テーマ:源頼朝

日本史の「デジャヴ」26 幕府は武士たちの公民権

黒人に対する有権者登録の妨害に抗議するために立ち上がった600人の デモ隊に対し、それを断固阻止すると宣言した白人(アラバマ州)知事が、 催涙ガスや武器を使って容赦の無い武力鎮圧に及んだ事件が、1965年3月 7日の日曜日のいわゆる「血の日曜日(Bloody Sunday)」とも呼ばれた 出来事でした。 デモの指導者は前年…
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日本史の「タブー」06 かくして御家は滅亡する

平清盛(1118-1181年)を頂点として朝廷を凌ぐほどの栄華を誇った 平家一門の隆盛ぶりを、同門にあった平時忠はこう評したそうです。 ~一門にあらざらん者はみな人非人なるべし~ (現代言葉に直した~平氏にあらずんば人にあらず~が有名) ところが、一時期はこの言葉の通りに飛ぶ鳥を落とす勢いを示していた 平家も、この少し後に…
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日本史の「油断」08 鎌倉殿暗殺事情三代記

源頼朝が創立したいわゆる「鎌倉幕府」・・・そのトップである「鎌倉殿」の (征夷大将軍)の座には、当初の間頼朝とその息子達が就きました。 これは血統を重視した方法ですが、よほど日本人の感性にフィットして いたものか、後の室町幕府(1336-1573年)も江戸幕府(1603-1868年)も 踏襲しています。 ただ鎌倉幕府については、…
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日本史の「トホホ」11 情けは怨みと復讐に

平清盛(1118-1181年)は、「平治の乱」(1159年)で長年のライバル・ 源義朝(1123-1160年)を倒し、この時点で義朝の遺児、頼朝・ 義経兄弟をも手中にしたのですから、当時の常識からすれば、 この両人を早々に「殺して」おくべきところでした。 なぜなら、今は若く幼なくとも、十年もすれば青年に成長し、 ひょっこり…
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日本史の「忘れ物」17 義経の常識のかけら

その多くはドラマなどで創られたものでしょうが、現代人が 抱く平均的な源義経(1159-1186年)のイメージといえば・・・ 頭も良くイケメン、かつ天才的な武将、さらには運動神経も 抜群で、その上に悲劇性も漂わせた超スーパーヒーロー・・・ こんなところでしょうか。 決してこの「イケメン」という部分にこだわるわけではありません…
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日本史の「デジャヴ」07 潰された”源氏返り咲き”

「源氏」や「平氏」は、この頃の朝廷側から見れば、 十把一絡げの「穢れた武士」ということになりますが、 そのご先祖を辿るなら、実は「天皇家」の出身です。 そんな微妙な立場にあった中で、「平氏」の平清盛(1118- 1181年)が、平安末期に「ウルトラC級」(古い!)の離れ技を 披露したことがあります。 自分の娘(徳子)を天…
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日本史の「デジャヴ」03 暗殺疑惑編

どちらも「暗殺」だったと受け止めた方がお話のスジが通る気も するのですが、公式にはどちらも「そうではない」ことになって いますので「疑惑」という言葉をつけ加えています。 その暗殺?の犠牲者は天智天皇と源頼朝です。 もし「暗殺」だとしたら、プンプン臭う「容疑者」がいるという点、 また、その「動機」とみなせるハッキリとした「政…
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日本史の「女性」05 幼な姫のトラウマ

亡くなったのは二十歳、現在の数え方なら十九歳です。 父は源頼朝、母は北条政子、その長女・大姫の二十歳の死の 責任は、父親・頼朝が負うべきかもしれません。 それは、こういうことです。 「源氏」の中での主導権争い、頼朝は木曾義仲(頼朝のイトコ)と 対立していましたが、1183年に至って義仲は嫡男・義高を人質 として頼朝に差し…
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日本史の「迷宮入り」02 黄金ネコババ事件

よく知られた「史実」の中にも、何かしら忘れ物をしたような感じの 「出来事」があります。たとえば、「AとBが・・・」の部分で切れて しまって、この後が何なのか不明なままの感じ。 で、AとBが一体どうしたのだ! 「転んだのか?それとも豆腐でも 食っていたのか?」 実際、こう叫びたくなってしまいます。  奥州藤原氏三代 出展:wik…
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日本史の「女性」01禅尼の動機

平清盛は敵軍大将・源義朝の息子である源頼朝を捕らえた。 このとき頼朝13歳、数年後には青年に達する年齢である。 であれば、将来の禍根を残さないためにも、即「始末」しておく のがこの時代の常識だ。だが、頼朝は殺されなかった。 ~頼朝・誕生の地~  出展: -名古屋を探検する-<え~なも探偵団> いったい、な…
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「歴史の宝庫」散歩コース

拙宅から散歩セカセカ15分のところに「熱田神宮」がある。 この熱田神宮周辺は、実は「日本史」の宝庫なのだ。 あまり自慢するのも嫌味になるから、そこはぐっとこらえて 控え目なご紹介に留めておこう。 その熱田神宮境内で一番大きな楠の木は、なんと日本武尊 (ヤマトタケル)のお手植え、ということになっている。 少しは驚く方もあろ…
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~捜索の代償~

源氏は「三種の神器」を、平家(安徳天皇)から奪い返す必要が あった。 これを手に入れることで、後鳥羽も「神器無き天皇」の 汚名をそそぐ゙ことができ、その正当性を主張できるからである。 その意味で、壇ノ浦の戦いは「三種の神器」の争奪戦だった、 とも言える。 結局、この源平最後の戦いにおいて安徳天皇は死亡、平家は 滅亡した。…
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~四人目の英傑~

 地元のお祭り(名古屋まつり)  の一番の目玉は、信長・秀吉・  家康「三英傑」のパレード  (郷土英傑行列)であるが、  実は、もう一人郷土生まれの  「英傑」がいる。  地元の人にもなぜかあまり  知られていないようなのだが、  その四人目の「英傑」こそ、  三英傑の大先輩に当たる  源頼朝なのである。  …
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