日本史の「例外」01 歴代以外にも覆面天皇が

寿命がいつかは尽きてしまうのは「生物」の宿命で、その点は人間も
その通りなら、神の子孫とされる「天皇」も例外ではありません。
その天皇が至高の存在であることを強調する意味もあるのでしょうか、
「崩御(死去)」されると、それまで使っていた名とは別に生前の事績を
勘案した名「諡名」(諡号)が奉られます。
ごく普通に使っている「○○天皇」という称号がそれです。
もっとも業界の大立者の立場にある人などを「××界の天皇」と呼ぶことも
ありますが、それは俗称・愛称の類のものですから話がちょっと違います。

つまり、生前に一度はホンマモンの天皇として即位し、その務めを果たした
経験がなければ、普通は「○○天皇」と諡号されないものなのです。
ところがギッチョン!
実は歴史の中には、実際には即位をしたことのない、歴代天皇の代数にも
カウントされていない「天皇」もいるのです。

ですから、大変に失礼な表現が許されるなら「覆面天皇」あるいは
「モグリの天皇」と言えなくもないのですが、この「天皇未経験の天皇」は
「崇道天皇」と諡名されています。

しかし、なんでまた、こんなややこしいハメに? 
自称・ヒマ人の筆者は、その点を少し探ってみることにしました。
さて、この覆面天皇「崇道天皇」とは、実は「平安遷都」(794年)を実行した
ことで有名な第50代・桓武天皇(737-806年)の同母弟・早良皇子
(750?-785年)のことなのです。

~即位もしたことのない「皇子」身分の者が、なんで「天皇」なのだ?~
お怒りはごもっともです。
この頃の政治状況には、非常に複雑で微妙なものがあって、「天皇詐称」?
の事情については一概に決め付けられないものがありますが、ともかく
桓武天皇の後継者問題に端を発していることだけは間違いなさそうです。

兄弟親王の場合、天皇位を継承するのは、普通は兄親王の方で一方の
弟親王は出家するなど、道を譲るものです。
お互いが離れた位置にいれば、将来的な権力抗争発生のリスクを小さく
できるからです。
事実、早良皇子(弟親王)もとっくに出家して、僧としても、親王禅師と
呼ばれるほど、それ相応に高い地位を得ていました。

ところが、兄弟の父である第49代・光仁天皇(709-782年)は、兄・桓武に
すでに後継者となるべく息子もあったにも関わらず、桓武の天皇即位と
同時に弟・早良を還俗させたのです。
ちなみに、還俗とは文字通り「出家者が俗人へ還(かえ)る」ことでから、
この場合は一旦は寺院側に身を置いた弟・早良が、再び朝廷一族に
カムバックしたということになります。

その桓武天皇の息子とは、安殿親王(あてのみこ/774-824年)を指し、
桓武即位(781年)の頃は、まだ小学生低学年?ほどの年齢でした。
ですから、この還俗については、いろいろな理由が囁かれています。 
たとえば、
~(今40歳代半ばの)桓武天皇が(万一早く)崩御した場合に、安殿親王が
  幼帝として即位する(不安定な)事態を回避するため~

つまり、安殿親王が成長するまでの「リリーフ天皇要員」を、桓武より
10歳以上若いこの弟・早良に期待したという見方です。

あるいは、
~朝廷は、元・親王禅師の威光によって仏教勢力を制御しようと考えた~
いずれにせよ、朝廷の末永い安泰を願った父・光仁天皇の親心であった
ことは間違いなさそうです。
ところが、桓武からすれば、これは「要らぬお節介」で、むしろ早良が身近に
いることにうっとうしさを感じた気配もあります。

なにせ、根っから「言霊」を信仰しているヤマト民族のことですから、
ひょっとしたら、こんな思いが浮かび始めたのかもしれません。
~リリーフ要員ってことは、こいつ(早良)はオレの死ぬのを待っているって
  ことになりゃせんか~


崇道天皇社01 桓武天皇61









崇道天皇社/第50代・桓武天皇

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本当のところは不明ですが、少なくとも桓武・早良の兄弟仲に和気あいあい
とは言えない状況があったのは事実です。
そこへ降って湧いたのが「藤原種継暗殺事件」(785年)でした。

この藤原種継(727-785年)とは、今風なら「首都(長岡京)建設担当大臣」?
とでもいうべき「造長岡宮使」の立場にあり、それが仕事中に矢で射られ、
翌日には死亡に至ったのですから、これを放置しておいたのでは国家の
メンツは丸つぶれです。

朝廷としても、ここは威信をかけて犯人逮捕を成就しなければなりません
から、実際一網打尽の勢いで、わんさかの「容疑者逮捕」に及びました。
そういう状況の中で、なんとこの早良皇子も身柄を拘束されたのです。

余談ですが、この時逮捕された者の中に、万葉集の編纂者としてその名を
挙げられる「大伴家持」(718-785年)の名もあります。
本人はこの事件が発生以前にすでに亡くなっていたにも関わらず、関与が
あったとみなされて、追罰(官籍除名/埋葬不許可)を受けましたが、なんと
20年以上もの後になって事態が急変、恩赦を受け、位階も復されたのです。
なんともまあ禍福の往来が激しい、とても双六チックな「死後人生」?と
言えます。

それはともかく、生きて逮捕された早良は猛然と抗議したようです。
~ボクにはまったく身に覚えのないことッ!~
この真剣な訴えに当局が耳を傾けないことが分かるや、今度は抗議の
絶食(ハンガー・ストライキ)です。
そして、配流される道中で絶命に至ったのですから、まさに「憤死」です。

実は、この早良皇子憤死の後に、桓武には不幸が連続しました。
皇太子に立てた安殿親王が発病したばかりか、妃など桓武周辺の女性たち
が相次いで病死、それだけに留まらず、さらには桓武・早良兄弟の生母
(高野新笠)まで病死(790年)してしまったのです。

それだけではありません。
これらの不幸と同時並行的に、社会では疫病の流行があり、さらには
洪水などの自然災害も相次ぎましたから、桓武はもうヘロヘロで、たまった
ものではありません。
~こうまで続くとは、これはもう早良親王の祟りに違いない、あぁ、そうに
  違いないッ~
 そこで、鎮魂の儀式を何度か実行しています。

要するに、桓武天皇は、こう受け止めていたことになります。
~死んだ早良皇子の怨念が自分に祟っている~
現代風に解釈するなら、つまりは、
~桓武天皇は、早良皇子が冤罪(無実)であることを知っていた~
ことになりそうです。

「早良は間違いなく暗殺事件関与者」と信じていたのなら、胸を張って
毅然としていればいいのであって、何も自分がお祓いや鎮魂の音頭取りを
する必要もありません。

しかし、度重なる不幸や災害は、怨霊となった早良皇子の仕業によるもの
と信じる桓武天皇は必死です。
これに立ち向かわなければ、「天皇家崩壊」という最悪のシナリオさえ
考えられるのです。
~この怨霊跋扈を鎮めるためなら、もぅなんでもやっちゃうゾッ!~

怨霊が怒り狂って様々な禍をもたらすのですから、怨霊鎮魂はその怒りを
鎮めることから始め、次には怨霊に気分良くなっていただくことで、
禍を実行されないようにします。

桓武天皇自身も怨霊信仰の信徒ですから、その点は重々承知して
いました。
~早良皇子の怨霊を気分良くさせるためなら、もぅなんでもアリだッ!~
そこで持ち出したのが、
~早良皇子を(霊界で)天皇に祀り上げる~方法でした。

「崇道天皇」の諡名がそれです。
つまり、即位もなければ歴代天皇にもカウントされない「覆面天皇」がここに
誕生したことになります。

さて、このことによってたちまち禍がなくなったかどうかは知りませんが、
息子の安殿親王が無事成長し、桓武亡き後に第51代・平城天皇として
即位したことは紛れもない史実となっています

そのように眺めてみると、早良皇子の怨霊封じのために取った桓武天皇の
「覆面(モグリ)天皇大作戦」は見事に花を咲かせたと言えるかもしれません。
やれ、めでたし、めでたし。



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