日本史の「タブー」08 そして誰もが頓挫した

日本の歴史にはなんとも不思議な現象もあって、たとえば「天皇」の存在
などもそれに当てはまるかもしれません。
それ以前には別の呼び方をしていたのでしょうが、たぶん7世紀くらいには
自分たちの最高権力者に、現在と同じ「天皇」の呼称を用いていたと
思われます。

ただ、希望者なら誰もが、「天皇」になれるというわけではありません。
「アマテラスの子孫」であることが必須の要件です。
逆に言えば、そうした「履歴書」?を持たない者は決して天皇にはなれない
わけですから、この国の権威と権力を手中に収めた上に、祭祀まで独占
した者を「天皇」と呼ぶことにした、いわば日本国の「総家元」のような
存在だったのかもしれません。

ということなら、政治的権力を奪った者・握った者にとっては、
~天皇とは、それなりの圧迫感を備えた鬱陶しくて厄介な、いわば
  「目の上のタンコブ」のような存在~
ということになります。
これが他所の国のお話なた、その後の展開は単純明快で、そうした邪魔な
存在であるなら、容赦なくたちまちおうちに排除されてしまうものです。

権力者自身が何かしらの遠慮を覚えるようでは、つまりは真の権力者とは
言えないわけですから、当然の行動です。
王(天皇)自身の暗殺を企てるものか、はたまたその一族郎党の殲滅まで
も目指すのかは、それは状況次第の選択になるのでしょうが、少なくとも
「鬱陶しい者」をそのまま放置しておくようなことはしません。

ところが、この国では「神の子孫」という特殊事情があることから、暗殺・
殲滅まで踏み込むことはなく、せいぜいがこの「鬱陶しい影響力」を
幾分薄める程度のことに留まります。

当初の頃はともかく、後の時代の「天皇」という権力者は、次第に実力が
伴わない、いわば「弱っちい存在」になっていきました。
第50代・桓武天皇(737-806年)の時代に、国家の軍隊も政府の警察力も
実質的に消滅させるなど、いわば「自主的武装解除」に及んだことが、
そのきっかけになったかもしれません。
要するに、これ以後の朝廷はずっと「丸腰」のままですから、「弱っちい」のは
無理もないわけです。

だとしたら、時の天下人・権力者からすれば、「丸腰」の朝廷の影響力を
排除するなどは、いわば~赤子の手を捻る~も同然の、決して難しい
課題でもなかったハズで、他所の普通の国の権力者なら、まず間違いなく、
「王(天皇)を殺す/王(天皇)家を滅亡させる」などの明確な行動に出て
いたことでしょう。

ところが、この国では、政治的な発言力を失い、軍事的にも丸腰の状態に
あった天皇家に対して、現に権力を握った者の側が「妙な遠慮」をすると
いう、よくよく考えてみれば不可解な言動を示すのが常になっています。

具体的な例を探すなら、たとえば、室町幕府第3代将軍・足利義満
(1358-1408年)の場合がそうでした。
自分の四男・義嗣(義嗣/1394-1418年)を後小松天皇の皇太子にして、
次期天皇に就けることで、天皇家が持つ権威・権力のすべてをわが手中に
横取りしてしまうことが、「天皇の父」になる?予定の義満の目論見でした。

そんな「迂回」をするよりは天皇家そのものを滅亡させてしまう方が、
話は早いし分かりやすいと思われるのですが、その方法を取ることはなく、
なんともまあ、悠長で遠回りで穏やかな方法を選んでいるのです。
計画は着々と進められていき、義満は夢の実現を目前としました。

ところがギッチョン。いよいよ「息子天皇」誕生の直前という段になって、
なんとも信じられないような大逆転を食らいました。
そうです、「夢実現」の直前に、何故か義満自身がコロッと死んじゃった
のです。 あっちゃー! 
早い話が、「天皇家の権威を奪う」という義満の目論見は、ここに至って
ものの見事に頓挫したわけです。

安土城文化村51 禁中並公家諸法度01







安土城(文化村)/禁中並公家諸法度

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戦国時代の雄・織田信長(1534-1582年)もまた天皇の威光を超越する
作業にチャレンジした一人に数えてよさそうな印象です。
新しい天皇の下で自分の実力通りの政治をしたい信長と、そうはさせじと
する時の第106代・正親町天皇(1517-1593年)との間には、「天皇退位」を
巡っての対立が生じていました。

自分の計画を自分の思うとおりに進めたい信長の意に対し、イチイチ
遠慮なしの難色を示すのですから、天皇家は、それこそ~鬱陶しくて
厄介な「目の上のタンコブ」のような存在~
ということになります。

信長にしてみれば、かつて本願寺と真っ向から対峙(石山合戦/1570-
1580年)したように、あるいは「比叡山焼き討ち」(1571年)で見せた
実力行使を、今回は天皇家に対してぶつけるという手段もあったはずです。
なにせ、本願寺に対しても比叡山に対しても、躊躇の姿勢を見せなかった
信長ですから、そのくらいの腹があっても不思議ではありません。

ところが不思議なことに、邪魔なハズの天皇家の権威に対して、こちらも
随分と穏やかな抵抗に留めているのです。
「穏やか」とは、暗殺や殲滅という武力行使とは無縁の、こういう気分の
ことです。
~天皇が神の子孫という権威を備えているなら、オレ自身が神となって、
  子孫に過ぎない天皇家を見下してやろうゾ~

そこで、「信長の宮殿・神殿」とも言うべき性能を備えた「安土城」
(築城/1576年)を実現させました。
その建設意図からすれば、安土城とは信長を祭る「安土神宮」?であり、
信長教の本拠「安土寺」?という位置づけになります。

さて、その「安土神宮/安土寺」には信長による多くの仕掛けが用意されて
いました。
天皇・朝廷関係者が訪れた場合に利用する「控えの間」は、わざわざ
信長が見下ろすような位置・構造に建設されたそうですから、要するに、
こんな思想を示したものなのでしょう。
~神の子孫=天皇より、現人神=ボク(信長)の方が偉いッ!~

要するに、朝廷側に対する無言の恫喝です。
~鬱陶しい存在のアンタたちではあるけれど、オレに対して大人しく
  振る舞っているならば、敢えて暗殺・殲滅を考慮するもなかろうよ~ 
ここまでの態勢を眺めるなら、信長の完全勝利ということになりそうです。

ところが、ギッチョン。
安土城建設から数年後には、信長の方法も頓挫してしまいました。
信長自身が、家臣・明智光秀の謀反「本能寺の変」(1528?-1582年)に
倒れてしまったからです。

さて、この後に天下を掌握した徳川家康(1543-1616年)も、天皇家を
自分の支配下において、自在に制御したい気持ちを強く持っていました。
家康の考え方も前の二人と同様で、暗殺・殲滅などはなしで、朝廷を
コントロールすることは充分に可能と踏んだわけです。

こんな考えだったかもしれません。
~昔の足利義満にせよ、最近の織田信長にせよ、そのやり方自体が
  いささか性急に過ぎたのではないのか?~

そこで家康は、自らの幕府の開府にあたり、朝廷側にも注文を付けています。
~えぇですか、朝廷のお仕事とは、政治に関わることではなく、学問の道に
  精進することですヨ、お分かりですか~
 「禁中並公家諸法度」(1615年)

その効果は絶大で、この後において朝廷が幕府路線に口を挟むことは
ありませんでした。
つまり、家康のやり方は成功を収めた・・・かのように見えました。

ところが、ご存知の通り。
明治維新(1867年)において、幕府は政治素人の朝廷にひっくり返された
のですから、要するに長い目でみれば、家康もまた自らの目論見を頓挫
させてしまったことになります。

みんながみんな、それなりの思想を体し、そこそこいいところまで行っている
のに、この国では朝廷を相手にすると、結局どこかの時点で頓挫してしまう
のですねぇ。
こういうのって~画龍点晴(がりゅうてんせい)を欠く~って言うんだっけ?

ところが、事実は小説より奇なりッ!・・・この言葉は根っから間違っている
そうで、こんな説明に遭遇してしまったのです。
~「画龍」を「がりゅう」とは読まない。 また「点睛」を「点晴」とは書かない~
ですから、使い慣れない言葉に対する筆者折角の挑戦・・・こちらも見事に
頓挫したことになるわけです。



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