テーマ:北条時宗

日本史の「タブー」12 使者はなぜ殺されたのか

「蒙古襲来」あるいは「元寇」という当時の日本国にとって歴史的な 大事件は、概ねのところこんな説明になっています。 ~日本の鎌倉時代中期に、当時モンゴル高原及び中国大陸を中心領域として  東アジアと北アジアを支配していたモンゴル帝国(元朝)およびその属国  である高麗によって二度にわたり行われた対日本侵攻の呼称である~ 早い…
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日本史の「災難」09 国難!朝廷幕府の異質な対応

世界征服を目指すがごときに領土拡張を続けた超大国・元が、大海に浮かぶ 島国・日本に目をつけ征服を目指したのが、いわゆる「元寇」(蒙古襲来) でした。 それは前後二度に及び、その一度目を「文永の役」(1274年)、 そして二度目を「弘安の役」(1281年)と呼んでいます。 ちっぽけな「ド田舎国」を狙って、世界に冠たる超大国がガ…
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日本史の「ツッパリ」19 強気が招いた結果オーライ

中国大陸を支配した「モンゴル帝国」(大元)とその属国である 「高麗王国」が海を越え、日本本土に侵攻した事件・・・これが、 いわゆる「元寇」です。  そして、その最初が「文永の役」(1274年)、二度目が「弘安の役」 (1281年)と呼ばれています。 ただ、この侵攻は突如としてオッ始まったわけではなく、実際 には「モンゴル…
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日本史の「列伝」05 六百年後の国難功労賞?

1268年、鎌倉幕府・第八代執権に就いたのが北条時宗 (1251-1284)でした。 イケイケドンドンの状況にあった大陸の「モンゴル帝国」が 「大元」(1271年)と名乗り出すその直前に、わが国ではなんと 「高校生?執権」を誕生させていたことになります。 すでに「馬で行ける範囲は全部」、言葉を変えるなら、「大陸の 大部分…
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日本史の「言葉」02敵国降伏

中国・元(げん)は二度に渡ってこの日本を攻めた。 有名な「元寇(げんこう)」である。結果はご存知の通り元軍の 敗北、すなわち結果的には日本側の勝利であった。 ところが、その後日本側ではその「勝因」についての意見が 大きく分かれることとなった。 なんで?  初めに、この元寇が鎌倉幕府の時代、  すなわち「13世紀の出来事」…
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幸運な国家 Part弐

PartⅠの昭和の「敗戦による「占領軍の統治」に続いて、 「外国の侵略」に直面した鎌倉時代の「元寇」を今回のPartⅡで、 取り上げてみよう。 実は、この時も日本にとっては 「「国家存亡の淵」であったと思えるからである。 ~元の大軍が、この日本に戦争を仕掛けてきたが、 その二度とも暴風によって自滅した~ 「元寇」に対する日…
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