日本史の「異国」04 城が無くては都と云えぬ

言葉に疎い筆者なぞの知るところではありませんでしたが、本来の「城」って、
たとえば姫路城や大阪城など、現代の日本人が普通にイメージするもの
とは大きく異なって、人間が生活する都市や村など居住地域全体を囲う
施設を示す言葉だそうです。

なんやて? 地域全体を囲う「城」だって?
・・・この定義に、いささかの違和感を覚える方もいるのかもしれませんが、
しかし、本家・中国では昔の昔から、そのように呼んでいたそうですから、
今更文句を言っても始まりません。

確かに、中国には文化も風習も全く異なる異民族が自分たちの居住地域の
近くにも存在していたのですから、彼らの侵入を防ぐための施設を考える
のは当然です。
そうした努力をうっかり怠ろうものなら、明日は征服されるばかりか、
奴隷にされてしまう心配さえあるからです。

そして、異民族に攻め込まれないよう居住地域を守るために必要とした
巨大で頑丈な囲い、それを中国では「城」と呼んだということです。

最先進国はこうした文明・文化を備えている・・・このことを知れば、
後進国?である我が国だって真似をしてみたくもなろうというものです。
同じ振舞いができれば、先進国気分に浸れますからねぇ。
しかし、実際にはそのような振舞いをすることはありませんでした。
いや、「しなかった」と言うよりは、実際には「できなかった」と表現した方が
的確かもしれません。

なぜなら、そこ頃の我が国は天皇一代ごとの遷都を繰り返していたから
です。
簡単に言えば、「(首)都」とは恒久的な施設ではなく、その天皇一代の
期間限定?と受け止めていたということです。

期間限定?ということなら、建設費用もなるべく安上がりの都の方が
ありがたい。
遷都という大事業を、天皇交代のたびに繰り返していたのでは、費用が
嵩むばかりでさすがにたまりませんからね。 当然の思いです。
根底にはそうした経済的事情もあったのでしょうが、ともかく我が国の都が
本場並みの「城」構造を構えることは長きに渡って行われませんでした。

それなら、逆にこんな疑問も生まれます。
~遷都に金がかかるのであれば、いっぱしの貧乏国である我が国は、なぜ
  最先進国・中国のように「恒久的(長持ち)首都」にしなかったのか?~

その理由はとっても単純。 穢れを嫌ったからです。

この列島の住民であるヤマト民族は、人間に限らず獣・小鳥に至るまで
「死」というものを「穢れ」として、大いに忌み嫌いました。
ある日宮殿で小鳥の死骸が見つかった時のこと、このことでさえ宮殿中が
「上を下への大騒ぎ」になったと、記録に残されているほどですから、
ましてや至高の存在である天皇の崩御(死)ともなれば、その穢れは都全体に
拡散し、覆いつくすものと信じられていても不思議ではありません。

死の穢れで汚染された都にはもう住めません。
そんなところに住もうものなら、こんどは住民自身が死穢に汚染されて
しまうからです。
そうなると、穢れのない新しくて清浄な場所に「新鮮な都」を建設し、
移転(遷都)するより他に方法はないのです。

できることであれば、先進国・中国に倣って本来の「城」を構えたいのは
ヤマヤマながら、こんな事情もあって長きに渡ってこの「一代一都」?方式を
踏襲し続けていたのです。
これではいつまで経っても「恒久的(長持ち)首都」の実現は無理です。

その慣習を、明確な意思をもって改めようと努めたのが第41代・持統天皇
(645-703年)でした。
第38代・天智天皇の娘であり、天智の弟とされる第40代・天武天皇の皇后でも
あった女帝です。

~従来の土葬方式ではなく、最新テクノロジーである火葬方式を採用すれば、
  天皇の死による穢れの拡散は食い止められるのではないか~

持統女帝はこう考えました。
そこで、(記録に残る)最初とされているの奈良・元興寺の開祖・道昭
(629-700年)の火葬の直後に、持統自らもその最新の「火葬」を決断・
実行しました。 歴代天皇としては初めての画期的行動でした。

平城京公園01 中国城郭都市01






 平安京跡歴史公園/中国城郭都市

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持統女帝の決断は実を結び、いきなりというわけではないにしろ、次第に
遷都の回数は減るようになりました。
~天皇の死による穢れは、火葬によってその拡散を防ぐことができる~
この確信が生まれたことで、改めて恒久首都つまり「城」に対する憧憬が
湧いてきました。

とは言うものの、都全体をすっぽり包み込む「城」構造は、経済的にも負担
ですし、維持管理の面では生活の不便にも直結しますから、おいそれと実現
できるものではありません。
さりとて、中国の城事情を知るにつけこんな思いに駆られます。
~やっぱり、本場に比べるとイマイチ見劣りしちゃうなぁ~

しかし、そこは昔の昔から「言霊信仰」にどっぷり浸かってきたヤマト民族
ですから、案の定「言葉」に目を付けました。
~「言葉」なら資金も不要、不便にも無縁で憧れの「城」を作れるゾ~
それを最初に具現化したのが、持統女帝の火葬からわずか7年後の
710年のことでした。
 
登場した都とは、聞いて驚け、まんま「城」と謳った「平城京」です。
「言霊信仰」の世界では、これで中国並みの「城」構えが完成したことに
なるのです。 
モロに蛇足ですが、この年号の語呂合わせ(Wikipedia)を転載しておけば、
~奈(7)良、唐(10)にならって平城京~
~奈良の710(納豆)平城京~
~710(なんと)○○平城京~
 
  (「なんと」は感嘆詞の“何と”または“南都”、○○には“きれいな”“大きな”
  “素敵な”“立派な”“美しい”などの言葉が入る)などがある。

しかし、この「平城京」も100年を経ずして、またまた遷都の憂き目に遭います。
皇位がそれまでの天武系から天智系に変わったことがその大きな理由だと
思われるところですが、第50代・桓武天皇(天智系/737-806年)が、果敢に
遷都に挑んだのです。
最初に長岡京(784年)を造営したものの、なにかとケチの付きっぱなしで
イヤになっちゃったものか、やり直しということで、さらにその後に「平安京」
遷都しました。

ただし肝心なことはその場所で、長岡京にせよその後の平安京にせよ、
それまで「山背(やましろ)国」との字だったのを、わざわざ「山城(やましろ)国」
に改称して遷都に及んだものです。
「背」の字を「城」に改めただけのことですが、聞いて驚け、「言霊信仰」
世界では、これで中国並みの「城」構えが完成したことになるのです。

ちなみに「山背国」とは、「山の背」つまり「山の向こう側の国」ほどの意味
ですが、ではどこから見て「山の向こう側」なのか?
それは、従来の平城京から眺めてということになります。
ですから、なんとはなしに「未開」のニュアンスも漂う「山背国」との文字使い
を改めた今度の「山城国」との新字は、それを払拭した中国並みの近代都市
というイメージを狙ったのでしょう。

ここも蛇足ですが、この年号の語呂合わせ(Wikipedia)を紹介おくと、
~鳴くよ(794)ウグイス平安京~
  →鳴き声である「ホーホケキョ」と平安京とで韻を踏む。
~泣くよ(794)坊さん平安京~
  →平城京の寺院が平安京へ移転するのを禁じられたことなどが関係
   づけられる。

しかし、実はこの気合の入った最先端の都「平安京」にあまり馴染めなかった
天皇もいました。
父・桓武の後の皇位を継承した第51代・平城天皇がその人です。
病を得て在位僅か3年ほどで皇位を弟(第51代・嵯峨天皇)に譲位し、
上皇となりましたが、その後は旧都「平城京」に移り住んだのです。

そればかりか、この「平城上皇」はこんな詔まで出したことがありました。
~やっぱり平安京を廃して、都を再度平城京へ戻すゾ!~
もっとも、上皇によるこの「平城京への再遷都宣言」は現役である嵯峨天皇
の武力行動によって結果的には消滅したのですが、よほど平安京が嫌い
だったのか、はたまた平城京が好きだったのか、その辺のことはよく分かり
ませんが、ともかく「平城京」に対する拘りの強さから、この天皇(上皇)が
「平城」と諡名されたのは歴史的な事実です。

ということで、「城が無くては都と云えぬ」と受け止めた昔々のヤマト民族は、
その根っこに備えていた「言霊信仰」を駆使することで、波乱万丈の末に、
ついに「城ある都」に辿り着いたという一席でした。

そして、たとえ小さな敷地に小さな家という場合であっても、境界塀だけは
きっちり設けるという現代日本人固有のライフスタイル。
これを作り上げたのは、かつて「本物の城」を手にできなかった御先祖様の
「残念気分」のDNAに違いない・・・のかもしれん。



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