日本史の「トンデモ」03 精神が敵機を撃墜する

第119代・光格天皇(1771-1840年)以来およそ200年ぶりとなる平成の「譲位」 に当たって、天皇陛下(第125代/明仁/満85歳1933年生)は、その心境を こう漏らされました。 ~平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに心から安堵して   います~ その思いによほど強いものがあったのでしょう、いささか涙声に…
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日本史の「例外」01 歴代以外にも覆面天皇が

寿命がいつかは尽きてしまうのは「生物」の宿命で、その点は人間も その通りなら、神の子孫とされる「天皇」も例外ではありません。 その天皇が至高の存在であることを強調する意味もあるのでしょうか、 「崩御(死去)」されると、それまで使っていた名とは別に生前の事績を 勘案した名「諡名」(諡号)が奉られます。 ごく普通に使っている「○○…
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日本史の「発明発見」23 小牧山城から天下を見渡す

筆者の生息地・名古屋から車で30分ほどの「小牧(市)」。 用事を早めに済ませ、空いた時間を「小牧山」探訪に充てたのが、数日前 (2019・04・27土曜)の午前のことでした。 割合近いエリアでありながら、ここを訪れたことがないという事実に、ふと 気が付いたからです。 「歴史好き」あるいは「お城好き」の皆様には、この「小牧山…
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日本史の「ツッパリ」24 幕末老中の御意見募集

いわゆる「黒船来航」(1853年)によって外国(アメリカ)から開国を求められる ことになった幕府でしたが、ハナから相手の希望に沿うつもりは持っていません でした。 鎖国政策は権現様、つまり幕府創立者である徳川家康(1543-1616年)も 遵守してきた祖法だと強く信じ込んでいたことがその理由です。 祖法違反とは、江戸幕府にとっ…
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日本史の「信仰」15 儒教徒はメタボに憧れる

「儒教」あるいは「儒学者」という言葉は日本史の中にもよく登場しています。 では、その「儒教」って、いったいなんなの?  なんとなく分かっているようで、その実分かっていないのは、筆者とて その例外ではありません。 そこで、手っ取り早く一般的な説明の受け売りに走ると、 ~「儒教」は、(紀元前もかなり前の)孔子(前562-前479年…
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日本史の「タブー」10 神君祖法をシカトする?

戦国の世の最終勝者・徳川家康(1543-1616年)が、自ら初代将軍に就き、 創立を果たしたのが江戸幕府(1603-1867年)でした。 その将軍職を2年ほどで辞し、家康はその後継として自分の息子秀忠を 第2代将軍に就けました。 そして、自らがそうだった「独裁将軍」の姿を秀忠には求めませんでした。 諸藩に対し、「参勤交代」…
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日本史の「付録」11 待ちかねたゾ武蔵ッ!

「史実」をヒントにして後の時代に創作された芝居や小説などが、元の「史実」 そのものよりも有名になってしまうことも、ままあるお話です。 少し古い時代なら、たとえば史実「元禄赤穂事件」(1701-1703年)をモデルに した創作「忠臣蔵」がそうでしょうし、それよりは新しい時代で探すなら、幕末に 活動した土佐藩郷士・坂本龍馬(1836…
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日本史の「微妙」10 勝者は看板づくりに精を出す

筆者の生息地・尾張名古屋では、戦国時代に華々しい活躍を見せた 織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の御三方を、その死後数百年経った現在でも 「郷土の三英傑」と呼んで称えています。 ちょっと補足しておくと、こんな案配になります。 織田信長(1534-1582年/尾張国)「室町幕府」に事実上の終止符を打った。 豊臣秀吉(1537-15…
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日本史の「異国」05 ♪日曜日に市場へ出かけぇ

♪日曜日に 市場へでかけ 糸と麻を 買ってきた   (合いの手?) テュリャ テュリャ テュリャ テュリャ テュリャ テュリャ リャ             テュリャ テュリャ テュリャ テュリャ リャ ロシア民謡「一週間」の出だし部分ですが、ちなみに月曜日以降は、 ♪月曜日に おふろをたいて 火曜日は おふろにはいり  テュリ…
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日本史の「誤算」11 狂気の沙汰?領地返上

戦国の世の最終勝者となった徳川家康(1543-1616年)は、江戸幕府を成立 (1603年)させ、征夷大将軍として、それまで同格とされていた諸大名の上に 君臨することで新しい時代を誕生させました。 要するに、それまでの横並びの同僚関係を消滅し、家康率いる徳川家が 統治する形に作り変えたということです。 最大のライバル・豊臣…
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日本史の「世界標準」25 異端宗派は成敗すべし

現代でこそ(一部を除いて)、こうした意識は幾分薄まってきている印象 ですが、宗教というものには、洋の東西を問わずどこもが、少なからず 「異端」を嫌う性癖を備えているようです。 もっとも、そんな言い方をすれば、原理原則を堅守する一神教の世界から 見た日本の神道なぞは、その存在自体がすでに異端ということになり かねませんが。 …
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日本史の「忘れ物」27 慧眼!アントニーの法則

~英雄(偉人)の死するや 生前の善行は墓に葬られ、    悪事のみ千載の後まで語り継がれる~ イングランドの劇作家ウィリアム・シェークスピア(1564-1616年)の作品 「ジュリアス・シーザー」(1599年)の中で、マルクス・アントニウス(マーク・ アントニー)が吐くセリフです。 ちなみに原文では、 ~The evil th…
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日本史の「陰謀」27 次期将軍の遊山帰り道

江戸幕府第10代将軍・徳川家治(1737-1786年)の長男・家基(1762-1779年) には、徳川宗家の通字である「家」の字を賜りながら将軍職には就けなかった ことから、「幻の第11代将軍」とのニックネーム?もあります。 では、幼年の頃から聡明で文武両道の才覚を認められていた人物で あった家基の「将軍職」はどうして「幻」に終…
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日本史の「事始め」18 偽物づくりと初物づくし

公家であり政治家であった岩倉具視(1825-1883年)は、明治維新の実現に 大きな貢献を果たした人物として、いわゆる「維新十傑」にもその名が 挙げられています。 このことは、幕末期における岩倉の活躍を大きく評価している証拠でも あります。 もっとも、この「維新十傑」とは最終勝者となった明治新政府側、それも 中心になった…
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日本史の「タブー」09 人脈交錯の天皇弑逆事件

日常会話ではあまり使いませんが、「弑逆(しいぎゃく)」という言葉があります。 少し探ると、「光秀が信長を弑逆した本能寺の変」との使用例も挙げられて いましたから、要するに ~臣下・子など目下の者が主君や親など(目上の者)を殺すこと~ を意味する言葉のようです。 さてここまでは、フムフムと読み流していたのですが、その後の段に…
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日本史の「異国」04 城が無くては都と云えぬ

言葉に疎い筆者なぞの知るところではありませんでしたが、本来の「城」って、 たとえば姫路城や大阪城など、現代の日本人が普通にイメージするもの とは大きく異なって、人間が生活する都市や村など居住地域全体を囲う 施設を示す言葉だそうです。 なんやて? 地域全体を囲う「城」だって? ・・・この定義に、いささかの違和感を覚える方もい…
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日本史の「怪人」20 妊娠15ケ月の万世一系

昔々のある女性の主張です。 ~生まれた子の父親が夫であることは間違いありません~ 我が国の古い記録にも残されいるお話です。 しかし、この主張に対してこんな反論が出ても不思議ではありません。 ~それはとってもヘンだ! だって、それだとアナタのお子さんの誕生は   貴女の夫が亡くなってから一年以上も経過してからのことになります …
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日本史の「デジャヴ」27 皇室婚約すったもんだ

譲位を強く希望された今上天皇が、本2019年5月1日に退位され、その後を 新しい天皇が継承されることはご承知の通り。 ところが実は、それまでの皇室典範には譲位の規定はなく、 ~皇位の継承は天皇の崩御によってのみ行われる~と定められていたそう です。 言葉を換えれば、 ~天皇に限っては生涯現役を貫くべし~という意味になるのでしょ…
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日本史の「列伝」19 子作り五十人の人海戦術

たまたまのこと、平安時代の第52代・嵯峨天皇(786-842年)の事績に 行き当ったところ、こんな説明になっていました。 ~系図などによれば49名の皇子皇女がいたと言われている~ なんと! だったら、何らかの事情があって系図に載せなかった、あるいは 載らなかった子供達が、この他にもいたかもしれん。 そう考えれば、「子作り五十人…
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日本史の「言葉」28 前後左右どっちから見て?

たまたま手にした本を眺め読みしていたら、着物(いわゆる和服)について、 こんな説明にぶつかりました。 ~養老3(719)年、元正天皇が襟を右前にせよとの「右衽(うじん」の令」を   発しました。   ここから、着物は右前に着るようになり、現代まで続いています。~ ちなみに、元正天皇(第44代/680-748年)は、第40代・天…
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