テーマ:織田信長

日本史の「トンデモ」04 本願寺籠城戦と水軍激突

織田信長(1534-1582年)と本願寺11世・顕如(1543-1592年)の激突、 いわゆる「石山合戦」(1570-1580年)の、その中盤では「天王寺の戦い」 (1576年)が繰り広げられました。 そして、これに勝利した織田軍は摂津国方面の軍事的優位を確実なもの とし、逆に負けた本願寺軍は本拠地・石山本願寺への退却を余儀なく…
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日本史の「発明発見」25 神の座へ三英傑の三段跳

筆者の生息地・愛知県では、戦国の天下を動かした下記の武将トリオを 「郷土の三英傑」として称えています。 尾張・織田信長(1534-1582年) 革新政策/関所撤廃・楽市楽座など 尾張・豊臣秀吉(1537-1598年) 集権体制/貨幣統一・兵農分離など 三河・徳川家康(1543-1616年) 幕府創立/天下統一・武家諸法度など …
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日本史の「列伝」12 生前没後もユニーク履歴

北近江の戦国大名であった浅井長政(1545-1573年)の経歴を眺めていくと、 いくつかユニークな点があることに気が付きます。 その第一は、やはり時天下統一を目指していた尾張国・織田信長(1534- 1582年)との関りということになるのでしょう。 信長の妹である「お市の方」(1547?-1583年)を妻として娶った 人物…
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日本史の「トホホ」28 大没落に遭遇した管領家

戦国英傑・織田信長(1534-1582年)については、こんな説明もされています。 ~その出自は、尾張守護・斯波氏に仕える守護代・織田氏の、そのまた  家老家の織田家である~ また別には、 ~越前朝倉氏の創始者・広景(1255-1352年)は斯波氏に仕えていた~ こちらも越前を拠点として戦国の世に存在感を示した家です。 この…
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日本史の「発明発見」23 小牧山城から天下を見渡す

筆者の生息地・名古屋から車で30分ほどの「小牧(市)」。 用事を早めに済ませ、空いた時間を「小牧山」探訪に充てたのが、数日前 (2019・04・27土曜)の午前のことでした。 割合近いエリアでありながら、ここを訪れたことがないという事実に、ふと 気が付いたからです。 「歴史好き」あるいは「お城好き」の皆様には、この「小牧山…
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日本史の「微妙」10 勝者は看板づくりに精を出す

筆者の生息地・尾張名古屋では、戦国時代に華々しい活躍を見せた 織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の御三方を、その死後数百年経った現在でも 「郷土の三英傑」と呼んで称えています。 ちょっと補足しておくと、こんな案配になります。 織田信長(1534-1582年/尾張国)「室町幕府」に事実上の終止符を打った。 豊臣秀吉(1537-15…
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日本史の「忘れ物」27 慧眼!アントニーの法則

~英雄(偉人)の死するや 生前の善行は墓に葬られ、    悪事のみ千載の後まで語り継がれる~ イングランドの劇作家ウィリアム・シェークスピア(1564-1616年)の作品 「ジュリアス・シーザー」(1599年)の中で、マルクス・アントニウス(マーク・ アントニー)が吐くセリフです。 ちなみに原文では、 ~The evil th…
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日本史の「デジャヴ」24 天魔王は不意を衝かれる

家臣・明智光秀(1528?-1582年)による主君・織田信長(1534-1582年)に 対する謀反「本能寺の変」(1582年)は、その後の政治状況を大きく 変えました。 もし、この事件で信長が命を落とすことなく健在であり続けたなら、一家臣に 過ぎなかった羽柴秀吉(豊臣/1537-1598年)がその後の天下を握ることも なか…
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日本史の「怪人」18 人間五十年もうすぐ三倍時代?

戦後のGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による農地解放政策 (1947年/昭和22年)が実施されるまで日本最大級の地主であった 山形県酒井の豪商・本間氏の栄華はこう謳われるほどでした。 ~本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に~ さて、お話は無関係に飛んで「人間の寿命」です。 今川義元との対決「桶狭間の戦い」(15…
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日本史の「お国自慢」16 弘法サン”あゆち”に参上!

筆者の生息地は、昔は「尾張国」、現在は「愛知県」と呼ばれています。  そこでヒョッコリ思い出したのが、とある「愛知県人」が宣(のたま)わっていた、 こんな御高説です。 ~ええか、よく聞け。 日本語「哲学」の語源はラテン語の“philosophia”だ。   これは“philo”が愛を、“sophia”が智恵を意味しているからして…
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日本史の「事始め」12 ”兵農分離”は金がかかる!

”メッチャ強い”とされる戦国武将でも、兵の大半を農民に頼って いるようでは、「農繁期」の戦(争)は叶うものではありません。 便利な農機具もない時代ですから、「農繁期」の農民はそれこそ 猫の手を借りたいほど忙しいからです。 さりとて農業を「基幹産業」としている以上、「手抜き」というわけ にもいきません。 そんなことをしようも…
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日本史の「列伝」14 洗えば落ちるやもしれぬゾ

戦国時代の日本に渡来した巡察師・ヴァリニャーノに同行し、 織田信長(1534-1582年)に謁見(1581年)後、その献上品?と された黒人がいます。 ~切支丹国より黒坊主参り候/年齢26-27歳ほど/   十人力の剛力/牛のように黒い身体~ よほどビックリこいた出来事だったのでしょう、「信長公記」は このように書き残してい…
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日本史の「お国自慢」15 愚直と創意ふたりの作者

戦国の覇者・織田信長(1534-1582年)の一代記「信長記」には、 太田牛一(1527-1613年)の手によるものと、これとは別に 小瀬甫庵(1564-1640年)が著したものがあります。 両者を区別するために、一般的には 牛一版を「信長公記」(1600年頃?)、甫庵版を単に「信長記」 または「甫庵信長記」(1611年頃?)…
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日本史の「アレンジ」15 偶然?1582年の改暦問題

明治新政府が従来の「和暦」から「西暦」への改暦詔書を出し たのは、和暦の明治5年11月9日、西暦では1872年12月9日の ことでした。 ~太陰暦を廃止して太陽暦にする。 明治5年(1872)12月3日   を以って、明治6年(1873)1月1日とする~ ただ「太陽暦」には二つがあり、この場合は古い「ユリウス暦」 ではな…
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日本史の「事始め」08 昔もあった?ブラック企業

~あまりの激務に体調を崩し、病死(享年55)~  幕臣・江川英龍(1801-1855年)の最期を紹介した文章です。  現代なら、さしずめ“過労死”という言葉になるのでしょう。 では、死に至るような“激務”とは、いったいどういうものだった のか? そもそもの端緒は、最初の「黒船来航」(1953年)で開国を 迫ったペリー艦隊…
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日本史の「事始め」05 ”丸い地球”をいつ知った?

“地球は丸い“ことを始めて知った日本人は誰で、そしてそれは いつのことだったのか? 歴史のエピソードを遡るなら、精密な日本地図(伊能図)を作った ことで知られる江戸後期の測量家・伊能忠敬(1745-1818年)が それを承知していたことは間違いありません。 彼は“地球は丸い”とする天文学を修めていましたし、それが あってこそ…
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日本史の「忘れ物」21 ♪酒と泪と男と女

今回のタイトルはもちろん故・河島英五(1952-2001年)の名曲 から頂戴したものですが、幾分ミスマッチな雰囲気もあるため、 この「泪」の部分を「仏」に入れ替えてみます。 「酒と仏(ほとけ)と御床(おとこ)と女」 これなら少しは関連性も 出てきそうです。 また話の都合上、信仰(仏教)世界の「事情」?にも触れておくと、 …
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日本史の「発明発見」10 ”地名改称”ゴマスリ音頭

地名は「言葉の化石」とも言われているそうですから、逆に 言えば、「地名改称」はその昔からあまり熱心に行なわれて こなかったということになります。 ひょっとしたら、先人達の 意識の中に、改称することに対しての宗教的または文化的な ある種のタブー感のようなものがあったのかも知れません。 ところが戦国の時代、織田信長が本拠?の地…
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日本史の「油断」03 英傑トリオの本願寺介入

数年前に750回忌大法要を迎えた宗祖・親鸞(1173-1263年)さんも、 ひょっとしたら、その後の「本願寺」の在り方には幾分首を ひねっておられるかも知れません・・・~なんでこうなったの?~ それは「本願寺」※と名乗るお寺が京都に二つ、それも割合近い 場所にあることです。 ※いずれも京都市下京区 その上に、つい最近まで両…
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日本史の「謎解き」21 ピケティ風?の戦国経済論

とんでもなく固くて難しい内容という噂?があった、フランスの 経済学者トマ・ピケティ著の「21世紀の資本」が出版されるや、 世界ではすでに100万部超え、日本でもたちまち10万部以上が 売れたそうですから、これが驚かずにおられましょうか・・・ おられません! (日本版発売 2014年12月08日) ちなみに日本版は「A5判/…
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日本史の「デジャヴ」12 神懸かりは突然コケた

超昔々のTV番組で「スーパーマン」を演じた俳優※1は、 ある日、自殺か他殺か不明な“射殺死体”で発見されました。 その後に映画で同じ役を演じた俳優※2も、落馬事故によって 身体麻痺の境遇に陥っています。 つまり超人「スーパーマン」?といえども、決して不死身・不滅の 存在ではなかったわけです。 (ちょっと論点がズレてるか?) …
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日本史の「迷宮入り」14 天下城焼失の風評被害

念願の「天下布武」完成目前にあった織田信長(1534-1582年) の居城「安土城」の“築城から焼失”まで経緯は以下の通り。 ○1576年 → 築城を開始 ○1579年 → 信長が引っ越す(この頃、落雷で本丸焼失?) ○1582年 → 6月「本能寺の変」(信長暗殺事件) ○1582年 → 6月「山崎の戦い」以後、天守と本丸など…
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日本史の「もしも」04 判決!”改名”に処すッ!

天皇位を一旦退位された後に、再び即位される「重祚(ちょうそ)」 は非常に稀なことで、これを経験された天皇は長い歴史の中 でもお二方しかおられません。 奇しくもお二方ともが女性天皇で、名を挙げれば皇極(斉明) 天皇と孝謙(称徳)天皇ということになります。 ※(最初)35代・皇極天皇/(二度目)37代・斉明天皇(誕生594-崩御6…
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日本史の「お国自慢」12 井沢元彦氏の八十日目

名古屋“やっとかめ文化祭”(10・30~11・24/市内各地)の最終日 は本年も作家・井沢元彦氏のトリ講演(11・24/東別院ホール)で 締めくくりました。 「逆説の日本史」の井沢元彦氏と”やっとかめ文化祭”との 結び付きは? ・・・実は、井沢氏も「名古屋生まれ」なのです。 それもあってか、今回の講演はこんなタイトルに。 …
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日本史の「お国自慢」10 ここが信長生誕地だでぇ

「織田信長(1534-1582年)生誕」の候補地として、これまでは 二つの城の名が挙がっていました。 ひとつが那古野(なごや)城(現名古屋城の前身/名古屋市中区)で、 もうひとつが、そこから西へ10Kmほどの地にあった 勝幡(しょばた)城(愛知県愛西市と稲沢市の市境)です。 信長と、この二つの「城」の関わりはこうなります。…
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日本史の「デジャヴ」08 偉人英傑も神仏にすがる

誰でも生涯に一度くらいは進退窮まる場面に遭遇するものです。 俗な言葉なら「チビリそうな思い」を味わうということで、「誰でも」 とは偉人・英傑と崇められるような人でも、決してその例外では ないということです。 その昔(587年)、大きな政治的抗争がありました。 表向きは「崇仏派」蘇我氏と「廃仏派」物部氏の対立構図に なって…
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日本史の「女性」12 消された?濃姫の個人情報

昔は、女性について記録を残すことは少なかったようで、 そのことは超有名人の「妻」の立場にあった女性でも例外では ありません。 早い話が、戦国のスーパースター織田信長の正室「濃姫」も そのひとりで、美濃の戦国大名・斎藤道三の娘であること以外は 確かなことがほとんど伝わっていません。 同時代の豊臣秀吉・妻「おね」、また前田利…
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日本史の「ツッパリ」08 釜かぶり今昔物語

これは割合に有名なエピソードですが、信長は家康に その「本人」を前にして、普段通りのストレートな言葉で、 このように紹介したとされています。 しかし、それは同時に濃厚な尾張弁だったことも想像されます。 ~ええきゃー家康ドノ。このジイ様が松永弾正だでぇ。 主家に背いたばっかでにゃーで、将軍も殺したしよぅ、そんで その上に大…
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日本史の「パクリ」05 ビジネスモデルは目の前に

織田信長が実現した「兵農分離」のシステムは、 (1)画期的であり、また(2)天才的な発想であると評されています。 なぜなら、それまでの「兵農兼業?」システムが抱えていた、 「農閑期しか兵を動かせない」という大きな欠点?を根本から 解消したからに他なりません。 つまり、農業に携わらない「専業兵士」に戦さを任せるこの 「…
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日本史の「アレンジ」02 ”××の変”は変ではないか?

ひょいと気がついたのですが、「○○の戦い」という歴史用語? には概ねその“場所”を示しているという規則性があります。 たとえば「桶狭間の戦い」(1560年)「賤ヶ岳の戦い」(1583年) 「関ヶ原の戦い」(1600年)などはその通りの表現になっています、 ところが、これが「××の変」という名称になるとその規則性は 総崩れ?…
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