日本史の「微妙」10 勝者は看板づくりに精を出す

筆者の生息地・尾張名古屋では、戦国時代に華々しい活躍を見せた
織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の御三方を、その死後数百年経った現在でも
「郷土の三英傑」と呼んで称えています。

ちょっと補足しておくと、こんな案配になります。
織田信長(1534-1582年/尾張国)「室町幕府」に事実上の終止符を打った。
豊臣秀吉(1537-1598年/尾張国)信長亡き後、関白に就き天下に号令した。
徳川家康(1543-1616年/三河国)戦国の最終勝者/「江戸幕府」の創立者。

ただし、これには少し神経質な方からこんな異議が出される心配もあります。
~信長・秀吉の「尾張国」と家康の「三河国」では明らかに「郷土」が異なる
  のに、それを一緒くたにして「郷土の三英傑」とは誇大広告だッ!~

杓子定規に言えば、確かにその通りかもしれません。

しかし、尾張国・名古屋の地に自分の九男・義直(1601-1650年)を送り込む
ことで、「尾張徳川家」を立て、幕府を支えるべき御三家の、そのまた筆頭と
格付けしたのが他ならぬ家康ですから、生粋とまでは言えないにしても、
少なくとも「名誉郷土人」?程度の資格は認めても?

どうやらそれくらいが「世論」?のようで、実際筆者地元の「名古屋まつり」の
目玉パレード「郷土英傑行列」も、分け隔てのないよう平等に、信長隊・
秀吉隊・家康隊から編成されています。

さて、ひょっこりお話は飛びますが、ただいま現在の日本は「統一地方選挙」
(2019年)の最中にあります。
そして、こうした公職選挙には、地盤・看板・鞄(ジバン・カンバン・カバン)の
いわゆる「三バン」が必要だとされています。

バッチリ勝ち抜き、晴れて当選を得るためには必要不可欠な要素という
意味で、その「三バン」とは、概ねのところ、地盤=支持者・後援会/
看板=知名度/=資金力あたりを意味しているようです。
現代の公職選挙とはさすがに勝手が違うものの、実は三英傑もそれぞれ
に、その「三バン」の整備充実に苦労した様子がうかがえるのです。

信長・家康は地域大名ということもあって、元々それなりの地盤=後援会
(家臣団/味方勢力)と鞄=資金(財力・国力)は整えていましたし、
「百姓出身の立身出世者」であることを自ら積極的にウリにしていた
信長家臣時代の秀吉も、信長の死後、その遺産ともいうべき「織田家」
そのものを乗っ取ることで、なんとか一応の恰好だけは整えています。

こんな案配ですから、「三バン」の内、地盤と鞄以外の「看板=知名度・
正統性・権威・箔付け・大義名分」
が、三英傑共通の「解決を要する
課題」として残されていたわけです。

その試行錯誤の姿を順に眺めてみましょう。 まずは信長の場合。
身分と言えば、数ある田舎大名に一人に過ぎず、全国的にはそれこそ
「知名度ほとんどゼロ」状態でしたから、仮に声を枯らしたところで誰も
素直に耳を傾けるものではありません。
要するに、自身のモットー「天下布武」なんぞは、世間からすれば所詮
チャンチャラ物で噴飯物の扱いということです。

そこで信長は、落ちぶれていた?室町幕府の第15代将軍・足利義昭
(1537-1597年)に目を向けました。 
武士の棟梁・征夷大将軍の「看板」(権威)を一時的に拝借することにした
わけです。

このヨレヨレ将軍に首尾よく近づくことができ、ついにはその後見人?
保護者?的な立場まで確保することもできました。
これには、家臣・明智光秀(1528?-1582年)の随分な骨折りがあったと
されています。
念のためですが、この場合の「骨を折る」とは、医学的な「骨折」ではなく、
~精を出して働く/尽力する/苦心して人の世話をする~ことの意味です。

さて、こうした立場に立ったことで、それまでは世間からほとんどシカト状態に
あった信長の言動もそれなりの影響力を発揮するようになり、こうした状況が
定着していきました。
しかし、こうなってしまえば、従来の「将軍・義昭」という「古い看板」は御用済み
になるわけで、事実、信長はこの時点で将軍・義昭を京から追放(1573年)
しています。

早い話が、これ以降は自分自身、つまり「織田信長」という「新しい看板」
(ブランド)だけで十分にやっていけると踏んだ、ということです。
ところが、ここで全く想定外の驚天動地の事件が勃発。
家臣・明智光秀による信長への謀反「本能寺の変」(1582年)がそれでした。

三英傑62








「郷土の三英傑」 織田信長/豊臣秀吉/徳川家康

 にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
 にほんブログ村



光秀謀反の成功は、事実上の天下人が突然消滅しちゃったことを意味します
から、新たな権力抗争が多発するのは当然です。
その一瞬の「政治空白」を衝いて飛び出したのが、誰あろう信長家臣・
羽柴秀吉(後に豊臣)でした。

しかし秀吉は、地盤=味方と鞄=カネはともかくも、「看板」(正統性・権威)
づくりには信長以上の苦労を強いられました。
主君の敵・光秀を討ち取ったことで、誰をも超える発言力を確保したものの、
世間からすれば、相変わらず、
~秀吉って、長年「信長様パシリ」をやっていたヤツのことだろう~
のままですから、これでは「看板」(正統性・権威)どころではありません。

そこで、持てる財力によって朝廷に働きかけて、「関白」(1585年)に就いた
ばかりでなく、さらには新姓「豊臣氏」(1586年)を賜るなど、自らに
「箔を付ける」努力を惜しみませんでした。
ちなみに、「武家関白」は史上初の出来事であり、賜姓にしても、建前と
しては大昔の「藤原氏」と同列に扱われるべき出来事ですから、秀吉にして
みれば、できうる限りの最高最大の「看板」(正統性・権威・箔付け)を完成
させたはずでした。

ところがギッチョン! 
秀吉の腹積もりとは全く違って、世間は「秀吉は信長のパシリ」というイメージ
をどうしても払拭しきれなかったようで、その違和感は、秀吉を揶揄した
こんな落首を登場させるほどでした。
~「末世とは 別にはあらじ 木下の 猿関白を 見るにつけても~(1591年)
  →猿(秀吉のあだ名)が関白になっちゃうなんて、まったく世も末だゼ。
残念ながら、秀吉の渾身の看板づくり(箔付け)は、必ずしも大成功まで
には至らなかったようです。

こうした「箔のある看板」を備える苦労は、この秀吉ほどではないにしても、
実は、その後に登場した徳川家康もそれなりに味わっています。
家康の場合は、まず第一に「松平元康」の名を消してしまう必要がありました。
駿河国・今川義元(1519-1560年)の人質となっていた時代に使っていた
名前ですから、家康にしてみれば、ちょいとばかり忌まわしい気分です。

その義元から偏諱を賜った「元」の字を「桶狭間の戦い」(1560年)で義元が
倒れた後に返上して、「元康」から「家康」(1563年)へと名を改めました。
義元は死んでしまったのですから、何らの遠慮も必要ありません。

さらには、松平氏から徳川氏への改姓(1567年)の勅許を得て、ここに
晴れて「徳川家康」の誕生を見ます。
人質イメージがつきまとう「松平元康」をきれいさっぱり消去して、まっさらな
キズなし「徳川家康」への大変身です。

ついうっかりしやすいのですが、このことを別の言い方にすれば、家康こそが
徳川家の始祖であり、さらに言うなら、徳川家の歴史とは、これ以前には
存在せず、この瞬間から始まったということになります。

実は、信長死後の家康は本姓を「源氏」と称したり、あるいは「藤原氏」、
それをまた「源氏」に戻したり、なんとなく胡散臭くて煩雑な矛盾した主張を
繰り返していました。
こうした本姓への拘りは、要するにこの時期の家康の頭の中には既に
天下人へのイメージが描かれていたということなのでしょう。

「征夷大将軍」は(基本的に)「源氏」血統者が就きますし、また「関白」なら
これも(基本的に)「藤原氏」出身者ということになり、いずれにしても、
こうした地位に就くこと自体が誰をも納得させられる文句なしの
「大看板」(正統性・権威・箔付け)になるわけです。

家康の主張がその「源氏」と「藤原氏」の間を揺れていたのは、将軍を狙うか
はたまた関白でいくか、何事も先例を重んじる朝廷のその折々の空気を
読んでの対応だったのかもしれません。
そして最終的には自らが「江戸幕府」を創立(1603年)し、その総支配人?
「征夷大将軍」に収まることで、文句なしに天下を掌握したのです。

生きている間に限らず、死後の「看板づくり」(箔付け)にも精を出したのが
この家康で、徳川家後々の時代まで影響力を維持しようとする祖神
「東照大権現」を構想し実現させています。
もっともこれは、家康オリジナルの構想ではなく、あえて実も蓋もない言い方
をするなら、朝廷の祖神つまり皇祖神「天照大神」のパクリなのですが。

こうして眺めてみると、実力本位と言われた戦国時代においてさえ、日本の
場合は「力がすべて/勝った者が正義」とする力づくの思想は割合に希薄
だったのかもしれません。
なにせ世間へ配慮して、時代の勝者自らが「看板づくり」(箔付け)に精を
出しているのですからねぇ。



 にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
 にほんブログ村



--直近の記事------------------------
563 日本史の「異国」05 ♪日曜日に市場へでかけぇ 曜日は不要だった?
562 日本史の「誤算」11 狂気の沙汰?領地返上 狂者の妄想に過ぎぬ!
561 日本史の「世界標準」25 異端宗派は成敗すべし 奴らは悪魔である
560 日本史の「忘れ物」27 慧眼!アントニーの法則 善行一代悪事は末代
559 日本史の「陰謀」27 次期将軍の遊山帰り道 将軍の血統は断絶!
558 日本史の「事始め」18 偽物づくりと初物づくし 維新期の活躍と晩年
557 日本史の「タブー」09 史上唯一?天皇弑逆事件 馬子と崇峻の対立
556 日本史の「異国」04 城が無くては都と云えぬ 城は言葉でも作れるゾ

"日本史の「微妙」10 勝者は看板づくりに精を出す" へのコメントを書く

お名前
メールアドレス
ホームページアドレス
コメント