テーマ:本能寺の変

日本史の「落胆」01 勝てば官軍、でもないゾ

「勝てば官軍 負ければ賊軍」 この言葉は一般的に、 ~何事も強い者や最終的に勝ったものが「正義」であり、負けた方は   「不正義」である~ このくらいの意味で解釈されているようです。 しかし、この言葉が世の中の真実を正確に衝いているとも言い切れなくて、 むしろこんなニュアンスも隠されているようにも感じられます。 ~勝者に「…
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日本史の「列伝」14 洗えば落ちるやもしれぬゾ

戦国時代の日本に渡来した巡察師・ヴァリニャーノに同行し、 織田信長(1534-1582年)に謁見(1581年)後、その献上品?と された黒人がいます。 ~切支丹国より黒坊主参り候/年齢26-27歳ほど/   十人力の剛力/牛のように黒い身体~ よほどビックリこいた出来事だったのでしょう、「信長公記」は このように書き残してい…
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日本史の「アレンジ」15 偶然?1582年の改暦問題

明治新政府が従来の「和暦」から「西暦」への改暦詔書を出し たのは、和暦の明治5年11月9日、西暦では1872年12月9日の ことでした。 ~太陰暦を廃止して太陽暦にする。 明治5年(1872)12月3日   を以って、明治6年(1873)1月1日とする~ ただ「太陽暦」には二つがあり、この場合は古い「ユリウス暦」 ではな…
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日本史の「トホホ」20 光秀が見た本能寺の月

~「天正10年(1582年)6月2日」のこと、明智光秀による   織田信長暗殺事件「本能寺の変」が勃発した~ 歴史の本では、よくこんな表記方法で日付を表します。 実はこれ、和暦なら「天正10年6月2日」になり、その当日の 西暦「1582年」※をカッコ内に注記?したものです。  ※和暦「天正10年6月2日」は、西暦では「1582…
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日本史の「列伝」12 ”三法師”その後の流転人生

派手な形で歴史にデビューしたにもかかわらず、その後に ついては案外よく知られていない人物もいます。 たとえば、「本能寺の変」(1582年)の後、織田家後継者を巡る 関係者協議(清須会議)の折に登場した「三法師」がそうです。 当初本命と見られていたのは、この本能寺に倒れた織田信長 (1534-1582年)の次男・信雄と三男・…
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日本史の「列伝」08 戦さに散った戦国一家

尾張国出身の戦国武将・森可成(もり・よしなり/1523-1570年/ 享年48)には、以下の順に六人の息子がいました。 長男・可隆 ( よしたか/1552-1570年) 享年19 次男・長可 ( ながよし/1558-1584年) 享年27 三男・成利 ( なりとし/1565-1582年) 享年18 ※蘭丸(信長小姓) 四男・…
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