テーマ:朱子学

日本史の「大雑把」02 五十年ワシ掴みの江戸幕府

~「江戸時代」とは1603年の幕府樹立から1868年の江戸城明け渡し   までの265年を指す~ 普通この程度の説明がされています。  しかし、始まりから終わりまでの265年はいかにも長い。  もう少しコンパクトに把握できないものだろうか? そこで思いついたのが、江戸時代265年をエイヤッとばかりに、 約半世紀50年単位で…
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日本史の「ツッパリ」23 触らぬカネにタタリなし

~江戸っ子は宵越しの銭は持たぬ~ 本音であったかどうかは分かりませんが、こんなセリフを吐いて粋がっていた とするなら、江戸っ子の「お金」に対する感覚は、チマチマ貯金に励む 現代日本人とは少しばかり異なるものがあったと言えそうです。 (お金の)「使い方」が違えば、(お金の)「造り方」の方にも違いがありました。 ただし、この場…
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日本史の「トンデモ」02 曲学阿世のイチャモン術

「林羅山」(1583-1657年)といえば、23歳の若さで徳川家康(1543-1616年)の ブレ-ンに収まったほどに優秀な学者さんですが、反面ちょいとばかりクセの ある?人物でした。 失礼を承知の上で言えば、「曲学阿世の徒」※という言葉に当てはまる 印象を備えた人物ということです。 ※真理を曲げて世間や時勢に迎合する言動を取…
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日本史の「付録」09 頭のテッペンに祖法あり

ものごとを比較するのび、世界の、あるいは日本の「三(大)○○」という 表現がよく使われます。 筆者の生息地・名古屋辺りでいうなら、たとえば 「郷土の三英傑」※とか「徳川御三家」※という表現などがそれに該当します。 ※織田信長(出身:尾張)/豊臣秀吉(出身:尾張)/徳川家康(出身:三河) ※尾張徳川家(家祖:家康 9男・義直/6…
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日本史の「災難」11 改革とミニ科挙と異学の禁

戦国の世を勝ち抜いた徳川家康(1543-1616年)は、自ら征夷大将軍と なって江戸幕府を開き、その公式学問として「朱子学」を採用しました。 理由は明快で、家康自身が目の当たりにした明智光秀(1528?-1582年)に よる主君・織田信長(1534-1582年)に対する謀反・謀殺や、その後の 豊臣秀吉(1537-1598年)によ…
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日本史の「タブー」07 技術革新 300年の空白

遥かヨーロッパからこの日本に「鉄砲」が伝わった時期は、戦国の世 真っ只中の1542年か1543年のことだとされています。 いわゆる「鉄砲伝来」ですが、そのハイテク武器が最初に上陸した 大隅国・種子島の、今なら中学生ほどの年齢だった若き領主・種子島 時堯(1528-1579年)は、これに大きな関心を寄せ、大枚をはたいて 二丁を購…
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日本史の「謎解き」28 民族DNAは競争を嫌う?

戦国の世の最終勝者となり、その後に江戸幕府を創立した徳川家康 (1543-1616年)は、幕府の公式学問として「朱子学」を採用しました。 もともとは「孔子」(前552-前479年)が始めた「儒教」を、千数百年も後に なって南宋の「朱熹」(1130-1200年)が再構築したものが、この「朱子学」で あり、これはまた「新儒教」ともい…
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日本史の「トホホ」25 ペリー代将の私的なぼやき

アメリカ海軍マシュー・G・ペリー代将(1794-1858年)率いる東インド艦隊が 日本を訪れた事件。 いわゆる「黒船来航」(1953年)ですが、結果として これが十数年後に起きる「明治維新」(1867年?)の引き金になったことは 紛れもない歴史的事実です。 では、アメリカは「何用あって日本国へ」やって来たものか? 多くの理…
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日本史の「信仰」10 朱子学生まれの銭嫌い

12世紀・南宋の儒学者・朱熹(1130-1200年)が興した「朱子学」の思想は、 いわば「新儒教」との位置づけがなされていますが、オリジナルの 「儒教(孔子)」に比べると、随分とヒステリックな一面を備えていました。 「商売をやるよりは学問をした方が好ましい」ほどの考え方だった 「儒教(孔子)」に対し、新儒教「朱子学」は士農工…
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日本史の「逆転」21 イトコ同士の真逆な信念

戦国の世の最終勝者となり、江戸幕府を開いた徳川家康(1543-1616年)の 子孫にはこんな人たちも混じっていました。 家康→  三男・秀忠→庶子・保科正之(1611-1673年) 家康→十一男・頼房→三男・徳川光圀(1628-1701年) ここでの保科正之の父“秀忠”と、徳川光圀の父“頼房”とは、24歳離れた 兄弟(共に家康…
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日本史の「誤算」06 ”盛者必衰”家康の回避方程式

隣国の遠江・駿河を治める大大名・今川義元(1519-1560年)に屈する形で 人質生活を送ったのが、後に徳川家康(1543-1616年)と名乗ることになる 若き日の松平元康でした。 当主・元康自身が人質境遇ですから、その家臣達はほとんど奴隷?の扱いを 受け、そればかりか自領・三河は今川家の植民地?もどきの状況にあったと いうこ…
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日本史の「世界標準」15 ”未熟”が幸い?原理主義

最近、「原理主義」という言葉をよく耳にします。 この厳密な定義は結構難しいようですが、幾分は「根本主義」 とか「教条主義」とかの別の言葉にも重なる印象があって、 乱暴にくくるなら、まあ「基本」や「原則」を徹底的に重視する 考え方といったところでしょうか。 ならば、その反意語があるかといえば、これも明確ではありま せんが、…
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日本史の「忘れ物」20 能はマルだが芝居はペケだ

現代での人気度を比べるなら、「歌舞伎」の方が「能」よりは いささか上という雰囲気を感じます。 ところが少し前の時代だと、これが逆になる印象で、実際 江戸幕府が「式楽」※として採用していたのは「歌舞伎」ではなく、 「能」の方でした。 もちろんそこには伝統ある「能」に対し、駆け出しの「歌舞伎」と いう大きなハンディもあったのでし…
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日本史の「冗談?」10 純血エリートの悪い癖

幼い頃から聡明かつ真面目で堅物、その上とっても毛並みが 良い・・・江戸中期の老中・松平定信(1759-1829年)が、まさに この通りの人物でした。 なにせ八代将軍・吉宗の孫であり、一時期は将軍候補者と しても目されていた(異説もあり)そうで、しかも「寛政の改革」 (1787-1793年)を指導した人物としても、そしてまた…
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日本史の「謎解き」12 ピンハネ?は見ぬフリを

江戸幕府は、その期間に何度かの「改革」を試みていますが、 そこには、いつも「財政再建」という課題が伴っていました。 しかし、なんでまた「財政再建」が必要だったのか? そんなことは決まっておる、とにもかくにも「貧乏」だったからだ! それはそうでしょうが、でも普通に考えれば、その「貧乏」? 自体からして、なにかしら怪しい雰囲気…
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