日本史の「女性」25 従一位なら噂も消せる?

こ江戸幕府創立者・徳川家康(1543-1616年)は幕府の公式学問として
朱子学を採用しました。
最高の徳目を「孝(親孝行)」とする朱子学は、家臣や諸藩に忠誠を
求める幕府にとっても非常に都合の良いものだったからです。
実際、「孝」の実践に熱心に励んだ将軍も誕生しています。

たとえば、第五代将軍・徳川綱吉(1646-1709年)なぞは、幼くして父・家光
(第三代将軍/1604-1651年)を失くしていたこともあって、一途な「孝」を
生母・桂昌院(通称・玉/1627-1705年)に向けて発揮しています。

~ボクに今日(将軍職)があるのは、取りも直さず母上のお陰である。
  だからして、飛び切りの「親孝行」をして差し上げたいものだ~

とはいうものの、なにせ将軍家というリッチ極まりない環境にあるのです
から、少々のプレゼント程度では「親孝行」には程遠い。

~「肩たたき無料券」を贈るのではイマイチだしなぁ。 ボクにしかできない
  プレゼントって何ゾないものだろうか? ・・・そうだ、位階がよろしいゾ。 
  それもどうせなら「日本史上・女性最高の位階」を頂く・・・
  これなら掛け値なしの「親孝行」になろうというものダ~


早速のこと朝廷に向けた工作が始まります
しかし、「位階」は朝廷の専専権事項?ですから、現職将軍とは言っても、
そこは頭を低くして、所定の手続きを踏む必要があります。
しかも、何事につけ前例(慣例)重視?を基本とする朝廷に向けて、それこそ
前例のない「日本史上・女性最高の位階」を求めるのですから、一朝一夕で
実現するはずもありません。

しかもタダではコトが運ぶほど、世の中甘いものでもありません。
当然そこには対朝廷用の運動資金も必要になり、早い話が、多額の
謝礼金?ワイロ?が動くことになります。
こうした朝廷相手の折衝は、綱吉にとっても諸大名を相手にする手慣れた
ものとは、ちょいとばかり勝手が違いますから、それなりの神経を
使わなくてはなりません。

~ええぃ、ホント精神的にもくたびれちゃうよなぁ・・・なるべく早くに朝廷から
  「OKサイン」をいただいて肩の荷を下ろしたいものだ~

そして、この年元禄14年(1701年)も、恒例通りに天皇の使者に対する幕府の
接待、つまり勅使饗応が進められていました。
綱吉としても、「生母の位階」獲得を目指しているのですから、こうした機会を
捉えてはなるべく良い心象を朝廷側に与えておきたいところです。

このイベントの責任者に、新米ではなく、高家(幕府の儀式典礼を司る役職)
筆頭であるベテラン・吉良上野介(義央/1641-1703年)を指名したのも、
その心ヅもりが形になったものでしょう。

また吉良は吉良で、準備の実務を担当するスタッフを、これも初心者でなく
経験者を指名する配慮も見せています。
将軍の思いの丈が込められた特別な行事に、失敗は許されないわけです
から、こうした人選は至極妥当な運びです。

生母・桂昌院の位階獲得に向けたこの年の将軍・綱吉による勅使饗応は、
こうして、考えられる限りに最高最善の体制が組まれました。
~ここまで骨を折ったのだから、勅使とて気分の悪かろうはずもあるまい。
  やれやれ、今日が終われば念願の位階獲得も見えてくるゾ~


ところがギッチョン・・・
饗応イベントの最終日に至って、想定外?のハプニングに見舞われました。
~饗応準備役主任?浅野内匠頭(1667-1701年)が、吉良めがけて刃傷~
勅使をお迎えするどころか、その会場そのものが修羅場になる大失態の
一報を受けた綱吉も頭の中は真っ白。

そりゃあ、そうでしょう。
幕府のメンツが丸つぶれになるだけでなく、それまで積み重ねてきた細心の
朝廷工作も瞬時にしてチャラになってしまいます。
~ボクの渾身のプレゼントである母上の位階はもはや完全にボツだあぁ~
将軍・綱吉のとことんの落胆も無理はありません。

桂昌院01 徳川綱吉51









綱吉生母・桂昌院/将軍第五代将軍・徳川綱吉

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将軍・綱吉は、この浅野内匠頭に対し「本人切腹/御家断絶」を決定しました。
本心のところでは、「磔/打ち首/獄門」くらいの刑を味わせたかったかも
しれませんが、そこは曲りなりにも法治国家の長ですから、グッと堪えたわけ
です。 しかし、この時の「本人切腹/御家断絶」について、こう見る現代人も
少なくないようです。

~この時の浅野内匠頭の行為の言動に激しくプッツンした将軍・綱吉は、
  感情に流されて、不当に厳しい内容の判決を下した~

ところがそれは明らかに誤解で、早い話が将軍をお護りする以外の目的を
もって、「殿中差」(腰の刀)を抜くこと自体が、すでに「切腹/御家断絶」に
該当する法令違反?犯罪?なのです。
ですから、こうした法が既に整備されている以上、綱吉がプッツンしていようと
いまいと、これと違う最終判決?が導き出された可能性はてんで低かったと
思われます。

さて、ここから先の顛末は、いわゆる「元禄赤穂事件」(1701/1703年)として
よく知られていますが、では将軍・綱吉が気をもんでいた生母・桂昌院に
対する「位階」問題の方はどうなったのか? 

ご安心ください。
殿中刃傷沙汰の翌年(1702年)には、「藤原光子(宗子)」というニュー・ネーム
を頂き、併せて女性最高位である「従一位」の官位も賜っていますから、
将軍・綱吉の本懐は遂げられたことになります。

しかしまあ、なんでまた将軍・綱吉は、いかに「親孝行」とは言え、こうまで
ムキになって「日本史上・女性最高位(従一位)位階を目指したのか?
ひょっとしたら、生母(桂昌院」の出自?にその理由があったのかも
しれません。

ローティーンの頃の桂昌院(この頃は通称・玉)は、家光側室・お万に仕えて
いましたが、長じて家光に見初められて側室となるや、その後二十歳の頃には
この綱吉を生んでいます。

しかし、実は玉自身のことは、確かなことが分かっていません。
徳川家の公式記録では「父親は関白家の職員」ということにされているものの、
当時もあるいは本人の死後にも、世間ではやれ西陣織屋の娘/畳屋の娘/
大根売りの妹/八百屋の養女/など、実際にはもっと低い身分の出身という
噂が囁かれていたようです。

そうした中にはこんな見方もありました。
~公家勤務の職員が、そこで働く高麗人の女に産ませた娘が玉~
つまり、桂昌院は日本人と高麗人のハーフであると言っているわけです。
(だとすれば、将軍・綱吉には高麗人の血が1/4混じっていることになる)

自分の母に対するこうした世間の詮索・噂を、綱吉は綱吉でうるさく感じていた
かもしれませんし、ひょっとしたら、そこに負い目?にも似た感情を覚えていた
かもしれません。
そこで将軍・綱吉は、自らその問題解消に乗り出した?

仮に桂昌院の出自に、噂のような幾分のキズ?があったとしても、
~日本史上初めて「従一位」という破格の位階を備えた女性~
という大威光で飾り立てることができれば、そのハンデを補って余りあります。

もしそうだったら、綱吉が払った位階を得る努力は、同時に自分自身が
感じているある種のコンプレックスを、誰にも文句を付けさせないレベルでの
華麗な演出や立派な脚色を用いることで、解消もしくは解決を図った行為と
見えなくもないと言えそうです。

もっとも「親孝行」の経験に決定的に乏しいアナタに、このあたりのココロの
機微を、理解してもらおうとしていること自体が、実はハナから無駄で野暮で
ナンセンスなお話なんですがネ。


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