の「付録」09 頭のテッペンに祖法あり

ものごとを比較するのび、世界の、あるいは日本の「三(大)○○」という 表現がよく使われます。 筆者の生息地・名古屋辺りでいうなら、たとえば 「郷土の三英傑」※とか「徳川御三家」※という表現などがそれに該当します。 ※織田信長(出身:尾張)/豊臣秀吉(出身:尾張)/徳川家康(出身:三河) ※尾張徳川家(家祖:家康 9男・義直/6…
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日本史の「陰謀」26 誘惑されて棄てられて

「豊臣秀吉の子飼いの家臣」といえば、まあ大抵は福島正則(1561-1624年)や 加藤清正(1562-1611年)あたりの顔が浮かぶものです。 もっとも、筆者の場合は直接にお会いしたことがないこともあって、むしろ 「(顔より)名が浮かぶ」と表現した方が適切かもしれません。 じつはこの二人の主家・豊臣家に対する忠誠心は主君・秀…
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日本史の「信仰」12 信心かぶれはどれもアブナイ

戦国乱世の最終勝者となった徳川家康(1543-1616年)は、何度か信仰 がらみの事件に遭遇しています。 領国・三河国で起きた「三河一向一揆」(1563-1564年)もその一つで、 一揆衆側に味方する家臣も決して少なくはなかったこの時は、当の家康自身 が「命の危機」に晒されたほどでした。 まさにチビる思い・・・いやホントは少し…
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日本史の「トホホ」26 京の大仏様にツキはない

日本の場合、「大仏」サマと言えば、まあ普通には 「奈良の大仏」(東大寺廬舎那仏仏像/752年開眼)か、あるいは 「鎌倉の大仏」(高徳院阿弥陀如来像/開基時期不明)あたりを、 イメージするものと思われます。 では、この他に大仏サマがないかのと言えば、実は「さにあらず」で、 古い時代に限っても、たとえば方広寺には「京の大仏」(毘廬…
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日本史の「謎解き」28 民族DNAは競争を嫌う?

戦国の世の最終勝者となり、その後に江戸幕府を創立した徳川家康 (1543-1616年)は、幕府の公式学問として「朱子学」を採用しました。 もともとは「孔子」(前552-前479年)が始めた「儒教」を、千数百年も後に なって南宋の「朱熹」(1130-1200年)が再構築したものが、この「朱子学」で あり、これはまた「新儒教」ともい…
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日本史の「微妙」07 会議は”根回し”にあり!

現代日本人には、議論をぶつけ合う形になる「会議」自体をあまり好まず、 むしろそれよりは事前の“根回し”という手続きの方に、より重点を置く習性が あるように感じられます。 根回し”という事前調整?を駆使することによって、本番の白熱議論を 避けておく方が仲間集団の和を保つためには無難とする意識でしょうか。 しかし、こうした「根…
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日本史の「陰謀」24 家康の朝廷封じ込め作戦

戦国の世の最終勝者となった徳川家康(1543-1616年)は、その権力機構 である「幕府」(1603年)を江戸に置きました。 そこでちょっと気になるのは、家康がその「江戸」という地名をそのまま 使い続けたという事実です。 平安時代末期の頃にはすでに「江戸」という地名はあったとされていますが、 これは「穢土」にも通じる響きがあっ…
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日本史の「誤算」07 我が死は三年間秘すべし

自領に迫った甲斐・武田信玄(1521-1573年)軍。 これを阻止すべく、 徳川家康(1543-1616年)が、屈強な自前の軍団「三河武士団」及び 織田信長(1534-1582年)軍との「連合軍」を率いて挑んだのが、 いわゆる「三方ヶ原の戦い」(1573年/現:静岡県浜松市)でした。 ところが、武田軍は圧倒的に強く、徳川織田「連…
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日本史の「言葉」25 長い物には巻かれよ 戦国版

~勢力・権力のある者には逆らわないほうが身のためであるゾ~ こうした意味の助言・忠告の格言が、~長い物には巻かれよ~ なかなかに説得力のある言葉ですが、幸いなことに、長い歴史の中には、 この言葉を彷彿とさせる出来事を見つけることができます。 ここでは戦国乱世における一例を取り上げてみますが、この場合の 「勢力・権力のある者…
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日本史の「誤算」06 ”盛者必衰”家康の回避方程式

隣国の遠江・駿河を治める大大名・今川義元(1519-1560年)に屈する形で 人質生活を送ったのが、後に徳川家康(1543-1616年)と名乗ることになる 若き日の松平元康でした。 当主・元康自身が人質境遇ですから、その家臣達はほとんど奴隷?の扱いを 受け、そればかりか自領・三河は今川家の植民地?もどきの状況にあったと いうこ…
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日本史の「もしも」10 ビビった家康”薩摩”を安堵

薩摩国島津氏の「当主」?※島津義弘(1535-1619年)は屈指の猛将として 「鬼島津」の異名でも聞こえた人物で、殊に「関ヶ原の戦い」(1600年)で示した 度肝を抜く行動は敵味方双方の語り草になったほどです。 ※異説もあり 本番?「関ヶ原」本戦の前哨戦ともいうべき戦いに備えて、伏見城に籠城する (東軍)徳川方・鳥居元忠(1…
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日本史の「トホホ」23 家康の英断!集団高台移転

筆者の生息地・名古屋市が自ら行ったアンケート調査の結果は・・・全国主要 都市の中で「魅力に欠ける街」、もっと直截な表現なら、「行きたいと思わない し、住民もお薦めできない街」としてトップ、すなわち魅力の順番ではダントツ の「ドベ」(名古屋弁で最下位/ビリ/ワースト1/テールエンドの意味)・・・ この現実はトホホとしか言いよう…
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日本史の「タブー」01 天下人を脅した鬼作左

徳川家康(1543-1616年)の祖父・清康、次いでその子・広忠、さらには家康と 徳川家三代に仕えた譜代の臣・本多作左衛門重次(1529-1596年)は、特に 武勇に秀でたものがあったことから、「鬼作左」と綽名されたそうです。 その豪胆さは、戦時ばかりか平時においても遺憾なく発揮され、主君・家康 にも遠慮なく諫言した人物としても…
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日本史の「逆転」20 戦国冤罪?家康側の証人

織田信長(1534-1582年)から偏諱の「信」の字を、また下の字「康」 を父・徳川家康(1543-1616年)から与えられたのが、後に「切腹」 に追い込まれることになる家康嫡男・松平信康※(1559-1579年/ 生前は徳川姓)です。 通説によれば、その「切腹」の発端は信康正室・徳姫(1559- 1636年)が父・信長に…
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日本史の「逆転」19 金と銀に見る三英傑の遺伝子?

金貨と銀貨/金メダルと銀メダル/金婚式と銀婚式、これらを 比べてみると、いずれの場合も「金」の方が「銀」より立派、 あるいは格上というイメージになっています。 では「金庫」と「銀行」、この場合はどうだ? その実態や法律的な定義はよく知りませんが、個人的には、 扱う資金も営業エリアも「(信用)金庫」より「銀行」の方が 大規…
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日本史の「怪人」13 通説見直し?冬峰踏破の怪

「さらさら越え」・・・初めてこの言葉に触れたときには、 なにかしら「ハイキング」に似たイメージを持ったものです。 「さらさら」という優しい響きと「越え」という弾んだ言葉が こんな歌のイメージに結びついていたのかもしれません。  ♪丘を越えて/行こうよ/真澄の空は/朗らかに・・・ ※「丘を越えて」作詞:島田芳文/作曲:古賀政…
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日本史の「逆転」18 ”夏の陣”二人の影武者

「徳川家康」(1543-1616年)には、その人生の「三大危機」として 語られている出来事があります。 念のために言えば、その窮地を切り抜けたからこそ、結果と しての「危機」だったわけで、切り抜けられなかったとしたら、 これは単に「一巻の終わり」と呼ばれたことでしょう。 その「三大危機」とは、時代順に以下の通り。 1) …
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日本史の「油断」03 英傑トリオの本願寺介入

数年前に750回忌大法要を迎えた宗祖・親鸞(1173-1263年)さんも、 ひょっとしたら、その後の「本願寺」の在り方には幾分首を ひねっておられるかも知れません・・・~なんでこうなったの?~ それは「本願寺」※と名乗るお寺が京都に二つ、それも割合近い 場所にあることです。 ※いずれも京都市下京区 その上に、つい最近まで両…
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日本史の「忘れ物」20 能はマルだが芝居はペケだ

現代での人気度を比べるなら、「歌舞伎」の方が「能」よりは いささか上という雰囲気を感じます。 ところが少し前の時代だと、これが逆になる印象で、実際 江戸幕府が「式楽」※として採用していたのは「歌舞伎」ではなく、 「能」の方でした。 もちろんそこには伝統ある「能」に対し、駆け出しの「歌舞伎」と いう大きなハンディもあったのでし…
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日本史の「言葉」17 下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる

豊臣家と徳川家の対峙は、このような経緯を辿りました。 ○1598年 「豊臣秀吉」(1537-1598年)の死去 ○1600年 「関が原の戦い」 名目は豊臣家の逆賊を成敗 ○1603年 「江戸幕府」を開く 初代将軍・徳川家康 ○1605年 「家康隠居(大御所に)」 息子・秀忠が「2代将軍」に ○1614年 「方広寺鐘銘事件」 徳…
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日本史の「発明発見」07 動機?トラウマです!

生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされれば、誰だってチビる思い を味わうのは当然です。 現に、何度となく戦さを体験してきた徳川家康(1543-1616年)で さえ、あの有名な「しかみ像」を残くらいのものですからネ。 「三方ケ原の戦い」(1573年)で武田信玄軍に大敗し、自身も 落命寸前まで追い詰められた家康は、浜松城に帰還するや…
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